第一章 報われない十年と、笑う家族
「美咲さん……ごめんなさいね」
「何言ってるんですか、お義母さん。ほら、もう少しですよ」
「でも、あなた、腰が痛いでしょう」
「大丈夫です。あとで湿布貼りますから」
美咲は和子の身体を支えながら、ゆっくりと廊下を歩いていた。
右手で腰を抱き、左手で細い腕を支える。
和子の足は思うように動かない。
一歩。
また一歩。
たった数メートル先のトイレまで行くのに、十分近くかかることもあった。
「痛くないですか?」
「今日は……少しね」
「無理しないでください」
そのとき、玄関のドアが乱暴に開いた。
「ただいま」
健太だった。
革靴を脱ぎ散らかしたまま廊下へ上がってくる。
美咲は和子を支えたまま振り返った。
「おかえりなさい」
「おい、美咲」
「なに?」
「飯は?」
「今、お義母さんをトイレに――」
「そんなの見れば分かるよ。飯はどうしたって聞いてんだ」
「煮物はできてる。お味噌汁はまだだから、あと十五分くらい――」
「はあ?」
健太は露骨に顔をしかめた。
「俺、今日何時から働いてると思ってんだよ」
「ごめんなさい。すぐ――」
「美咲さん」
和子が苦しそうに声を出した。
「私はいいから……先に健太のご飯を……」
「駄目です」
美咲は即座に答えた。
「お義母さん、我慢してたでしょう」
「でも……」
「大丈夫ですから」
そのやり取りを見ていた健太が鼻で笑った。
「ほんと要領悪いよな、お前」
美咲の手が一瞬だけ止まった。
「介護なんて一日中やってるわけじゃないだろ。空いてる時間に夕飯くらいちゃんと準備しとけよ」
「今日は病院もあったから」
「言い訳するなよ」
健太はそのままリビングへ向かった。
そしてソファに腰を下ろすと、テレビをつけた。
「おい美咲、母さんが呼んでるぞ。さっさと連れて行けよ。俺は疲れてるんだ」
美咲は何も言わなかった。
ただ和子の手を握り直した。
「行きましょう、お義母さん」
「……ごめんなさいね」
「謝らないでください」
「私がこんな身体じゃなければ」
「それ以上言ったら怒りますよ」
少しだけ笑ってみせる。
和子も弱々しく笑った。
そこへ階段を下りてくる足音がした。
「お父さん、おかえりー」
娘の梨奈だった。
スマートフォンを片手にリビングへ入る。
「梨奈。お前、今日大学は?」
「午後だけ。友達とカフェ行ってた」
「いいなあ、学生は」
「お父さんこそ会社で偉いんだから楽でしょ?」
「馬鹿言え。副社長は忙しいんだよ」
二人の笑い声が響く。
梨奈が美咲を見る。
「お母さん、今日のご飯なに?」
「肉じゃがと、焼き魚」
「えー。また和食?」
「おばあちゃんが食べやすいものにしてるから」
「私、パスタがよかった」
「明日作るよ」
「明日じゃなくて今日食べたいんだけど」
「じゃあ、自分で作ってくれない?」
美咲がそう言うと、梨奈は目を丸くした。
「なんで?」
「今、おばあちゃんの介助してるから」
「それお母さんの仕事でしょ?」
美咲は娘を見た。
梨奈は悪びれた様子もなく続けた。
「ていうか、お母さんってずっと家にいるだけで楽だよね」
健太が笑った。
「おいおい、言ってやるな」
「だって本当じゃん」
「まあな」
「私なんて就活とか考えなきゃいけないし」
「お前はうちの会社来ればいいんだよ。俺が何とかする」
「ほんと?」
「当たり前だろ」
「やった!」
二人は笑った。
美咲の隣で、和子が俯いた。
トイレから戻り、和子をベッドへ寝かせる。
毛布をかけると、和子が美咲の手を握った。
「美咲さん」
「はい?」
「本当に、ごめんなさい」
またその言葉だった。
美咲は困ったように笑った。
「だから、謝らないでください」
「健太も……梨奈も……あなたに甘えすぎている」
「家族ですから」
「家族だからこそよ」
和子の声が震えた。
「家族だからって、何をしても許されるわけじゃないでしょう」
美咲は答えなかった。
和子は天井を見上げた。
「あなたがうちに来てくれて、よかった」
「急にどうしたんですか」
「本当の娘みたいだと思ってるの」
「……お義母さん」
「いいえ」
和子は美咲を見つめた。
「本当の娘以上かもしれないわね」
美咲は笑った。
「だったら、娘として言います」
「なあに?」
「長生きしてください」
和子も笑った。
「命令なの?」
「命令です」
「怖い娘ね」
その夜、美咲は眠っている和子の呼吸を確認してから部屋を出た。
リビングでは、健太と梨奈がテレビを見ながら笑っていた。
テーブルの上には、美咲が作った夕食の皿。
流しには二人が使った食器が重ねてある。
「ごちそうさまくらい言ってよ」
美咲が呟く。
健太はテレビから目を離さなかった。
「聞こえてるよ」
「だったら言えばいいでしょう」
「面倒くさい女だな」
梨奈がクスクス笑う。
「お母さん、細かすぎ」
美咲は何も言わず、食器を洗い始めた。
水の流れる音だけが、妙に大きく聞こえた。
そんな日々が、いつまでも続くのだと思っていた。
けれど――。
和子はその冬、静かに息を引き取った。
最期に握っていたのは、美咲の手だった。
「ありがとう」
それが最後の言葉だった。
十年間。
美咲が聞きたかった言葉を、最後に和子だけが言ってくれた。
葬儀の日。
多くの参列者が帰ったあと、美咲は祭壇の前に座っていた。
白い花に囲まれた和子の遺影は、穏やかに笑っている。
「お義母さん」
美咲は小さく呟いた。
「私のほうこそ、ありがとうございました」
その背後で。
健太が廊下へ出ていった。
スマートフォンを耳に当てる。
「……ああ。終わった」
小さな声だった。
美咲には聞こえていないと思ったのだろう。
「四十九日が済んだら動く」
少し間を置いて。
健太は笑った。
「やっと俺の時代だよ」
美咲は振り返らなかった。
ただ和子の遺影を見つめていた。
そして静かに目を閉じた。




