三章2 ノクトの過去
ノクトは一息つくと、濡れるのも構わずシエラの前に片膝をついた。何をするのかと思えば、身体中の傷を見ている。
「足が傷だらけだな。腕や顔にも傷がある。包帯からも血が……痛いだろう。私に治癒の力があればよかったのに」
ノクトはハンカチを裂いてシエラの足に巻いた。包帯の代わりらしい。ひと通り傷を見ると、ようやくシエラの隣に座った。降りしきる雨を見つめながら言う。
「君はずっと酷い目に遭っている。逃げたくなるのも分かる」
シエラは何も言わずに俯いた。生まれてすぐ捨てられて、聖堂に連れて行かれ、そこから逃げ出したら男たちに襲われた。我ながら散々なことばかりだ。
「私のことも嫌いになったかな」
寂しそうに言われ、躊躇いながらも正直に答えた。
「ノクトは優しいけど、人間だから信用できない。人間は怖い」
「そうか……」
「でも、そういうのが間違っているのは分かっている。私が淫魔だからと嫌われるように、私も人間だからと信用できないでいる。それは良くない」
するとノクトが意外そうに見つめてきた。
「シエラはそんなことを考えているのか」
「おかしい?」
「まさか。私も同じ考えだ」
ノクトは目を伏せ、やがて静かに呟いた。
「生まれで差別される苦しみは、よく知っている。……少しだけ私のことを話そう」
そうして暗くなった空を見上げる。その青い瞳はどこか悲しそうだった。
「私の母は魔女なんだ」
「魔女……?」
「魔に属するものと契約し、人でありながら呪いの力を宿した者。聖騎士とは反対の存在だ」
ノクトの母は無差別に呪いを振りまき、人々を苦しめた。太環府は勿論、様々な宗教関係者から討伐対象として追われていた。
ノクトは生まれながらに呪いの子と蔑まれ、牢獄で過ごした。
――貴様なんぞに生きる価値はない。
そんな罵声を毎日のように浴びせられた。
「私自身は何もしていないのに、母が魔女だという理由で牢獄に入れられた。暴力も振るわれたし、何度か処刑されそうになった。酷い子供時代だったよ。聖騎士になってからも扱いは変わらず、まともに会話してくれたのは剣の師だけだった」
苦笑いするノクトの横顔をじっと見つめる。本当はとても苦しいのに、笑って誤魔化しているようだった。シエラよりずっと傷ついているのではないかと思う。
「だから君のつらさも分かるつもりだ。それなのに、私は自分の立場を気にして寄り添うことができなかった」
「そんなことない。ノクトは私に優しかった」
「打算が混じっていたよ。私はろくでもない男だ」
自分を悪く言ってほしくないのに、ノクトはどこか諦めたようだった。シエラの胸に締め付けられるような痛みが走り、何かをしたいと強く思った。しかしノクトにこんな顔をさせたのはシエラ自身だ。どうしようか迷い、そろそろとノクトの手を握った。
「ごめんなさい。あなたは悪くないの」
「違う。私は君を責めているわけではなく……難しいな。どうすればいいのだろう」
ノクトは本当に困っているようだ。シエラは申し訳なくなって、ノクトの腕にしがみついた。
「私もどうすればいいか分からない。ただ、ノクトのことは信じたい」
人間は信用できないが、彼だけは他の人間とは違う。それがようやく分かってきた。
似たような生い立ちだからではない。助けてくれたからでもない。シエラのことを一生懸命考えてくれているからだ。
他の人間はシエラのことをちゃんと見てくれなかった。アスキスでさえ素材としか見なかった。ノクトだけが、こんなにも真面目に向き合ってくれる。その誠意は信頼できるものだ。じっと見上げると、ノクトは穏やかに微笑んだ。
「君は綺麗だな」
唐突にそんなことを言われ、ぽかんとした。ノクトもはっとして慌てている。
「いや、その、私と違って素直というか純粋というか、そういところが綺麗だと思って」
「私は素直で純粋?」
「あ、ああ……」
「それは良いこと?」
ノクトは咳払いし、大真面目に言った。
「とても良いことだ。太環府の者たちにも見習ってもらいたい」
シエラはじっとノクトの顔を見つめた。傍に寄って穴が空くほど見つめ続けると、ノクトは顔を背けてしまう。綺麗だと言われて嬉しかったのだが、ノクトは照れているようだ。それが何だかおかしくて、くすくすと笑ってしまった。
「ノクトは良い人」
「そ、そうか」
「胸がぽかぽかする」
「ぽかぽか……?」
「うん。温かい」
土砂降りの雨で寒いはずなのに、胸にはじんわりと温かいものが広がっている。
今日は酷い目に遭った。たくさん怪我をしたし、怖いことがあったし、嫌なこともあった。それでもノクトの隣にいると心が落ち着いた。
シエラが微笑むと、ノクトも安心したように笑い、隊服を脱いで肩にかけてくれた。シエラはその隊服を取り上げ、ノクトと自分の肩にかけ直してくっついた。
「こうすればノクトも温かいでしょう」
ノクトは少し戸惑っていたが、やがて優しく微笑んだ。
「ありがとう」
雨は降り続ける。夜になって辺りは闇に包まれた。それでも二人の心は穏やかで、互いの体温を感じながら身を寄せ合った。
夜が明けると土砂降りだった雨も弱まってきた。今日は晴れるようだ。しかしシエラの表情は浮かない。これから太環府の聖堂に戻ることを考えると、憂鬱で仕方なかった。あれだけ嫌なことがあったのだから、戻りたくないと思って当然だ。しかし我儘を言ってノクトを困らせたくはない。
ノクトは太環府の聖騎士だ。彼の居場所はそこにあり、立場上反抗することはできない。シエラのことを連れて行くだろう。けれど嫌なものは嫌だ。岩場に座り込んだまま泣きそうになってしまった。
濡れた上着を絞っていたノクトは、そんなシエラを見て何か考え込んでいた。やがて上着を整えながら何気なく提案する。
「シエラが聖堂に戻りたくないのら、少し逃げてしまおうか」
「……え?」
「近くの村や町で息抜きをしよう。二、三日くらい大丈夫だろう」
ノクトは笑っているが、本当にいいのだろうか。
「後のことはアスキスに任せてきた。彼なら何とかしてくれるはずだ」
「本当に? 怒られない?」
「シエラは気にしなくていい。私も久々に息抜きをしたい」
聖堂から逃げてもいいらしい。じわじわと喜びが広がり、ノクトに抱きつきたくなった。足の怪我がなければ立ち上がって飛びついている。
「まずは町で衣装を買った方がいいな。怪我の手当てもしたいが、医者へ行くと聖堂に連絡されてしまう。私が何とかするしかなさそうだ。それでいいかな」
「ノクトになら何をされてもいい」
笑顔で言うと、ノクトは何故か目を逸らしていた。
「そういうことはあまり言わないように。変な誤解をされるかもしれない」
「誤解? 何が?」
「いや、いい。足が痛むだろうから私が抱えよう。代わりに隊服を持っていてくれ」
ノクトはシエラを抱き上げ、朝陽が射し込む森の中を歩き出した。昨日の男たちを気にしていたが、幸い周囲に人影はない。ゆったりとした足取りで街道を目指した。
街道には既に人の姿があり、現れたノクトとシエラにぎょっとしていた。農民らしき年嵩の男女が慌てて声をかけてくる。
「あんたたち、酷い姿だよ。まさか盗賊に襲われたのか」
ノクトは苦笑いしながら答えた。
「はい。何とか不意を突いて逃げて来ました。私は大丈夫なのですが、連れが怪我をしてしまいました」
「まあまあ! 何てこと!」
女性の方がシエラに駆け寄り、心配そうに怪我を見た。裸足の足やぼろぼろの衣服に青ざめている。
「この子は、その……」
「ぎりぎりのところで助け出しました。ですがやはり怯えていますね。シエラ、この方は大丈夫だ」
優しく言われたが、やはり人間というだけで身構えてしまう。ノクトの腕の中で小さくなっていると、女性が荷を下ろして衣服や布を取り出した。
「そこの木陰で応急処置と着替えをしましょう。旦那さんの方も怪我をしているじゃないか」
「いえ、私は大丈夫です」
「いいから手当てしなよ、悪化したら大変だ」
女性の勢いに飲まれ、ノクトとシエラはそれぞれ応急処置と着替えをすることになった。ノクトと引き離されるのは怖かったが、女性は本当にシエラを心配しているようだ。危害を加えられることはないと判断し、女性と共にすぐ近くの木陰へ行った。数歩進むだけで足がずきずきと痛み、耐えられずに涙が滲んだ。
女性は清潔な布で傷を拭き、丁寧に包帯を巻いてくれた。足の裏は特に慎重に見てくれて、小さな棘や石の破片を取り除いてくれた。衣服は女性のもので、白いドロワーズとベージュのワンピースだった。旅用なのか布地が厚くしっかりしており、とても動きやすい。しかし女性は申し訳なさそうにしている。
「悪いけど靴は持ってないんだ。でもその足では歩けないし、どうしたらいいのか」
すると木陰の向こうからノクトの声が上がった。
「彼女は私が抱えて行きます。町が近いので何とかなるでしょう」
「でもあんたも怪我をしているだろう」
「頑丈さが取り柄なんですよ。着替えは済んでいますか?」
確認してからノクトがやって来た。ノクトも男性からシャツを借りたようだ。脇腹の傷も自分で手当てしたらしい。女性に傷の手当てと衣服の礼を言い、シエラを軽々と抱き上げた。
「本当にありがとうございます。シエラも礼を言えるかな」
優しく促され、シエラはノクトにしがみつきながら恐々と女性を見つめた。
「あ、ありがとう」
どもってしまったが、女性はとんでもないと笑っている。
「怪我は酷いけど、旦那さんがいるなら大丈夫だね。私たちはもう行くよ」
慌ててノクトが呼び止めた。
「少しお待ちを。お礼をさせてください」
女性は固辞していたが、ノクトも譲らない。衣装代とお礼として銀貨数枚を渡し、何度も礼を言って別れた。二人きりになると、ノクトは安心したように息を吐く。
「親切な人に出会えて良かった。町まで傷だらけのまま行くつもりだったが、何とかなった」
シエラも感謝しているが、少しだけ気になることがある。
「ねえ、旦那さんて誰のこと?」
「私だろう。シエラの夫と間違えたのかもしれない」
「じゃあ私たちは夫婦に見えるの?」
「まあ、年齢的にそう見えてもおかしくない」
夫婦とは人間のつがいのことだったと思う。ノクトとつがいだなんて、考えるとまた胸がぽかぽかする。喜びのままノクトにしがみついた。




