二章2 痛みと恐怖
シエラはノクトにしがみつき、声を殺して啜り泣いた。遅れてグレイスがやってきたが、ノクトは剣の柄に手をかけている。
「グレイス、何をしたか分かっているのか」
「貴様こそ何のつもりだ。やはり堕落してしまったのか」
「馬鹿なことを。私はこの場の全員を守ったのだ」
ノクトは怯えるシエラを一瞥し、苦々しく言った。
「わずかだが魅了の気配を感じた。少しでも遅ければ、精気を吸い尽くされて全員死んでいる」
グレイスは眉を寄せ、兵士たちに退避するよう指示した。辺りが静まると、グレイスはやれやれと息を吐く。
「厄介な敵を侵入させてしまったな。私たちが近付くのは危険か。……ならば、聖騎士の貴様にそいつを殺してもらおうか」
指をさされ、ノクトは何か言おうとしたが――。
「俺がやりますよ」
聖堂の方から金髪の聖騎士が歩いてきた。まだ若い男だが、その翠の瞳はグレイスより冷え切っており、憎悪に近いものさえある。彼はノクトに冷たい笑みを向けた。
「淫魔を守るとは、さすがは異端の聖騎士ですね。どれだけ聖騎士の名を穢せば気が済むのですか」
「クロード……悪いが君とは話したくない」
「気が合いますね、俺もです。さっさとその淫魔を差し出してください。俺が葬ります」
クロードは剣を抜き、ノクトとシエラに切先を向けた。
「淫魔の聖葬はオルドー司教が決定しました。それに逆らうのなら堕落と見なします」
「シエラはただの淫魔ではない。調査する必要がある」
「それを信じろと? 異端者の妄言に耳を貸す理由はないですよ」
空気がひりつき、ノクトが緊張しているのが分かった。クロードは本当にシエラを殺す気だ。シエラはノクトに縋り付くが、少し迷っている様子だった。聖騎士同士で争いたくないようだ。
「頼むから冷静になってくれ。妄言などではなく、本当にシエラには何かあるんだ」
「だから何です。淫魔は死ぬべきだ」
そう言ってノクトの腕を剣で払い、シエラを斬りつけようとした。シエラは最早動くこともできなかった。
もう少しで剣が届く。その時、意外な男が止めに入った。
「すんません、ちょっとええですか」
アスキスが小屋の方から小走りでやってくる。全員の視線が集まる中、彼はシエラとノクトの傍らに立った。
「聖葬を中止するよう僕からもお願いします。気になることがあるんです」
クロードとグレイスは苛立ちながらアスキスを睨んでいる。
「あなたまで何を言い出すのですか。神の加護がありながら堕落したのですか」
「それとも、また自分の研究に熱中しているのか」
「お二人とも殺気立って怖いですね。まあ聞いてくださいよ」
アスキスはこの騒動の中、シエラが口をつけたカップを調べたらしい。すると唾液に貴重な素材が含まれていると分かった。
「それが龐樹の雫です。淫魔でありながら聖なるものである可能性があるんです」
龐樹の雫と聞いた途端、クロードとグレイスは視線を交わして黙り込んでいた。ノクトも戸惑っている。
「龐樹とは天の遣いを生むという天界の樹か。それが本当なら、シエラは分類的に天使となる」
「そうなんですよ。地上において天使は崇められる存在です。危害を加えたらいけないんです。まあ手遅れですけど」
アスキスはぼろぼろのシエラを見下ろし、溜め息を吐いている。
「これで天罰が下ったら大変なことになりますよ。あの薄らハゲに責任取ってもらいましょうか。グレイス様とクロード様も反省してくださいね」
「反省だと」
「ノクト様の言葉を無視して淫魔を傷つけたでしょう。不仲だか何だか知りませんが、仕事に私情を持ち込まないでください」
呆れたように言うと、クロードはアスキスにまで殺意を向けていた。端麗な面立ちだというのに、かなり血の気が多いタイプらしい。シエラは息を詰めて成り行きを見守った。
しばらく緊迫した空気が漂い、グレイスが淡々と告げた。
「アスキスとノクトは淫魔について詳しく報告するように。淫魔の正体が分かるまでは聖葬を見送ることにする」
異論はないのか、クロードは踵を返して去って行った。グレイスもそれに続き、その場にシエラとノクト、そしてアスキスが残された。
どうやらシエラは殺されずに済むようだ。しかし安心はできない。兵士たちの暴力を思い出すと、身体が震えて涙が出た。ノクトはあやすように背中を撫でてくれたが、痛みが走って逃げてしまった。ノクトはそんなシエラを痛ましそうに見つめ、そっと手を伸ばした。
「すまない、止めに入るのが遅れてしまった。もう大丈夫だから、傷の手当てをさせてくれ」
「……本当に大丈夫なの」
「ああ。シエラは天の遣いかもしれないんだ。こんなことは二度と起こらない」
それは龐樹の雫という素材が混ざっているからだ。身体を構成する素材が貴重品なだけで、シエラ自身には何もない。だから失敗作だと捨てられた。
淫魔だとか、天の遣いだとか、そんな理由で生死を決められる。人間はなんて怖いのだろう。こんなところからは逃げ出したいが、シエラに行く宛などない。ずっとここにいるしかない。だが、もし逃げられたら――……。
「シエラ」
ノクトは優しく名前を呼び、手を差し伸べてくる。彼はいつもシエラを守ってくれる。だが、人間だ。人間を信用していいのか分からない。信じたいのに、人間というだけで怖く思ってしまう。
――私も同じなんだ。
シエラが淫魔という理由で嫌われるように、ノクトが人間という理由で信じられない。それが悲しくてたまらなかった。
シエラの傷の手当てが終わると、ノクトとアスキスは小屋の外に出た。手当てしながら血液を採取したので、これからアスキスが詳しく調べる予定だ。報告書を作成してオルドー司教やグレイスに提出すれば、シエラはしばらくは安全だ。しかし良いとは言えない状況である。
「シエラはすっかり怯えていた。私と目も合わせてくれなかった」
朝は二人で談笑することができたのに、ずっと暗い顔で俯いていた。話しかけてもほとんど返事をしない。警戒しているというより、不信感を抱いているのが分かる。
「あれはやりすぎでしたからねえ。僕が言うのも何ですが、悪意を持って攻撃するのはあかんですよ」
アスキスは研究熱心なだけで悪意はないらしい。若干疑わしいが、シエラの傷を診る際は丁寧で優しかった。必要がなければ傷つけない。妙なバランスの男だと思う。
「でも、ノクト様も迷いましたよね」
ぎくりとしたが、どうにか顔には出さなかった。しかしアスキスには見透かされているようだ。
「もっと早く止めに入ることができたのに、助けるのを躊躇した。まさか保身ではないでしょうね」
沈黙を返そうとしたが、アスキスは皮肉るように笑っている。
「誤魔化さなくてええですよ。これまでのやりとりで、あんたが結構な腹黒だと分かっています。淫魔に優しくしていても、実際は冷静に監視しているだけ。それくらいの立ち回りができないと聖騎士だと認められない。異端の聖騎士ですからね」
嫌いな二つ名を口に出され、つい眉をひそめてしまった。
「どこでその名を知った」
「クロード様から教えてもらったんです。聖騎士の間では有名らしいですね」
「有名というわけではない。他の聖騎士や太環府の上層部は、私を警戒しているんだ」
ノクトは本来ならば聖騎士になれない。それどころか、魔に属する者として処刑されてもおかしくない立場だった。偶々神に選ばれて力を得たが、ノクトを聖騎士と認めない者は多い。あらゆる意味で異端なのだ。
「クロードは何を思ってアスキスに話したのか」
「認めてないからでしょう。お二人は仲が悪いようですね。というかクロード様、坊ちゃんみたいな見た目で血の気多すぎません? さっきもブチ切れてたじゃないですか。怖いわあ」
そう言う割に余裕綽々に見える。クロードが自分に危害を加えられないと分かっているからだろうか。一番腹黒なのはアスキスである。
「隠しても無駄だろうな。確かに私はシエラを助けることに躊躇した」
シエラのことは可哀想だと思った。出自だけで否定されるのはつらいものがある。しかし、だからと言ってシエラを助けると、自分が異端だと証明してしまうことになる。
「私は聖騎士の在り方にこだわっている。こんな私でも聖騎士なのだと、胸を張って言いたかった」
そんな矜持のためにシエラが傷つくことになった。本当に申し訳ないことをしたと思うし、後悔している。シエラの泣き顔が忘れられない。こんな自分にしがみついて啜り泣いて、今は怯えている。どう謝罪すればいいのだろう。
「後悔するくらいなら働いてください。僕たちには仕事が山積みなんですから」
「ああ……」
「ほら、報告書を作成してください。僕も血液の調査をするんで」
「その前にシエラの様子を見たい」
ノクトは扉をノックし、室内にいるはずのシエラに声をかけた。
「怪我の具合はどうだ? まだ痛むか?」
しかし返事がない。怯えているのかと思ったが、室内から何の気配も感じない。慌てて扉を開けると、シエラの姿はなく、部屋の奥の窓のカーテンが揺れていた。
「窓から逃げたのか……!?」
アスキスと話し込んでいたとはいえ、まったく気付かなかった。窓の外は林となっており、その先にはひと通りの多い街道があるはずだ。心身が不安定な状態で人と会うのはまずい。
「アスキス、私はシエラを探す。君はこの事態を隠蔽してくれ」
「はい――って、隠蔽?」
「皆に知られたら騒ぎになるだろう。私が必ず連れ帰るから、シエラが逃げたことは隠し通してくれ」
ノクトはアスキスの返事を待たずに小屋を飛び出した。シエラのことが心配で、他のことはあまり考えられなかった。
林にはシエラのものと思しき足跡があった。まだ遠くには行っていないはずだ。気になるのは、彼女が裸足だったことだ。あんなに傷だらけなのに、裸足でうろついたら傷が増えてしまう。
――今度は守らなければ。
あんな後悔は二度と御免だ。ノクトは足跡を追って林の中を駆け出した。




