第117話 中和
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雨が、降っている。
重い身体を引き摺るようにして、広は緋末の屋敷へ戻った。ふらふらした足取りで廊下を抜け、離れへ向かう。
途中、ポタッという音に振り返ると廊下に血痕が続いていた。
「……怪我、してる?」
だけど別に、身体的痛みはない。不思議に思い手のひらを確認すると、赤で染まっていた。
血の匂い、同じものが、頬にもこびりついている。
だけど、外傷はない。
「誰かの血……」
不思議に思いながらも、広は離れの玄関を開けた。
シーンとした廊下。障子扉の和室が四つ、両端にはドアノブがついた扉が一つずつ。
「一番左が俺の部屋で、右から二番目が咲の部屋。風呂は両端、俺の部屋とあやめの部屋にしかついてないから……あやめ」
何故だろう。打ちつける雨はもうないのに、頬に温かい感触が滴る。どれくらいの時間、そうしてうずくまっていただろう。
顔を上げた広の目に映ったのは、夜空に浮かぶ月だった。
「この部屋から月、見えるんだ……」
雨は上がっていた。
傘はもう、必要ないのだろうか。
『わたし最近、人生が楽しいです』
そう言ってはにかむように笑ったのは、つい先日のことなのに。
彼女にとって、人生が楽しいと思える瞬間なんて、ほとんどなかっただろうに。
月が、涙で滲んで見えなくなった。
拭うのが嫌で、広は俯いて唇を噛む。その時、背後で音がした。
「あははははっ。何してんの、あんた」
珍しいというより、今まで広に聞かせたことのない高笑い。薄紫の直垂を着た、瞳の色までも紫色の少年が広の背後に立っていた。
「時雨……」
広に名前を呼ばれ、時雨がふっと微笑む。
「緋末はしっかりしてると思ったんだけどね、あんたの代でここまで暴走するとは思ってなかった」
カタンと、時雨が広の目の高さに合わせてしゃがみ込む。
不敵に微笑み、互いに黒ではなくなった瞳をじっと見つめて。
「困るんだよねぇ、ちゃんと引き継いでくれなきゃ。神木と緋末が戦おうが協力しようが、オレはどうでもいいけど」
話しながら、時雨は懐からカッターナイフを取り出した。
カチカチと、刃を長く引き出す。
時雨の行動が意図するところもわからず、広はただ呆然と、時雨の手元を見ていた。
「当主が死んだら子孫残せない、次の世代に引き継げないじゃん? あっちは内の人がなんとかするだろうけど、あんたは怪我しないようにね? それと忠告しといたげる、もう二度と血を汚さないほうがいいよ」
「血を、汚す?」
「二十四時間以内に、二者以上の血をその身体に受け入れるな。はい、わかった?」
「…………」
「返事がないなぁ。まぁ、いっか」
次の瞬間、時雨は手首に乗せたカッターナイフの刃を引いた。
ビシャっと、広の顔に時雨の血が飛び散る。
「なに……してる……?」
目を見開き、しかし動けない広に、時雨が再度微笑んだ。
そして血が滴る手首を、広の口元に押し付ける。
「中和的な? まぁ、オレはどっちも持ってるからどうなるかわからない、一か八かだけどね」
抵抗しようとした広だが、身体に力が入らなかった。時雨の血が喉を通り過ぎたその瞬間、意識を失った広が床に倒れる。
「そうだ、もう一つ。さっきさぁ、神木織斗の封印術受けなくてよかったねー……って、もう聞こえてないか」
広が意識を失っていることを確認して、時雨は手首を離した。
ふと中庭に目を向けると、生い茂る葉が月の光に照らされていた。
「来年の五月、ちゃんと花咲くのかな。それまでに世界が終わってないといいね……バイバイ、ヒロ」
届かない別れの挨拶を告げ、時雨は離れを後にした。
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No.13「AM_02:30 –同じ傘の下–」終了




