二章1 整備区画での朝
ゆっくり瞼を開けると、部屋に陽の光が射し込んでいた。地下の研究室に閉じ込められていたのに、一体どうしたことだろう。シエラは戸惑いながら起き上がった。そこは狭くがらんとした部屋だった。研究室が物で溢れていたので、殺風景な部屋に余計に困惑してしまう。
そろそろと寝台から降り、隣の部屋を覗いてみた。そこにはノクトがいて、ソファに座って白いカップに入った何かを飲んでいる。彼はシエラに気付くと穏やかに微笑んだ。
「おはよう。身体に不調はないか」
「ない。ここはどこ?」
「聖堂の敷地内にある小屋だ。地下は暗くて空気も澱んでいるから、ここで過ごそう」
いいのだろうかと首を傾げていると、ノクトがカップをテーブルに置いて告げた。
「昨夜のことはどこまで覚えている?」
聞かれて考えてみたが、あまり覚えていない。小さく首を振ると、ノクトは「そうか」と短く呟いた。
「何かあった?」
「そうだな……君の食事について少し考えたよ」
そういえばパンとジャムを見せてもらった気がする。だがシエラは人間と違って空腹というものがない。食事は必要なさそうだ。しかしノクトはソファを立ち、シエラの傍に来た。その顔がいつにも増して真剣だ。
「シエラは淫魔だ。いずれ精気を必要とするだろう」
「精気って?」
「淫魔にとっての食事だ。もし空腹を感じたら私を呼んでほしい」
空腹とは何だと尋ねようとしたが、ノクトはだいぶ深刻そうに話を続けた。
「あまり考えたくないが、君が暴走して手当たり次第に精気を食べたら死人が出る。そうなるくらいなら私が餌になる」
「餌?」
「聖騎士の力があれば死ぬことはない。しかし君とそういうことをするのは、とても抵抗があるし気まずい。最後の手段だと思ってくれ」
まったく意味が分からない。また首を傾げていると、奥にあった扉が開いてアスキスが飛び込んできた。
「朝っぱらから何ちゅう話をしてんですか! やっぱりあんた堕落してるんか!?」
アスキスは取り乱しているが、ノクトは怪訝そうだ。
「現実的な話だ。シエラの餌になれるのは聖騎士くらいだろう」
「その前に聖葬すればええんや! 魅了使ったんやろ!?」
「それについて詳しく報告したい」
ノクトはアスキスを連れて外へ行ってしまった。取り残されたシエラは、何となくソファに座って白いカップを見下ろした。良い香りのする液体だ。これは何だろうか。ノクトが飲んでいたので安全なものだとは思う。試しに舐めてみたが、味は分からないし何の感情も湧かなかった。
それにしても明るい部屋は良い。地下の研究室は息苦しかったし、捨てられた路地を思い出して嫌だった。陽の当たる部屋はそれだけで過ごしやすい。地下から連れ出してくれたノクトには感謝しなければならない。
「ノクト……」
名前を呟いて微笑んだ。彼に出会ってからシエラの待遇は徐々に良くなっている。アスキスのように素材扱いしないし、衣服や名前を贈ってくれた。食事のことも気にかけてくれている。やはりノクトは信頼できる人間だ。彼のことを考えると胸がぽかぽかしてくる。
そうやってご機嫌で座っていたが、戻ってきたアスキスに険しい顔を向けられた。また痛いことをされるのだろうか。緊張すると、ノクトが庇うように間に入った。
「淫魔なのに善的な気配ねえ。本当なんですか。騙されてませんか」
「疑いすぎだ。私は聖騎士なのだから、善的な気配に気付かないわけがない」
アスキスはシエラに真っ直ぐ歩み寄ってくる。身構えたが、観察するように眺めるだけだ。
「僕は何も感じません。魅了の後に何らかの力を使ったんですか」
「正確には私が気絶させた後だ。シエラは自分が何をしたか覚えていない」
「ちょっと触りますよ」
そう言って右手を伸ばしてくる。アスキスはシエラの髪や額に触れ、眉を寄せている。
「確かに薄く気配があるかも……薄すぎて何の力か分からん」
今度は指で瞼を押さえて瞳を覗いてくる。じろじろ見られるのはとても怖い。もう解放してほしいのだが、二人は観察しながら話し合っている。
「力の系統も分からなかったんですか」
「申し訳ないが、私の感知能力では捉えられない。アスキスなら調べられないか」
「素材をいくつか採取しないと。とりあえず血液はほしいです」
「ならば痛くないように医療器具で採血してくれ」
「はいはい。じゃあちょっと待っててください」
アスキスはようやくシエラから離れ、部屋から出て行った。ほっとしたが、ノクトから恐ろしいことを告げられた。
「これから君の血液を採取する。針で刺すので少し痛いかもしれないが、我慢してくれ」
針を想像してぞっとした。
「どうしてそんなことするの」
「血液を採取――」
「痛いのは怖い」
「普通の人間も注射は怖い」
ノクトは何か思い出したのか、苦笑いしている。
「最前線で戦う屈強な兵士も注射を嫌がるんだ。もっと痛い目に遭っているのに不思議だな。逆に、小さな子供が注射を怖がらないこともある」
その話に興味を惹かれ、ノクトに尋ねてみた。
「ノクトも注射は怖い?」
「私は別に。シエラは怖いのか」
「針を刺すんでしょう。痛そう」
「ちくっとするだけだ」
それくらいなら大丈夫だろうか。しかしそわそわする。落ち着かなくて、目の前にあったノクトの隊服を掴んでしまった。
「そんなに怖いのか?」
ノクトは苦笑し、身を屈めて励ますように笑いかけてくる。
「では注射が終わったら新しい衣装を持ってこよう。楽しみがあれば耐えられるだろう」
新しい衣装。確かに、衣装を貰えるのなら我慢できそうだ。
「どんな衣装がいい? 分からないなら二、三着用意しようか」
「いいの?」
「勿論」
ノクトが笑顔で頷いた。それを見るとまた胸がぽかぽかして、シエラまで頬が綻んでしまう。この感情の名前は知らないが、きっと良いものなのだろう。ノクトにも同じ感情があれば嬉しい。そう思った時だった。
外からたくさんの足音がして、ノクトが笑みを消した。大きな音と共に扉が開かれ、兵士らしき男たちが次々に入ってくる。彼らはシエラに槍を突きつけてきた。思わずノクトにしがみつくと、冷淡な声が上がった。
「聖騎士が淫魔に誑かされるとは、嘆かわしい」
青い衣服を着た女性がゆっくり入ってくる。ノクトより歳上で、栗色の長い髪を三つ編みにしている。シエラたちを見る目は氷のように冷たかった。ノクトはその女性に真っ向から言い返した。
「私はシエラのことを調べているだけだ。彼女にはただの淫魔とは思えない何かがある」
「名前まで付けて可愛がっているのだろう。貴様が堕落する前にそいつを聖葬する」
「待て、グレイス。君にそんな権限はないはずだ」
グレイスという女性は腕を組み、堂々と言い放った。
「我々守護官は太環府の秩序を守る者。聖騎士が堕落する前に、聖葬を提案するのは当然のことだ」
「しかし」
「オルドー司教も認めてくださった。――連れて行け」
兵士たちがシエラの腕を掴み、ノクトから引き離そうとする。その乱暴で強い力に恐怖を抱き、悲鳴を上げてしまった。ノクトが何か言おうとしたが、グレイスに睨まれて躊躇している。シエラはそのまま小屋から引き摺り出され、石畳の上を裸足で歩かされた。
「やめて、怖い」
必死で身を捩るが、誰もシエラと目を合わさないし離そうとしない。それどころか、両腕を縄で縛られて自由を封じられた。胸に強い恐怖が湧き、身体がかたかたと震える。
――聖葬とは処分のことだ。きっと私は殺される。
以前はさほど怖くなかった死が、今はとても恐ろしい。
温かい感情を知ってしまったからだろうか。ノクトと穏やかに過ごした時間を思い出すと、死ぬのは嫌だとはっきり思う。抵抗して立ち止まろうとするが、兵士たちは許してくれない。
「やめて」
シエラは咄嗟に小屋の方を振り返った。あの中にノクトがいる。彼なら自分を助けてくれるかもしれない。声を上げようとしたが、突然布を頭に被せられた。さらに背中を突き飛ばされ、よろめきながら連行されていく。
「待って、私は何もしていない」
「黙れ。おまえは存在そのものが悪なのだ」
誰かがそう吐き捨てた。存在を否定されてはどうしようもない。苦しくて、悲しくて、じわりと涙が滲んだ。石に躓いて転ぶと、舌打ちと共に縄を引っ張られた。膝が擦りむけて、手首や肩の関節が酷く痛んだ。気付いたら涙が溢れて泣いてしまった。それでも容赦なく引き摺られる。
「痛いの、やめて」
立ち上がろうにも腕が使えず、足には力が入らない。倒れ込んでしまったが、それでも縄を引く強さは変わらない。痛い。手首がちぎれてしまいそうだ。引き摺られると全身に痛みが増えていく。痛みと恐怖でどんどん呼吸が速くなっていく。
「助けて」
被せられた布が剥がれ落ちた。顕になったシエラの顔は、恐怖で引き攣っていた。
「助けて、誰か」
声を上げると背中を蹴られた。地面に転がるとまた蹴られ、髪を掴まれ、歩けと怒鳴られる。シエラの恐怖は極限に達し、ローズピンクの瞳が仄かに光を宿す。
生存本能が囁いた。
――人間たちを魅了しろ。そうすることが、ここから逃げる唯一の手段だ。
恐怖に染まった頭は本能に従い、知らないはずの力を解放した。光が徐々に強くなっていく。今にも魅了が発動しようとした時、聖職者たちを掻き分けてノクトが駆け寄ってきた。シエラは傷だらけの顔を上げ、泣きながら叫んだ。
「助けて、ノクト!」
ノクトの手が伸びてきて、ぼろぼろになったシエラを抱きすくめた。周りからどよめきが上がったが、ノクトは構わず声を荒げた。
「全員退がれ! シエラを傷つけるな!」
誰かが「これは淫魔だ」と反抗しようとしたが、ノクトが鋭く睨んで黙らせていた。




