一章3 生きること、魅了
シエラは研究室の冷たい床に座り込みながら、ぽつりと呟いた。
「胸がぽかぽかする」
白いワンピースの裾を指でいじる。いきなり襤褸を脱がされて怖かったが、その次に着せられたのは綺麗なワンピースだった。清潔な柔らかい布で作られており、裾や袖には花柄の黄色の刺繍が入っている。動くとふわりと揺れるのが可愛かった。人間は衣服を着ると知っていたが、まさか自分にこんなに良い衣服をくれるとは思わなかった。
胸のぽかぽかとした温かさは、新しく芽生えた感情なのだろうか。よく分からないが悪いものではなさそうだ。証拠に、勝手に口元が綻んでしまう。にこにこしながらワンピースを眺めた。
ワンピースを用意したのはノクトらしい。彼は昨日から優しくしてくれる。名前だって付けてくれた。人間のことは警戒すべきだと思うが、ノクトになら少し気を許してもいいのではないだろうか。
そんなことを考えていたが、しばらくして顔を上げた。
「やることがない」
恐怖心や警戒心が薄まると、暇という感覚が分かってくる。目的もなく同じ場所に一人で留まるのは暇で仕方ない。アスキスという危険人物が戻るまで、今後について考えてみたい。
シエラは自分の手を見下ろし、握ったり開いたりしてみた。
「淫魔が生きるには人間を誑かさなければならない。でも、魅了の力はどうやって使えばいいんだろう。私に使えるのかな」
普通の淫魔は生まれながらに様々な力を使えるらしいが、失敗作のシエラに魅了は使えるのだろうか。このままでは非力な人間と同じだ。
力の使い方を知りたいが、一番詳しそうなのはアスキスだ。魅了の仕方を教えてくれと頼んだら、その場で殺されてしまいそうだ。次に浮かんだのはノクトだった。彼は魅了の仕方を知っているだろうか。
考え込んでいると、研究室に足音が近づいてきた。シエラは慌てて部屋の隅に逃げ、膝を抱えて小さくなった。最大限警戒したが、現れたのはノクトだった。シエラは安堵して肩の力を抜いた。
「シエラ、そんなところにいたのか」
ノクトの手には小さな籠のような物がある。何だろうかと見つめると、穏やかに笑いながら籠を開いた。
「飲み物と食糧を持ってきた。君も食事を必要とするだろう」
「食事……?」
ノクトは液体が入った瓶をテーブルに置いた。次に小麦の塊を焼いたもの。そして甘い香りがする赤いもの。
「それは何?」
「パンとジャムだ。知らないのか」
「知らない」
「食べてみないか? 空腹だろう」
シエラは黙って首を振った。空腹とは何を指す言葉だろう。腹に何かあるのだろうか。そろそろと腹を触ってみたが、特に思うことはない。ノクトはシエラを見下ろし、確認するように尋ねてきた。
「淫魔は食事を必要としないのか? これまで何か食べたことは?」
「ない。生まれて三日目だから、分からないだけかもしれない」
「三日?」
ノクトは驚いたように目を瞠っている。
「君は生まれたばかりなのか。では、生まれてすぐ捨てられたのか」
「そう」
「何故?」
「女神が途中で飽きたから。私は未完成の失敗作」
事実を淡々と述べると、ノクトはしばらく沈黙した。やがて深々と溜め息を吐く。
「神の中には気まぐれな性質のものがいるが、飽きて捨てるとは……しかも失敗作か。君も苦労する」
「これは苦労なの? 確かにこれからどうするか悩んでいるけど」
そこで先程考えていたことを思い出した。ノクトは魅了の仕方を知らないだろうか。教えてもらえば人間の世界でも生きていける。
「ノクト」
名前を呼ぶと、意外そうにしつつも傍に来てくれた。シエラの前に片膝をつき、小首を傾げる。
「私に何か用かな」
シエラはただ知りたくて尋ねた。
「魅了の仕方を教えてほしい」
その問いにノクトははっと息を呑み、腰に帯びていた剣に手を伸ばした。強く警戒しながら睨むが、シエラは気付かない。生きる方法を知りたくて、それ以外考えられなかった。
「私は人間を魅了したいの」
「その行為が何を意味するか、分かっているのか」
「生きること」
そう答えると、ノクトは複雑そうに眉を寄せていた。
「君にとってはそうかもしれない。だが人間は魅了されると最悪死ぬ」
「でも知りたいの」
「私は――」
シエラはノクトに手を伸ばし、肩に手を付いて間近から見つめた。知りたい。その一心でノクトの顔を覗き込む。そのローズピンクの瞳が仄かに光を帯びていた。
「教えて」
魅了の仕方を知りたい。魅了すれば生きていける。魅了は淫魔にとっての生きる手段で、本能。
――そう、本能だ。強く意識すれば、その力は発動する。
シエラの身体から甘い花のような香りが漂い、ローズピンクの瞳がきらきらと輝いた。白い肌がほんの少し赤く染まり、柔らかな唇が笑みを作る。その蠱惑的な笑みは、魔性と謳われる淫魔そのものだった。
ノクトは素早く後退し、シエラに剣を突きつけた。しかしシエラはぽかんとしながら剣を見上げる。何故こんなものを向けられるのか分からない。自分が魅了を使っていることに気付いていないのだ。
「ノクト、どうしたの」
シエラの魅了はまだ続いている。あどけない少女だったはずが、どんな人間も誘惑する妖艶な女性になっている。耐性があるはずのノクトがたじろぐほどだった。
「今すぐその力を消しなさい。それは毒だ」
「毒? 何のこと?」
「分からないか。……まずいな、力が強すぎる」
ノクトが目の前で焦っているのに、なんだか気分が昂揚してきた。特に理由もないのに胸がぽかぽかして、笑いだしたくなってくる。それにノクトに触りたい。触れば良いことがある気がする。
シエラは剣を無視してノクトに手を伸ばした。遠くて触れられないと分かると、立ち上がってゆっくり近付く。険しい顔をしたノクトに、もうすぐ指の先が触れる。シエラはたまらず笑みを浮かべたが――。
「すまない。これ以上は聖騎士として許容できない」
ノクトが何かを呟いた。すると眩い光が視界いっぱいに広がり、一瞬で意識を失った。




