第91話 初恋の人の名前
*
「……寝てた」
咲の部屋のベッドの上で、結奈は目を覚ました。
身体を起こすと、カーテンの隙間から光が漏れていた。
もうすぐ朝が来るのか、それともとっくに日は昇っているのか。
「すごいタイミングで、すごい夢見ちゃった」
結奈は枕元にあったスマホを手に取り、凛に教えてもらった泰鷹のブログにアクセスした。
七年前の記事を開くと、彼の学校生活の様子が綴られていた。
[今日も殴られた。腹]
[上靴がゴミ箱に入ってた]
その記事の中に一つだけ、長文で綴られている長い日記。
[ 柔らかくないとかいう馬鹿みたいな理由で二の腕をカッターで切られた。だけど大丈夫、明日は久しぶりに会える日だから。
たのしみにしてる、と手紙の返事が来た。
手紙と一緒に指輪が入ってた。
約束を、覚えてくれているんだと思う。
大きくなったら結婚しようね。
そんな小さな、子どもの頃の約束を。
僕もまだ覚えてる、信じてる。
明日、君に会えたら、どんな話をしよう ]
「……知らなかった」
スマホの画面を閉じ、結奈は膝を抱えて顔を埋めた。
「どうして私、気がつかなかったんだろう」
長文の次の日記は、たった一文。
[世界なんて壊れてしまえ]
それほどまでに泰鷹は結奈と交わした約束に固着し、そして自分自身が壊れた。
思い返してみればあの日以来、手紙は来なかった。
「だってあれ、私……初めて人に話したもん」
幼い恋心を、その時、結奈は初めて誰かに話した。
だけど泰鷹は反応せず、何も言わずに立ち上がって部屋を出て行った。
「久しぶりに会って、普通に声をかけた私を見て、ヤスくんはどう思っただろう?」
無神経なことを言ってしまっていないか。
そういえば、かっこよくなったなどと発言した気がする。
「最低だ、私……」
考えれば考えるほどわからない、頭が痛いと、結奈はカーテンから漏れる光を見つめた。
「会いに、いこう」
あの頃の彼に。
あの日に戻ろう。
朦朧とした意識のまま立ち上がり、カーテンを開いて窓の桟に手をかけた。
*
小さい頃に来ただけなのに、身体が道を覚えていた。
神木家をこっそり抜け出して三十分、結奈は見覚えのある家へたどり着いた。
玄関の砂利、花壇にはトマトがなっていた。緑色のオシャレなポストは健在で、クリーム色の壁は汚れて黄土色っぽくなっている。
廊下に飾ってあった絵画は、彼の引っ越しと共に外されたのだろうか。
「ヤスくん、大人っぽくなったな……ここにいた時よりも、随分変わった」
ポタッと、涙がこぼれ落ちた。
慌ててそれを拭ったとき、家の中から人が飛び出してきた。玄関の砂利を踏む中学生の少女が、結奈の存在に気がつく。
「……お兄ちゃんなら、今日はいませんよ?」
「えっ?」
警戒心を露わにして、少女が結奈を睨む。
なにか勘違いをされていると、結奈は慌てて弁明を口にする。
「あ、えと、違います。昔、ここに住んでた人と友達で……」
「昔? この家、私が小さい頃から住んでますけど?」
「あ、はい……十年以上、前だから……」
「ていうか、ここはもううちの家ですから!」
無愛想に叫んだあと、少女は道路を走って去ってしまった。
「うちの家……」
ほんの十年前まで、ここは常盤の家だったのに。
今はもう、別の人の家になっていて、自分の知らない誰かがここで、知らない生活をしている。今まで特別意識したことはなかったが、時の流れというものを感じた。
過ぎた時間は戻らない、取り戻すことなど出来ないのだと。
当たり前のことを結奈は今、理解した。
「なにしてるんだろう、私……帰ろ」
歩き出したとき、正面に気配を感じて結奈は顔を上げた。
目の前にいる相手の姿を確認した途端、ひゅっと息を呑む。
「……ろ、くん」
「久しぶり、結奈ちゃん」
そこに立っていたのは広だった。
緋末の当主、そして結奈が泰鷹に『好きな人』として名前を告げた人物。
「何してんの? こんなところで」
作り笑顔の、その裏にある本当の顔は無表情の広が、穏やかな口調で尋ねる。
恐怖感が拭えない。
逃げたいのに、足が竦んで動けなかった。
「ま、いいや」
一歩、また一歩と、広が結奈のもとへ足を踏み出す。
逃げなきゃ、と、心ではわかっているが、結奈の足はやはり動かなかった。
「よかった。ちょうど、会いにいこうと思ってたんだ」
見たことのない顔で広が微笑んだ。
いつも作り笑顔ばかり見るけどさすがにこれは酷いと、結奈は諦めて目を閉じた。
「私も会いたかった……緋末広くん」
普通の声量で言った結奈だが、言葉はきっと、今の広には聞こえていないだろうと思った。




