赤か黒か
「おい見習い、パッセルの小瓶は?」
怒声に似た声でそれを聞けば
彼は慌てたように戸棚から取り出して調理台の上にそれを置き
「3番テーブル、オーダー行ってきます」
ホールの様子をちらりと見て、足早にキッチンを後にして
隣で調理する、狼の耳を持つ男が愉快そうに告げる
「賭けは俺の勝ちですかね?、コルベットさん」
「明日が給料日ですよ」
ーー新人のウエイターが何時まで続くか?
それはいつも、彼等がやる賭け事であり
今まで長い事やってきたのだが
給料日を迎えたウエイターはアヤトと名乗った彼だけだった
コルベットは初めて、その男を見た時
長くは続きそうにないと、そう思っていて
料理の一つすら知らず
調味料も、素材も何一つ答えられず
それでいてなお、飄々とした態度でいて
今まで見た、どのウエイターよりも芽が無さそうだと
そんなことを考えたはずだが、今の彼は
たとえ俺がわざと個数を少なくオーダーしろと言っても
在庫の分をきちんと把握し、適切な量を仕入れ
あまつさえ、旬ものや料理の解説すらこなす知識を持ち
そしてなお、驕った態度を取ろうとはせず
奴隷たる俺達にまで、謙虚な態度を続けていて
そんな事を考えていれば
ホールから怒り狂った怒声が聞こえてくる
「何だこの冷め切ったスープは!!」
……冷製スープを出した覚えはない
それを作った筈の丸々と太った獣人をギロリと睨めば
そっと、その目を逸らして
彼は確か給料日まで、彼がここに居ない事に
賭けていた事を思い出し、舌打ちをする
「わざとやりやがったな?」
彼は、目を逸らしたままボソボソと弁明をする
「…だって、負けちゃうと思って」
そういう彼も不味いことになった自覚は有るのだろう
それは釈明というより、言い訳であり
彼が思い描く以上に事態は重大だと言えて
その自覚はあるようには見えない
「ホールに出れんのはウエイターだけって知ってるよな?」
獣人がこの店で働いていると知られられば
高級店たる店の評判はガタ落ちとなってしまう
つまり、この事態に対応出来るのは人間だけで
そんな人間は俺達を小馬鹿にする無能達と
ここには居ない総料理長
そして賭けの対象たる見習いのアヤトだけであり
「大変申し訳ございませんでした」
キッチンの小窓から見える彼は怒らせないように
丁寧な謝罪を繰り返しているものの
客の怒りは収まることを知らず
彼にワイングラスを乱暴に傾けて
頭を下げたままの彼の髪を濡らすが
それでも、アヤトは頑なに頭を上げようとはしない
「本当に謝罪する気持ちがあるなら」
「飲んで見せろ」
そう言って、高そうな服を着た客は
絨毯の上に皿の中身をぶち撒けて
ドロリとしたポタージュスープが床一面に広がり
コルベットは怒りを抑えきれなくなりそうになる
それは、隣の彼も同じらしく
「なんだよアレ、そんなん出来るわけねぇだろ」
奴隷ならまだしも、彼は人間であり
そして奴隷たる自分たちですら憤りを覚える態度に
提示された条件は尊厳一つない内容
そんなことする必要は無く
返金を行って、謝罪しその場を収めるのが正解だが…
彼はその場に跪き、まるで犬がそうするように
地面を舐め取り始めて
それを見た客は、忌々しそうにその頭を踏みつけるが
彼はまるで気にしないかのようにそれを続けて
絨毯に僅かばかり、シミが残るだけになる
「これでご満足頂けましたか?」
客の目を見据えて、怒りをあらわにするでもなく
ただ、淡々と笑顔でそれを告げるアヤト
それを見てしまった客は
まるで忌諱する物を見るような目をアヤトに向けて
「…早く代わりのスープを持って来い!!」
地面に落ちたワイングラスと机の上に乗った皿を
手に持ったアヤトはその場で一礼し
「少々お待ちください」
そう言って、キッチンに戻って来て
コルベットは濡れ鼠のようなアヤトに謝罪を述べる
「…済まない」
「キッチンのくだらない事情で迷惑を掛けた」
コック帽を取り頭を下げるが
それでも、彼がした事には遠く及ばずに
どんな暴言でも受け止めようと
アヤトの言葉を待っていたコルベットだか
「…えっと温かいジャガイモじゃなくて」
「なんて言うんでしたっけ?」
「あのポタージュの名前」
彼から告げられたのは、間の抜けたような言葉であり
それに答えてしまうコルベット
「ジャロイモのポタージュだが…」
「そう、ジャロイモ!」
「あれやっぱ、冷めても美味しいですよね?」
「日持ちもするし、暑くなったら冷製スープでも良いかも」
にこやかにそう告げる彼に
思わず肩の力が抜けてしまって
……コイツは馬鹿なのだろうか?
違うウエイターに温めたポタージュを持たせて
彼に着替えを渡しながら狼人の彼が吐き捨てるように
「いや、お前ムカつかねぇの」
「相当な事されたんだぜ?」
「それが事故ならまだしも、悪意を持って」
それを聞いた、鍋の前で縮こまるように
下を向く彼を見るアヤトは
「いや、美味しかったし」
「高級料理タダで食えるとか役得でしょ?」
可笑しそうにそれを笑ったあとに
ふと、遠くを見るような目で
「…そうじゃなくても難癖をつけただろうしね」
怒りでもなく、ただ当然のことを告げるようにして
「高級な服着てるくせに、余裕の無い態度」
「たかだか冷めたスープくらいであの騒ぎよう」
「大した金も持たない癖して」
「見栄だけで入ってきて」
「交換すれば済むそれを」
「無理難題押し付けて、タダにしようとして」
淡々と告げられた言葉に
コルベットは少しだけ寒気を覚えてしまう
確かに自分はそれをしようとした
それが一番面倒なく解決できる手段だと知っていて
自分がその立場なら躊躇いなく選択したと
その場の全員が思っていたはずで
「人が真剣に作ったものに敬意すら払わないで」
「そんで、金すら払おうとしないなんて」
「腐ったゴミの思い通りになんてなるかよ」
そこにあったのは、彼から一度も感じた事の無い
怒りともつかない感情であり
そして、俺達の作った料理に対する評価でもあって
「だから、会計の時が見物ですよ?」
「思う存分笑ってやりましょう」
にこやかな笑みを称えるその目の奥は静かに
ここでは無い何かを見ていて
もはや、今更とは思いながらも
コルベットは賭けに負けた事を確信するしかなかった




