第103話 ▼さよなら、キサキ
*
后が引きこもりを始めて二ヶ月経ったが、特に困ることはなかった。
変わったこともない。
強いて挙げるならば、食生活の変化。トースト一枚だった朝食がおにぎりに変わり、夕食にコンビニ弁当が置かれるようになった。
外の食事が嫌いな母が手作りしないのは珍しいが、それほどまでに彼女も、疲れているのだろう。
「どっちでもいいけどね、僕は」
弁当の殻を部屋の外に置き、再びパソコンと向き合う。
たまには覗いてみようと久しぶりに開いたSNSで、后は喧嘩をふっかけられた。
個人が特定されているわけではないと思うがなぜか、そいつは后を狙って攻撃をしてくる。
「くそっ、ムカつくな! 誰だよ、こいつ……逆にこっちが特定してやる」
身を乗り出したとき、ふと、父の言葉を思い出した。
『数には意味がある。画面の向こうには……』
「あー、もう! うるさいな!」
幻聴を振り払うように后は立ち上がり、机上のキーボードなどを床に叩きつけて落とした。
頭に血が昇ってる、良くない……
休憩しよう、昼食を食べようと階段を降りてリビングに向かう。
そしてリビングの扉を開けた瞬間、后は息を飲んだ。ソファに父が腰掛けていたのだ。目線は手元のスマホ、誰も見ていないテレビの音量が異常に大きい。
気づかれる前に逃げようと踵を返すが、父の声が早かった。
「コウ、ただいま」
「…………おかえり」
スマホの画面を下にして、父が言う。振り向かない背中は以前より小さく、弱々しく見えた。
居た堪れなくてリビングを出ようとした后だが、足が動かなかった。
「少し、お話しようか」
テレビが消されると、部屋の中が静かになった。ヴィーンと冷蔵庫の機械音。
閑静な住宅街、五十嵐邸の敷地は庭が広く、隣家や道路との距離や遠いため、外の音は聞こえない。
「座って、お話しよう」
その言葉でようやく、后は足を踏み出すことができた。
父の向かい側に腰を落とす。正面で見た父はやはり、以前より随分老いて酷く疲労していた。
「昨日の夜ね、コウにメッセージ送ったんだ」
「……ごめん、見てない」
「うん、そうだろうね。ずっと、見てくれてないよね」
そういえば、と、后はここ二ヶ月間のことを思い返す。
父と最後に言葉を交わしたのは、果たされない約束を交わした時だ。
最後にメッセージのやりとりをしたのは……いつだっけ?
「コウ、父さんとの約束覚えてる?」
「やくそく?」
「数には意味がある、画面の向こうにはコウと同じ人間が……」
「またそれ? 聞き飽きた」
「……そっか、そうだね」
「嘘つきと交わした約束は、守らなくていいんだよ」
「…………え?」
后の声は小さくて、父ははっきりと聞き取ることができなかった。
きちんと話をしなければと手を伸ばすが、后は父の腕を振り払った。
「父さん、忙しいんでしょ? こんなところでゆっくりしてていいの?」
「コウと話をしないといけないと思って」
「ふーん。でもごめんね、僕が忙しいから」
「忙しいって……コウ、学校は?」
「今日はお休み」
「明日は?」
「……明日は、あるかもね」
行かないけど、という言葉を后は飲み込んだ。
「僕は正義の味方だから」
またしても声に出してしまった。
話すことなんてない、話をしたくないと思っているのに、言葉が勝手に出てくる。
これ以上の会話は避けようと、后は唇を噛んで腰を上げる。
「じゃあね、父さん。頑張って」
リビングを出る時に父の視線を感じた后だが、振り返ることはしなかった。
父の嗚咽を堪えるような声にも、聞こえないフリをして扉を閉めた。
*
転機は次の日の夜だった。
それは偶然、通りすがりにたまたま見つけた情報。
「この会社知ってる。オンラインのゲーム会社だ……最近業績が厳しかったけど、新しいゲーム開発する……ふーん、これが最後の砦かぁ」
画面には、その会社の新作ゲームリリース情報。
社運をかけた商品だというそれは完璧だった。凝ったデザイン、機能、ストーリー、すべてが完璧すぎるくらい完璧。
この作品が社会に出れば、確実に流行する。
「……待ってこれ、僕が昔考えたゲームに似てる」
間違いない。
企業が開発しているだけあってデザインや設定は后のものより立派だが、ベースは同じだった。
「パクられた……?」
まさか、そんなはずはない。
だってあんなの、ほとんどダウンロードされなくて……誰にも相手にされなかった。
そのせいで、自分には才能がないと諦めたのに。
「あは、あははははっ! 退治しなきゃ! 悪者は僕がやっつける。仕方ないよね、悪いのはあっちだもん……悪は僕が潰す」
それから一週間、徹夜でパソコンに向かった。食事はいつもどおり、父や母とも顔を合わせなかった。
自由に、誰に咎められることもなく、后は一人で画面と向かい合っていた。
「よし、完了。間に合った」
カタンっとエンターキーを押す。
明日のリリースと共に起動する、時限爆弾を。
大丈夫、バレない。会社の人たちでもわからない、気づかれないようにフェイクを仕掛けた。
問題が、ゲームのバグが発覚するのは発売されてから。
それはゲームのストーリーがある程度進んだとき、中ボスを倒す時に起動する。
「ループ、って言い方はちょっと違うかな? でもそんな感じ」
笑みを浮かべながら背もたれに身を預けた時、階段の音が聞こえた。
この時間に母が二階に来ることはない。
ということは父か。
「おかえり、父さん」
后が開いた扉の先にいたのは、やはり父だった。
くしゃくしゃの黒いシャツにジーパン。私服オーケーの会社と言ってもこの格好はさすがに酷いと、后は笑いを堪えた。
「久しぶりだね、コウ」
掠れた声、伸びっぱなしになっている髭にボサボサの髪、窪んだ目。
部屋に入れたくなくて、后は廊下に出て後ろ手で扉を閉めた。
「今日、学校は?」
「お休みだよ」
「最近はずっと、お休みなの?」
「うん、そうだね。お休みしてる」
「学校にはちゃんと、行った方がいいよ」
「……そうかもね」
普通の子どもにとってはそうなのかもしれない。
だけど后は傲慢になっていた。
なぜ?
僕は賢いのに。
こんなに色んなことが出来るのに。
一人で、社会を動かすことが出来るのに。
と、驕っていた。
「ねぇ、コウ。ご飯食べよう」
「は?」
「父さん、時間あるから……だから、ご飯食べながら、ゆっくり……」
「忙しいって言ってるじゃん!」
差し出された父の手を、后が弾いた。
パチンと大きな音。
驚いた父が、目を見開いて后を見つめる。
「あんただって忙しいんだろ!」
「いや、父さんは……」
「忙しいって言ってたじゃん! だから約束破ったんでしょ? 今さら……自分の都合のいい時だけ父親面しないでよ!」
「違……コウ、話を聞いて……」
「汚い! 触るなっ!」
怒声と共に突き飛ばすと、父の体がよろめいた。どすんと、床に尻餅をつくその様は弱々しくて、今まで見たことない程に、かっこ悪くて。
后自身、驚いた。
軽く押しただけのつもりだったのに。
「僕、忙しいから……もう部屋に来ないで!」
逃げるようにして部屋に逃げ込み、鍵をかけた。
布団をかぶっていたせいか、外の音は聞こえなかった。
一時間後、后が再びドアを開けると父の姿はなかった。
苛立ちが収まらなくてパソコンを開くと、五十五分前に書き込まれた投稿がトップに表示された。
[ さよなら、キサキ ]
ゾッとして、后は慌ててパソコンの電源を落とした。
「誰……誰が書いて……いや、僕じゃない。キサキって書いてコウって読むけど、僕じゃない」
パスンっと音を立ててシャットダウンされるモニター。真っ暗になった画面に、酷い顔つきの少年が映った。手入れしていないボサボサの髪の毛、痩せこけた頬、窪んだ目。
髭が生えていないだけで、その姿は、父そっくりだった。
その姿を見た途端、后は謝ろうという気持ちを抱いた。僕たち親子はきっと間違ってる、そう思って顔をあげる。
「あは、は……なにより、謝って……何とかしてもらわないと」
正直に言うと、父のためではない。
罪悪感から来る謝罪でもない。
特定されてる、やばい。その気持ちだった。
誰かに自分のことが、情報がバレている。




