第90話 ▼十年前---市原結奈
*
「結奈ね、ヤスくんとけっこんするの」
ある日、結奈がそんなことを言い出した。
母たちと、泰鷹本人の目の前で。
「結婚?」
「あのね、大人はすきな人とけっこんできるの。だから結奈、ヤスくんとけっこんするの」
結奈はニコニコと微笑み、泰鷹が座っているソファの隣に腰掛けた。
「ね、ヤスくん」
ピタッと身体を寄せてくる結奈はもうすぐ六歳、泰鷹は十歳の誕生日を迎えていた。
小学生と幼稚園児では、その言葉に対する印象は大きく異なる。だけど、すでに結奈に心惹かれている泰鷹が、その言葉を喜ばないはずがなかった。
「…………うん」
泰鷹の返事に、結奈は嬉しそうにはしゃぐ。
「ごめんね、ヤスくん」
結奈の母、瀬奈が小声で泰鷹に言った。子供の冗談に合わせていると思われたのだろう。
「あ、いや……」
違います、本気です。
なんて、そんなことはいえなかった。
黙り込む泰鷹の横で、結奈が自分の皿にあるフルーツを泰鷹の皿に移していた。
それを見た瀬奈が、結奈の手を掴む。
「結奈! 自分が嫌いだからって人にあげないの!」
「違うよ! ヤスくんが欲しがってるの!」
「自分が食べたくないだけでしょ。ヤスくん、それ結奈にかえして……」
「い、いいんです!」
泰鷹の大声に、結奈だけでなく母たちも動きを止めた。
泰鷹ははっとし、膝の上で拳を握りしめる。
「大丈夫です、もらいます……僕が。冗談じゃないです。僕も、欲しいです」
精一杯の言葉だった。
瀬奈は「そう? ごめんね」と返事し、結奈を睨むが彼女はぷいっと顔を背けた。
だが泰鷹と目があうと、ふやっと柔らかい笑みを浮かべる。
その笑顔が愛らしくて、泰鷹もまた微笑んだ。
「結奈ちゃん……大きくなったら、結婚しようね」
「うんっ! 結奈、ヤスくんとけっこんする!」
指切りまでして交わした約束。冗談として受け流せるほど、泰鷹は大人ではなかった。
泰鷹の父親の急な転勤で家を売り払い、遠くの街に引越すことが決まったのは、そのあとすぐだった。
*
泰鷹から手紙が届いた。
〈またあそぼうね〉
彼が引っ越してから三年が経ち、結奈は小学生三年生になっていた。
あれから一度も会っていないが、泰鷹とは手紙のやりとりを続けていた。
返事をポストに入れると、五日後には新しい手紙が来た。
最初こそ楽しんでいた結奈だが、手紙の頻度は徐々に減っていった。
原因が自分にある、なんて思わなかった。
手紙が届いてから返事を出すまで一週間空いて、二週間経って「ヤスくんに返事出したの?」と母に言われても、手紙のことを気にかけて過ごすことはほとんどなかった。
むしろすぐに返ってくる、ポストに手紙を入れてすぐに新しい手紙が来ることに、辟易さえしていた。
一ヶ月放置ていたら、返事を出していないにも関わらず新しい手紙が来た。
〈こんど、かあさんとゆなちゃんのまちにいくから。ひさしぶりにあえるね〉
ひらがなで送られてくる短い文章。
なぜだろうと不思議に思いつつも、結奈はいつも、泰鷹の文にならってひらがなで返事を書いていた。
〈わかった。たのしみにしてるね〉
偶然、本当にたまたまだった。
夏休み前、学校の友達の間でアクセサリー作りが流行っていた。
結奈ちゃんは指輪作りが上手と褒められて、母にねだって手作りパーツをたくさん買ってもらった。
しかし休みが明けたその頃、流行りは変わっていて誰も手作りのアクセサリーには興味を示さなくなり、結奈の手元には大量の指輪の土台が余った。
大した意味はない、ただなんとなく。
結奈はそれを、子ども向けプラスチックの玩具の指輪、何もついていない土台を、手紙と一緒に封筒の中に入れた。
手紙を書いたことを忘れて一週間後、ポストに投函する頃には、指輪を入れたことさえ覚えていなかった。
しばらくするとまたアクセサリー作りが流行して、そういえば手紙に入れて送っちゃった。もったいなかったな、なんて思う程に、結奈にとっては何でもない事だった。
*
久々の再会に、互いが驚いた。
泰鷹は結奈の成長ぶりに。可愛い女の子ではなく、少女になっていた。
垢の抜けた、都会の女の子。
結奈もまた泰鷹の成長に驚いたが、泰鷹と同じ感情ではない。
中学生って大きいなぁ……ちょっと怖い。ていうかヤスくん、こんな人だったっけ? と冷静に、泰鷹を観察した。
母たちが陽気に語る隣の部屋で、結奈と泰鷹はソファに並んでテレビを見ていた。
「……ヤスくん、大きくなったね!」
無言に耐えきれず、結奈が声をかける。
笑顔を向けると、張り詰めていた泰鷹の表情が柔らかいものに変わった。
「結奈ちゃんも、大きくなったね」
「小学生になったからね。ヤスくんは? 中学校はどう?」
「えっ?」
びくっと、泰鷹の肩が跳ねる。
結奈から目線をそらし、泰鷹は右手で左の二の腕を押さえた。
「中学校……うん、楽しい……楽しいところだよ」
「へぇー、いいなぁ! 私も早く中学生になりたい!」
「どうして?」
「だって中学生になったら大人の恋愛ができるでしょ? 制服着て図書館とかで勉強してー。映画館で手を繋いだりして」
「……具体的だね」
「漫画で見たの! かっこいいんだよ、大人の恋愛は!」
「そ、うだね……」
結奈が中学生になる頃、泰鷹は高校二年生になる。
同じ制服は着れない、そもそも学区が違う。などと泰鷹が考えていた時だった。
「学校帰りにケーキ食べに行くのもいいなぁ。一緒にお弁当食べたり、空き教室でこっそり手繋いたり」
「…………え?」
振り返る泰鷹などお構いなしに、結奈は中学生の恋愛事情を語る。
その話はどれも、同じ学校に通っている事が前提の恋人たちの話。
「さ、最近の少女漫画は、すごいんだね」
だけど泰鷹は聞き返すことが出来なかった。
だってそれは、結奈の語る夢はまるで……
「結奈ちゃんは、大人だね」
核心をつかない言葉を投げたのに、知りたくなくてあえて避けたのに。
「あ、それはね……私いま、恋してるから」
結奈はそっと、泰鷹の耳元に手を当てた。
「あのね、ヤスくん。私、好きな人ができたの」
耳元で囁く結奈の言葉に、泰鷹は目を閉じた。
聞こえない、そういうことにしたかった。
だけど現実はそんなわけにいかず、顔を離した結奈が、照れ臭そうに微笑んだ。
彼女の声は聞こえた。
はっきりと、泰鷹の耳に届いた。
リビングの向こうにいる母たちの声は遮断され、結奈だけの声が、その名前が。
きっとそれが、泰鷹にとって、最初の駒だった。
その時の結奈は気づかなかった。
小指に黄色いプラスチックの指輪をはめた泰鷹がぎゅっと、拳を握りしめた。
「私より一つ年上の、お兄ちゃんの友達。すごく綺麗な顔してる男の子なの。その人の名前はね……」




