第104話 ▼罪
「父さん……父さんは天才だから。僕の書き込みも、やったことも全部、父さんには全部筒抜けで……大丈夫、父さんは天才だから、大丈夫」
フラフラした足取りで階段を降り、リビングに向かう。
テレビの大音量が聞こえて、安堵して開いたドアの向こうに、父の姿はなかった。
「父さん……?」
トイレかと思ってそちらを覗くが父の姿はなく、風呂場にいない。
「会社……あの格好で? 散歩……そうだ、散歩に行ってるんだよ!」
混乱したまま、后は玄関のドアに手をかけた。その扉を開くのは久しぶりだった。
重くて固くて、ようやくのことで開いた扉を押して、外へ出る。
そこで初めて気がついた、自分がおかしな生活をしていたことに。
「……夜だ」
時計の針は、何時を指していたっけ?
だってネットは、画面は明るくて、人もいて……
「違う……僕が他の人と、違う生活を送ってるんだ」
玄関に置いてあった腕時計の針を見る。短い針が一、長い針が十二を指していた。
「僕が……僕だけが、世界から取り残されてる」
そして気が付いた。
父が時計を忘れて出かけていることに。
緋末家を出る際、当主様にもらったという高級時計。起業祝いと、父が緋末の一員である証だと。
肌身離さず、外出の際には絶対に忘れたことのない時計がいま、ここにある。
時計を両手で抱え、后は家を飛び出した。
「父さん……父さん、父さん!」
叫んでみるが見つからない。
首輪をしていない犬に睨まれて、怖くなって来た道を引き返す。
「そうだ、母さんは……なんで、家にいなかったの?」
パートは昼間に行っているが夜は家に帰っているはずだと思って、后はあることに気がついた。
いつから母と顔を合わせていなかっただろう? いつから……食事のメニューが変わった?
食パン一枚だった朝食がおにぎりに。外の食事が嫌いな母が、コンビニのお弁当を買うはずがない。
「……っ、痛っ」
速く速くという気持ちのせいで、足がもつれて転んでしまった。
ジャージのズボンの膝の部分が破れて、擦れたところから血が滲み出る。
「痛い……痛……いたい」
すぐそばにあったベンチに腰掛け、服の裾で血を拭った。
幸い傷は深くなく、僅かに血が滲む程度で済んだ。
「帰らないと……かえって……ごめんなさい」
謝罪の言葉は、無意識に出てきた。
膝を抱えてそこに顔を埋める后は、もう一度、同じ言葉を繰り返す。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
父に、母に、傷つけた全ての人に。
画面の向こうにいた、血の通った人々に。
届かない。
こんなところで一人、呟いたところで。
謝罪の言葉が通じるはずはない。
それがわかっていてなお、后は真夜中の公園のベンチで泣き続けた。
*
后が顔を上げたのは、日が登って随分経ってからのこと。
「暑い……」
水色の空には、七色の虹がかかっていた。
雨なんか降っていないのに、七色の綺麗な虹が空を引き裂いていた。
時計を確認すると、十二時を過ぎていた。
ゲームのリリースは九時、とっくに爆弾は起動している。それはゲーム中盤、中ボスを倒すときにその爆弾は音を立てる。
何回やっても、どんな技を使っても倒せないのだ、ただの中ボスが。
それだけならたいしたことはない。
問題なのは、十回以上戦いに負けるとウイルスに感染してしまうということ。
「ウイルスはやり過ぎたかも……」
綺麗な虹のせいだろうか。
今までのことを全て思い返して、罪悪感が募った。
今度は保身ではない、心からの謝罪。
「帰ろう……うん、帰ろう」
そういえば、父からのメッセージを確認していない。
最後に見たのはいつだっけ?
だって、目の前にいないから。
メッセージを送ってくるのは機械だから。
だからそこに、画面の向こうに人がいるなんて……
「違うよ、人がいる。見えなくても聞こえなくても、そこには人が存在してる……僕が相手してるのは血の通った人間。メッセージを送ってくれたのは、父さんなんだ」
腕時計を握りしめ、立ち上がった。
歩くのが難しくて、退化してしまったのではという錯覚に襲われた。
引きこもっている間に随分と世界が変わって……
明日からちゃんと学校に行こう。
謝ろう、まずは。
父に、頭を下げよう。
そう思って、后は足を踏み出す。
「ご飯を、一緒に食べよう。虹が出てたんだよって……まだ間に合うかな? 父さんと一緒に、空を見よう」
自然と足が早くなった。
身体が勝手に前は進む。
話をしよう、今度は自分の意思で、声を出して。
そう思って、后は自宅の敷地に戻った。
「父さん! ただい……ま」
その途端、后は言葉を失った。
なぜ気づかなかったのかと、不思議にさえ思った。
しばらくして、あぁそうかと納得した。
玄関の扉が異様に重かった。
それは精神的な非力ではなく、物理的に重くなっていたのだ。
自宅に戻った后が目にしたのは、玄関の前、上脇のレールに紐を括り付けそこからぶら下がっている父の姿だった。




