大魔術師は没頭した。
……おや!?爺さまのようすが……!
車の計器のようなものに意識を奪われていると、母親が不意に問いかけてきた。
「信吾、あんた階段から落ちたらしいけど本当に大丈夫なの?」
すると弟はそのことは聞いていなかったのか、え、兄ちゃん階段から落ちたの!?と驚きの声を上げていた。ちなみに私が助手席、弟が後部座席に座っているいう位置取りになる。それを聞きながら、私は母親の質問に答える。
「大丈夫らしい。ベテランの警官の人にも診てもらったから」
坪という名の中年警官が私の傷を診て下した診断はなかなかに的確なものだった。擦り傷のでき方や打撲痕の形から、確かに落ちてできた傷だろうとほぼ断言した。
「そう。でもどこか違和感があるようなら早めに言いなさいね。悪くなってからじゃ遅いんだからね」
うん、と私が短く返事をした直後に、後ろの席から疑問が飛んできた。
「兄ちゃん、髪バッサリ切ったんだね。」
それについて質問してきたか。切った場所などを問われるのが怖いな。
「まあ。似合ってない?」
「ううん、めっちゃ似合ってる。ていうか前の髪型よりカッコいいよ?なんかサッカーとかやってそう。」
ほう、なかなか好評のようだ。自分で切ったのだが、悪くないものだな。
「そっか、ならよかった」
「……それより、どうしたの?気分転換?…もしかして、学校行く気になったとか」
「悠…」
おおっとここで、少し咎めるような口調の母親の言葉から、弟の名前が判明した。確定ではないが。ユウ……の後に何もつかなければ弟はユウというらしい。漢字は後で確認しよう。いや、それどころではないな。学校へ行く気に、というフレーズが聞こえた。つまりは里中信吾は学校に行っていなかったのだろうか?いわゆる不登校というやつなのか。それで髪の毛が伸びっぱなしだったというわけか。なかなか前衛的なファッションだ、と思っていたのだが。そうなると、私の髪を切るという行動は自分を変えようという決意の表れに映ったわけか。ある種の女性が失恋を断ち切るために髪を切る、というのと同じように。そういった意図はまあなかったわけだが。取りあえずは曖昧に答えを返すのが吉だろうか。日本人というのは中間にある意見を好むというからな。この場合はちょっと違う気もするのだが。ここまで、0.07秒ほどで思考し、返答を口に載せる。
「…分からない」
その言葉に、弟は―――ユウは、そっか、と残念そうに呟いた。
里中信吾は結構、家族から好かれていたようだ。では不登校になった理由はおおよそ、学校での人間関係か。学校のような空間では色々と面倒事が多いからな。私もまだ少年で、魔術学院に通っていたころは様々なことがあったものだ。懐かしい。それにしても、日本の学校とはどういったところなのか、実際に検分してみたいという意欲が生まれてくるな。
「でも、前は行かないって言ってたじゃない?少し気持ちが変わったのかしら」
なるほど、以前ははっきりと否定の言葉を口に出していたのか。なるほど母親の口調が少し明るくなったわけだ。ユウはそれに気が付いたのか、あっ、と声を洩らして、そして続けて言った。
「…すぐにじゃなくてもいいけど、僕は一学期みたいにまた兄ちゃんと一緒に学校通いたいから。…待ってるね」
おお、なんという気持ちだろうかこれは。弟という存在の破壊力は中々のものだな。愛い奴め。む、今言った言葉から察するに、ユウは中学1年なのだろうか。ほう。声変りが全く始まっていないから、もう1、2歳下なのではと勝手に推測していた。あ、というか信吾も声変りがまだだな。己のことであるのに見落としていた。つまり声変りが遅いのは遺伝というか、一家の性質である可能性が高いな。父親も声変りが遅かったという事であれば恐らくは正しいのだろう。そのうち質問してみるとするか。
思考を打ち切ると、ユウが抱いた希望を裏切らないように私は小さく笑い、うん、と呟いた。できればもう少しだけ待ってほしい、というような雰囲気を醸しつつ。まあ、実際は今すぐにでも突撃したいところなのだがな。
そうこうしているうちに車は住宅地に差し掛かり、間もなく停車した。この一軒家が里中邸のようだ。車のエンジンが切られるや否や、私はシートベルトを外して降車した。
ほう、これが現代日本の家屋の建築様式というわけか。割とシンプルな造りをしているようだな。周りの家を見てみると、似たような造りの家とそうでない家が混在している。こういったシンプルな家は建築にかかる費用が抑えられるのだろうか。そんなことを推察しながらも、私はこれから暮らすことになる自宅へと足を踏み入れた。うむ、中々に玄関も狭くはないし、快適そうではないかと思う。ああ、そういえば日本では靴を脱がなければならないのだったな。この風習は普段の生活では利点が多いだろうな。まず、靴に比べ室内が汚れにくいということだろう。また、夏の日本は湿度が非常に高いため、靴での蒸れが起きにくいだろう。足の裏というのは血管が集中しており、体温の調節において重要な役割を果たすからな。そのため、寝るときはなるべく素足で寝るほうが体温が自主的にコントロールしやすく良いのだとか。まあ、真冬には推奨しないが。
玄関を過ぎ扉を抜けると、そこはリビングだった。きちんと片付けられており、掃除も行き届いているようだ。これは過ごしやすそう――――
私は思わず、思考を中断した。目に映ったのは遺影、そして位牌。遺影の中に居るのは男性だ。そしてその顔は、信吾やユウと共通する部分が多い。……父親は亡くなっていたか…。それは……。
そう考えていると、母親が遺影の前で瞑目して手を合わせ、ただいま、と柔らかく言った。続けてユウも同じ行動をしたため、私も後に続く。
信吾の父よ。あなたに会えなくて非常に残念だ。どんな人であったかもわからないし、私の中身はもはやあなたの息子ではないが、今は手を合わさせてもらいたいと思う。
ん。そのタイミングで、腹が減った、と私の腹の虫が訴えかけてきた。昼飯はだいぶ遅かったが、ほとんど消化は終えていたようだ。
母親がそれを聞いて噴き出し、ご飯はとってある、と苦笑しながら言った。私は少し恥ずかしい思いをしつつも、遅めの夕食を摂ることにした。ちなみに、母親とユウはもう食べていたらしい。私が家に居ないと気付いたのはその後だったのだとか。曰く、信吾は夕飯時に寝ていて起きてこないという事が普段から多かったということだ。
夕飯は白ご飯に揚げ出し豆腐、味噌で味付けした肉野菜炒めだった。ラーメンを食べたときもそうだったが、私はまだ箸の扱いを習熟していないためゆっくりと慎重に食べるようにした。美味い食事だったが、揚げ出し豆腐は特によかった。揚げた豆腐にかかった大根おろしと甘じょっぱいつゆがしっかりと絡み、なんとも美味だった。薬味を載せたものも一味違い、味わい深かった。なんというか、ホッとするような優しい味で人心地つけた。
あんた揚げ出し豆腐好きねえ、と母親が呟いていたが、もしや信吾も揚げ出し豆腐が好きだったのだろうか。これはもしかすると、舌が覚えている、というやつなのかもしれない。まあ信吾にせよ私にせよ、この味はかなり気に入っていたので、美味かった、と返しておいた。
食後は風呂から上がってきたユウと入れ違うように風呂に入った。昼間に居た書店には、タイムトラベラーが風呂に入る内容の漫画があり、小冊子を試し読みできた。そのため日本式の風呂の入り方は問題なく敢行できたと思われる。
さて、風呂から上がると、ユウが椅子に座って机の前で何かを見ている。あれは…?もしや。パーソナルコンピューターというものか…!?世界のあらゆる知識に通じるというあの魅惑の…!
私の足は導かれるようにふらふらとパソコンへ向かった。
「あ、兄ちゃん風呂あがったんだ。……?どうしたの、そんなにノーパソ見つめて」
ノーパソ?ああ、ノートパソコンの略語か。身近な略語に早速出会えたな。ありがたいことだ。願わくばそのまま、私にその禁断の匣の使い方を教えてはくれまいか。そう考えた私だが、信吾がパソコンをバリバリ使えていた人間だったのなら教えを乞うのは明らかに齟齬が生じてしまう。悩ましいところだ……!!
「あー、もしかして使いたいの?前にも使ってみたいって言ったけど、30分で諦めてたじゃん…」
くっ……これはなんという好都合…!!まさに僥倖……!!
「今度はちゃんと覚えるから。使い方、教えてくれないかな」
「ほんとにぃ…?まあ、いいけど。それじゃ早速座って。確かローマ字入力からちゃんとできなかったよね?はい、これ早見表」
なんというできた弟なのだ……。色々な意味でな。
さて、さっさとこの早見表を覚えてしまうとするか。……ああ、母音と子音の組み合わせなだけか。もうすでに記憶したも等しい。ただ、疑問なのは『ぢゃ』の行だが…入力する場面がほぼ見当たらないな。それよりも『どぅ』であったり『でぃ』の方が使う可能性が高いと思うのだが。この早見表が完全なものであるのか判断に困ってしまうな。
まあそれはともかく、キーボードを見て配置を覚えよう。これは……何故アルファベット順に配列が成されていないのだろうか。まずそういった疑問が生まれた。もしくは母音を打ちやすいように一箇所に集めるだとか……いや、左手でEとA。右手でUとI、Oを打つことを想定されているとしたらどうだろうか。右利きの人間は圧倒的に数として多いため、右手に母音を3つ割り振るというのは合理的か。……というかそもそも、キーボードの前身たるタイプライターが開発されたのは日本ではないからな。日本を基準に考えることが間違いか。しかし、試行錯誤が好きなのが日本人の気質だと思ったのだが、日本人の入力に適したキーボードの開発というのは行われていなかったのだろうか?まさかとは思うが、このキーの右下のひらがながせめてもの抵抗なのだろうか。それにしては配置がばらばらのような気もするが。たちつてと、は固まっているが…さしす…そ。せはどこに行った!?だいぶ右の方にあるではないか。この発想を出した人間には何か意図があったのかもしれないが、納得がいかない…。
「ま、最初は見ながら覚えていけばいいと思うよ。それじゃ、早速インターネットでも使ってみようか。マウス操作して、カーソル…矢印をその青いアイコンに合わせてみて。……うん、そのeをかたどってるやつ。それで、マウスを素早く2回クリックしてみて。うん、そう。クリック、ダブルクリックくらいは分かるかな?マウスの左を1回クリックするのと2回クリックするの。で、今ウインドウが開けたね。ホームは検索用サイトに設定してあるから、取りあえず何か調べてみよっか。」
私は『マクラファティ転位によるフラグメントイオンの形成』と打ち込み、検索した。
ユウは「ちょっと何やってるか分からない」と話していた。たしかに、最初に調べる内容ではなかった気がする。
その後、お気に入りだとかなんだとかを習いつつパソコンの操作を覚えていき、それは私達に就寝の声がかかるまで続いた。もっとも、夕方寝たから寝られないと言い訳をした私は、もう少しならパソコンを弄っていても良いと許されたが。ユウは割と眠そうだったため、おとなしく寝たようだ。
さて、朝までにどの程度の情報を得られるだろうか。楽しみである。
お読みいただきありがとうございますん。
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