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三章1 逃避行、暗い森



 大きな針葉樹が立ち並ぶ林の中を、シエラはよろめきながら進んでいた。何度も転んだので身体中傷だらけだ。せっかくアスキスが包帯を巻いてくれたのに、血と泥で汚れている。立ち止まって休みたいが、また兵士に捕まって蹴られるかもしれない。逃げたい一心で先へ進んだ。


 人間と関わるのはもう嫌だ。ノクトは優しくしてくれたが、どうしても信用できない。アスキスも怖い。全員が怖くてたまらない。彼らから一刻も早く離れなければならない。


 肩で息をしながら進んでいると、前方が拓けてきた。林を抜けるようだ。しかしその先には人間たちの姿があった。シエラが知らない街道という場所である。


「どうしよう」


 シエラは樹の陰に隠れ、恐々と街道を見た。日暮れの閉門に間に合うように、皆が急いで行き交っている。十人通り過ぎたと思ったら、反対側から十人やってくる。馬車や家畜の列もある。


 シエラは街道沿いを隠れて進みながら、人気のない場所を探した。進むにつれ樹々は生い茂り、辺りは暗くなっていく。何度も木の枝を踏んだ。鋭い石で皮膚を切った。足の裏は血まみれで、一歩歩くごとに酷く痛んだ。涙を滲ませながら、それでも進み続けた。


 空が夕陽で赤くなった頃、ようやく街道から人の気配が消えた。シエラはそろそろと樹の陰を出て、踏み固められた地面の上に立った。目の前がちょうど三叉路になっているが、どこに行けばいいのか分からない。右か、左か、真ん中か。人間がいない場所はあるのだろうか。


 立ち尽くしていたシエラは、背後から近づく気配に気付けなかった。


 急に布で口を塞がれ、羽交締めにされた。兵士かと思ったが、違う。見知らぬ男がシエラを見下ろして笑っていた。聖堂で見た者たちと違い、髪や髭は整っておらず、衣服も粗末なものだ。似たような見た目の者がぞろぞろと集まってくる。


「おい、そいつはかなりの上玉じゃねえか」

「その辺の商隊を襲うより稼げそうだ」


 男たちはシエラの顔を覗き込み、下卑た笑みを浮かべていた。危険なものを感じて身を捩るが、力が強くて逃げ出せない。一体何をされるのだろうか。男たちはシエラの身体を乱暴に触りながら、不思議そうに話し込んだ。


「見たところ良いとこのお嬢さんのようだが、どこからやって来たんだ? 家出だとしたら身代金を要求できるぞ」

「待て、金持ちに喧嘩を売るな。こっそり売った方が安全に儲けられる」

「しかし、よく見たら身体が傷だらけだ。これじゃあ値引きされちまう」

「だったら俺たちで遊んじまうか」


 どっと笑いが起こる。何だろう。これまでとは違う嫌な感じがする。男たちの視線はねっとりしており、身体に触れる手の感触も、何故か背筋がぞわぞわする。このままだときっと嫌なことになる。シエラは逃げようとするが、男たちは腕を掴んで引き摺ろうとした。昼間に痛めた肩がずきりとし、あの時の恐怖が甦ってきた。


「や、やめて、触らないで」


 震えながら訴えるが、男たちはシエラを担ぎ上げ、街道を逸れて森に入った。暗く静かな方へ進んで行き、その闇の中に呑まれていく気がした。これは本当にまずい。彼らの目的は殺すことではない。おそらくだが、シエラを犯そうとしている。淫魔の本能がそれを悟っている。

 淫魔は性交を悦ぶ生き物だ。しかしシエラは中途半端な失敗作で、無条件に悦ぶような精神構造ではない。どちらかというと嫌悪を覚えるほどだった。


 ――こんな男たちに触れられたくない。


 シエラは何とか逃げようとするが、男たちに余裕で押さえられてしまった。そのまま地面に降ろされ、手足を掴まれた。


「誰からする?」

「俺でいいか」

「いや、俺だ。こいつ、もしかしたら初モノだぞ」


 男たちは笑いながら順番を決めていた。さらにシエラの身体を撫で回し、衣服に手をかけている。これは本当にまずい。逃げないと犯される。必死で暴れると、男の一人に顔を殴られた。


「面倒臭えな、暴れるなよ」


 何の情もない一言。一気に全身が冷たくなり、心臓がどくどくと脈打った。 


 ――逃げたのは失敗だったのだろうか。私が間違っていたのだろうか。ではどうすればよかったのだろう。人間は危険だ。私はどこに行けば助かった?


 頭の中を様々な考えが巡る。考えすぎておかしくなりそうだ。男たちが頭上で話しているのも遠く感じる。


 ――私は、どうすれば。


 男たちの大きな手を呆然と眺めた、刹那。街道の方から誰かが走ってきて、端にいた男に斬りかかった。その男が倒れると、隣にいた男が悲鳴を上げてよろめく。さらにその隣の男が血を流して倒れる。流れるように男たちを斬り捨てたのはノクトだった。


「シエラ! 無事か!」


 ノクトは男たちを睨み据え、反撃する間も与えず次々と斬り伏せた。何人かが武器を構えたが、それを振るう前に倒してしまう。ものの数分で全員を斬ってしまった。


 ノクトはぜいぜいと荒い息をしながら顔に付いた返り血を拭った。何とか息を整えると、シエラの前に膝をついた。


「たくさん怪我をしているな。遅れてすまない」


 そっと手を伸ばしてくるが、思わず振り払ってしまった。助けてくれたのに、人間が怖くて仕方がない。ノクトは強く警戒するシエラに何も言わず、再び手を伸ばした。


「とりあえずここを離れよう。こいつらの仲間がいるかもしれない」


 それでも動けないでいると、ノクトの背後に倒れていた男が起き上がり、ナイフを振り下ろした。体勢が悪かったせいか、ノクトはかわしきれずに横っ腹を掠めた。痛みに呻きながら男からナイフを奪い、頭を殴って気絶させた。


 脇腹からぽたぽたと血が溢れている。大丈夫なのかと思っていると、ノクトがそっと手を差し伸べてくる。傷が痛むだろうに、シエラに優しい笑みを向ける。


「安全なところへ行こう。私は何もしない。君を守りたいんだ」

「…………」

「おいで」


 シエラはその手をじっと見つめた。血で汚れているが、それはシエラを守ったからだ。ノクトは人間だが、決して傷つけてこない。おずおずと手を取って立ち上がった。

 街道へ戻るのかと思ったが、森の奥へと進んでいく。あの男たちの仲間が来ることを警戒しているようだ。黙々と進んでいると、ぽたりと水滴が落ちてきた。雨だ。暗くなった空から大粒の雨が降ってきた。

 ノクトは辺りを見回し、大きな岩が折り重なった場所へ移動した。ここで雨宿りするらしい。


「少し狭いが何とかなるだろう」


 ノクトは岩の下に入りながら右の脇腹の傷に触れた。まだ血が出ているのだろうか。


「痛いの?」


 小声で聞くと、ノクトは苦笑して首を振る。


「こういう傷には慣れている。それに聖騎士は頑丈だから大丈夫だ。シエラ、ここで休もう」


 シエラは傷に障らないよう、ノクトの左側に座った。雨は本降りとなり、辺りはどんどん暗くなっていく。間もなく夜になる。これからどうするのだろう。




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