一章2 有能
「敵だと分かっているのなら、何故あんなことをするんです」
ノクトは淡々と答えた。
「衣服のことなら、単純に襤褸だと可哀想だからだ。彼女は淫魔ではあるが、特に悪さもせず大人しくしている。衣服くらい構わないと思った」
「名前については」
「それなんだが、私が名付けるとそれは聖名になる。淫魔の力を削ぐことができないだろうか」
予想外のことを言われてきょとんとした。確かに聖騎士が名付けをすると、相手に聖なる力が宿る。それ故に聖名と呼ばれる。淫魔の性質的に、聖名を付けられるのは不利と言える。
「あの淫魔の性質次第だが、聖名によって縛ることもできるかもしれない」
「そんなことを考えていたんですか。さらりと淫魔を縛ろうとするなんて、実は腹黒なんですか」
若干引いたが、ノクトはやはり聖騎士なのだと感嘆した。衣服に関しては問題ないと判断した上のことで、名前に関しては聖名を付けることで淫魔の弱体化を狙っていた。しかも温和な笑顔で、淫魔に悟られないようさりげなく。先程はダメだと思ったが、有能すぎてぐうの音も出ない。
「てっきり淫魔に絆されたのかと思いました」
正直に言うと、ノクトは苦笑していた。
「私はこれでも聖騎士だ。そう簡単に絆されたりしない」
「ですよね、心配して損した」
「まあ可愛らしい子だとは思うが。では戻って名前を付けてやろう」
ノクトが研究室の扉を開けると、淫魔がぱっと瞳を輝かせて駆け寄ってきた。しかしふと立ち止まり、慌てて部屋の隅に逃げた。謎の行動に困惑したが、ノクトが味方ではないと思い出して警戒したのだろうか。そうだとしたらこの淫魔は油断しすぎだ。本当に何なのだろう。
ノクトは部屋の隅で小さくなる淫魔に、朗らかに声をかけた。
「これから君に名前を贈ろうと思うが、何か希望はあるか? どんな名前がいい?」
淫魔はおそるおそるノクトを見上げる。
「名前……? 私の名前? 何故?」
「名無しだと不便だろう。希望がなければこちらで考える」
淫魔が沈黙したので、ノクトとアスキスが名前を考えることになった。アスキスは適当でいいと思うのだが、ノクトは真剣に悩んでいる。
「彼女に似合う良い名前にしよう。古くからある名前がいいか、流行りの名前がいいか。突飛な名前は避けた方がいいだろうな」
「何でもええじゃないですか」
「彼女の髪の色や瞳の色から考えるのはどうだろう」
「いや真面目すぎるって。実は絆されてませんか」
有能だと見直したのに、やはりポンコツな気がしてきた。聖騎士とは高潔で賢く、心身ともに強い人物のことだと思うのだが。不安を抱いていると、ノクトがおもむろに淫魔の前に片膝をついた。そして真っ直ぐ見つめて告げる。
「古い詩の登場人物から拝借することにする。――シエラはどうか。綺麗な名前だろう」
淫魔は不思議そうに目を瞬いた。
「それが私の名前?」
「どんな詩か説明すると長くなるが、とても良い詩だ。私は一番好きなんだ」
「……好きなの?」
「ああ」
すると淫魔はノクトの青い瞳を覗き込み、何やら考え込んでいた。長い沈黙の後、こくりと頷く。
「分かった。シエラでいい」
これで名前が決まった。ノクトは跪いたまま淫魔の額に手を翳し、聖騎士の力を解放した。眩い金色の光が狭い室内を照らし、ふわりとどこからか風が吹く。光は淫魔の額の前で円を描き、花の模様のような古の文字が浮かんだ。
「我、ノクトの名においてシエラに神の恩寵を授ける」
光と共に聖名が刻まれる。光はきらきらと美しく輝き、風はいっそう強く渦巻いた後、穏やかに消えていった。室内が静まると、ノクトはシエラの乱れた髪を整えた。
「これでよし。身体に違和感はないか」
「ない。今の光は何?」
「簡単な加護だ。私の力が届く場所ならば、君を少しだけ守ることができる」
シエラは自身の身体を見下ろし、首を傾げた。若干の違和感があるらしい。どうやら聖名が効いているようだ。どの程度効果があるのか分からないが、何もしないよりマシなはずだ。アスキスはこそこそとノクトに確認した。
「聖名を付けてみて、どうでしたか」
「私の力があまり馴染まなかった。シエラから弾かれた感じだ」
「構成する素材に反発されたんでしょうね。では失敗なんですか」
「いや、彼女の居場所や状態はある程度感知できる。もし逃亡されても大丈夫だ」
「それはええやないですか」
アスキスは笑顔で頷いたが、次の言葉に硬直することになった。
「守護も可能だ。大掛かりなことはできないが、結界を張ったり加護を付与することはできる。だから君が非道なことをしたら止められる」
アスキスはノクトをまじまじと見て、頭を抱えた。
「ええと、僕のことを警戒してるんですか」
「私が目を離せば、髪を引き抜いたり皮膚を裂いたり爪を剥ごうとするだろう」
「研究に必要やって言うとるやないですか」
「シエラには痛覚があるんだぞ。研究ではなく拷問だ」
「だから必要――」
言い募ろうとした瞬間、ノクトが距離を詰めてきた。思わずのけぞると、ひやりとするほど鋭い眼差しを向けられた。
「淫魔になら何もしていいと思うのは間違いだ。残酷な行為に慣れてしまえば、次は君が魔の者になる」
そんな言葉を吐かれたのは初めてではない。だが、聖騎士の力を感じて気圧されてしまった。
人でありながら神々に祝福され、聖なる力を授けられた特別な者。アスキスも神の加護があるが、聖騎士の力には到底及ばない。年甲斐もなくずるいと思ってしまう。
ノクトはアスキスが反省していないことに気付いている。だがそれ以上何も言わず、ただじっと見つめてくる。その視線が鬱陶しくて、アスキスは踵を返して研究室を出た。
――ノクトとは分かり合えない。
最初から合わないと感じていたが、それがはっきり分かった。今後もノクトが護衛をするのなら、淫魔の研究に支障が出てしまう。司教に護衛を変えるよう直訴しなければならない。
苛々しながら回廊を歩いていると、二人の聖騎士が談笑しているのを見かけた。今は聖騎士と関わりたくなくて、黙って別の回廊へ行こうとした。すると彼らが声をかけてくる。
「あなたがアスキスですね」
「淫魔を見つけて調べているそうだな」
金髪の優男に、茶髪の野生的な雰囲気の男だ。この聖堂では見かけない聖騎士だった。何の用だろうかと訝しんでいると、茶髪の方がからかうように言った。
「ノクトが迷惑をかけていないか。あいつは生まれついての変わり者だからな」
「変わり者?」
眉を寄せると、彼らは笑う。
「異端の聖騎士とはよく言ったものだ」
その二つ名が何を意味するのか。アスキスは気を引き締めて彼らに向き直った。
「詳しく聞かせてください」




