15.三重生活
文化祭まで、あと2週間。
放課後の教室は、色画用紙と絵の具と、どこから運び込んだのか分からない大量の段ボールで埋まっていた。机は壁際に寄せられ、床には黒いビニールシートが敷かれている。窓から差し込む夕方の光が、宙に舞う埃を一粒ずつ照らし出していた。
その真ん中に、ユウキが仁王立ちしていた。
「というわけで! 2年3組の出し物は、お化け屋敷に決定いたしました! 実行委員長、この軽部祐樹が、全身全霊をかけてお送りします!」
誰も頼んでいないのに、ユウキは腕を組んで胸を張る。何人かが手を叩き、何人かが「誰が委員長だよ」と笑った。
俺は壁際で段ボールを潰しながら、その光景を眺めていた。
「はいはい、委員長。じゃあ聞くけどさ、予算いくらだと思ってんの」
アヤカが企画書を丸めて、ユウキの後頭部を軽く叩く。
「え? えーっと……3万くらい?」
「5千円」
「ごせ……!?」
ユウキが膝から崩れ落ちた。教室がどっと沸く。
「5千円でどうやって恐怖を演出しろってんだよ! スモークマシンは!? 特殊メイクは!?」
「段ボールと黒ビニールと、あんたの叫び声で十分でしょ」
「俺は効果音じゃねぇ!」
アヤカは鼻で笑って、企画書を俺の方へ差し出した。
「タクミ、ここの導線どう思う? 入口と出口が同じだと、絶対に詰まるんだよね」
受け取ったプリントに目を落とす。教室の見取り図に、赤いペンで矢印が何本も引かれていた。
「……ああ、うん。ロッカーの裏を通せば、一方通行にできるんじゃないか」
「でしょ? 私もそう思ってたんだよ」
アヤカが満足そうに頷いた。ユウキが「おい、俺の意見は」と抗議したが、誰も聞いていない。
こういう時間が、俺は好きだった。くだらなくて、生産性がなくて、だからこそ何よりも安心できる。
ただ最近、その安心の底が、やけに薄い。
ここ数週間、俺の一日は3つに割れていた。
昼は学校。夕方から夜はコンビニ。そして深夜、俺はベッドに入り、明晰夢の世界へ落ちていく。
シオリと空を飛び、ニュースを追いかけ、事故や火事の現場に駆けつける。夢の中では疲労をほとんど感じない。息が切れる感覚は、現実の記憶からくる錯覚にすぎないのだと、俺はとっくに知っている。だから、いくらでも動ける。
問題は、目が覚めた後だ。
夢の中の身体がどれだけ平気でも、ベッドで眠っていたはずの生身の身体は、ちっとも休めていない。タイマーが鳴るたびに、身体の芯へ泥が一層ずつ塗り重ねられていくような感覚があった。
それでも、あの陥没事故の運転手のことを思い出せば、やめようとは思えない。あの人は今、病室で目を覚まして、家族と話をしているはずだ。俺たちがあの夜に動かなければ、そうはならなかった。
だから、いい。眠れないくらい、どうってことはない。
そう思っていた。
段ボールを切る作業に戻って、しばらく経った頃だった。
カッターの刃が、途中で止まった。
いや、止まったことにすら、俺は気づいていなかった。
「――タクミ。おい、タクミ!」
肩を強く揺すられて、俺は跳ね起きた。カッターを握ったまま、段ボールの山にもたれて眠っていたらしい。口の端が少し濡れている。慌てて袖で拭った。
「うわっ、悪い! 俺、寝てた?」
「寝てたどころじゃねぇよ。5分くらい微動だにしなかったぞ。俺、本気で救急車呼ぶか迷ったからな」
ユウキが大袈裟に胸を撫で下ろしてみせる。周りのクラスメイトが何人か、心配そうにこっちを見ていた。
「陸奥、大丈夫? 顔色すごいよ」
「保健室行ったら?」
口々にそう言われて、俺は頭をボリボリとかいた。
「いや、ほんと大丈夫。ちょっと昨日、夜更かししただけだから」
笑ってみせたが、アヤカは笑わなかった。彼女は俺の前にしゃがみ込み、下から顔を覗き込んでくる。
「ちょっとって、何時まで起きてたの」
「……えーと、2時くらい?」
「バイト、10時上がりだよね」
言葉に詰まった。
アヤカの目は、まっすぐで、逃げ場がない。
「……ゲームしてた」
「タクミ、ゲーム機持ってないじゃん」
やばい。素で忘れていた。
「……スマホの、やつ」
アヤカはしばらく俺の顔を見つめて、それから小さく息を吐いて立ち上がった。
「ふーん」
その「ふーん」が、いつもの拗ねたような響きではなかった。もっと硬くて、もっと静かな音だった。
彼女は何も追及しないまま、企画書を持って別の班のところへ歩いていった。その背中を見送りながら、俺は膝の上のカッターを握り直した。
作業が一段落した頃、俺は水を飲みに廊下へ出た。
紙コップに水を汲みながら、なんとなくスマホを開いた。
そこで、指が止まった。
タイムラインに、見覚えのある夜景が流れてきていた。あの日のファミレスの駐車場だ。
写真ではなかった。動画だった。
十数秒の、手ぶれのひどい映像。炎の手前で、誰かが横倒しになったタンクローリーの運転席のドアに手をかけている。金属の裂ける音が、スマホの小さなスピーカーの中で割れていた。
その少し上、炎に照らされた空に、もう一つ、小さな人影が浮いていた。
引用の数が、4桁になっていた。
(……なんで、今ごろ)
あの夜から、もう2か月近く経つ。写真が出回ったことは知っていたし、それはもう諦めていた。でも、動画を上げた人間はいなかったはずだ。誰かが今になって、自分の撮ったものを思い出したんだろうか。
顔は映っていない。たぶん、映っていない。
俺はアプリを閉じて、水を一口飲んだ。
そのとき、手の中でスマホが震えた。
画面を見て、心臓が一度だけ大きく跳ねた。
登録していない番号。だが、俺はその並びを覚えていた。あの日、河川敷で受け取った名刺に印刷されていた数字だ。
橘薫。
指が動かなかった。
出れば、また何かが始まる。あの人は、悪い人ではないと思う。少なくとも、あの河川敷で俺に嘘をついている感じはしなかった。危害を加えるつもりはない、と彼女は言った。君が望むなら夢と現実を引き剥がす方法も一緒に探す、とも。
でも、今この電話に出たら。
俺は廊下の窓ガラス越しに、教室を振り返った。
ユウキが段ボールを頭からかぶって歩き回っている。誰かが後ろから押して、ユウキが派手に転ぶ。アヤカが呆れた顔で手を叩いて笑っている。
その光景が、やけに眩しかった。
俺は、震え続けるスマホの側面を親指で押した。
着信音が途切れる。
画面には、不在着信が1件、と表示された。
(……ごめんなさい)
誰に向けた謝罪なのか、自分でもよく分からなかった。
帰り道、自転車を押して駅前の通りを歩いた。
夕暮れのオレンジが、シャッターの降りた店先を照らしている。前を歩く親子連れの影が、ゆっくりと長く伸びていく。
昨日の深夜、俺は何十キロも先の空を飛んでいた。音を置き去りにして、街の光を線に変えて。
今日の俺は、自転車のスタンドを蹴り上げるのに二回失敗している。
どっちも俺だ。どっちも本当の俺のはずなのに、その二つがだんだん噛み合わなくなってきているのが、自分でも分かっていた。
ポケットの中のスマホは、それきり鳴らなかった。
家に着いて、自転車に鍵をかける。玄関の明かりが灯っていて、中から夕飯の匂いがした。
中では母さんが、テレビをつけたまま俺の分にラップをかけているはずだ。この何年か、ずっとそうだ。
俺の一日は3つに割れている、と俺は思っていた。学校と、バイトと、夢の中。
本当は4つある。4つ目にだけ、俺は名前をつけていなかった。
(……たぶん、あと少しだけなら、もつ)
そんな根拠のない見積もりを立てて、俺はドアノブに手をかけた。




