序章2 聖騎士との出会い
淫魔が警戒していることに気付いたのか、アスキスはへらりと笑った。
「まだ何もせえへんよ。まずは観察、身体の外側の素材の調査や」
「……身体の内側の素材も調べるの? それは、痛くない?」
「さあ、君の痛覚次第やないの」
その笑顔は無邪気であり、何の感情もない、道具を相手にするような態度だった。
――これまで薄々察していたが、アスキスは悪い人間だ。淫魔は生きているのに、生命として扱っていない。研究とやらのために何をするか分からない。
淫魔は咄嗟に逃げようとしたが、首の縄を掴まれたままだった。その場に転んでしまい、痛みに顔を歪めた。アスキスはすぐに傍らに膝をつくが、素材へ対して心配をしている。
「壊れとらん? 大丈夫? 貴重な素材なんやから暴れちゃあかんよ」
「私は素材じゃない」
「そうやった、淫魔やった。まずは髪を調べさせてもらっていい?」
アスキスは淫魔の髪を掴み、無造作に引きちぎろうとする。強い痛みを感じ、小さく悲鳴を上げて頭を押さえた。
「やめて」
「髪くらいええやん」
「痛いの、やめて」
逃げ出したいが、頭を掴まれているので動けない。ぶち、と髪が抜ける音がして息を呑んだ。その時、淫魔の心に強い感情が湧いた。それは生まれて初めて感じる「恐怖」だった。
身体を傷つけられること――苦痛は怖い。
知らない感情に困惑しながらも、恐怖は淫魔の心に広がって行く。
怖い。怖くてたまらない。背筋が冷たくなり、心臓が早鐘を打った。
「やめて」
震える声で呟くが、アスキスは止めてくれない。いっそう強い力で髪の毛を引き抜こうとする。その痛みにたまらず悲鳴を上げると、カツンと靴音がした。
開け放たれた扉から、誰かが研究室に入ってきた。その者はアスキスの腕を掴み、怯える淫魔を胸に抱くように庇った。
「手荒な真似はするな」
低い男の声だ。淫魔は頭を押さえながら、ゆっくり顔を上げた。
二十代半ばの人間の男が、険しい顔でアスキスを睨んでいた。白い衣装を着ているが、これまでの聖職者と違い、動きやすそうに見える。別の役職の人間なのだろうか。堂々として高貴な雰囲気を醸している。アスキスは面倒そうに言い訳していた。
「僕は調査しようとしただけです。ノクト様、見た目が可愛い女の子だからって惑わされないでください」
「髪が欲しければ、ナイフで一房切り取ればいいだろう」
アスキスは何か言おうとしていたが、深く息を吐いて了解した。乱雑に置かれた器具の中から適当なナイフを取り、淫魔の髪を一房だけ切り取った。淫魔はその感触にも怯えてしまい、ノクトという男にしがみついた。彼の長い黒髪がさらりと流れ、花のような香りが鼻腔をくすぐった。
アスキスは淫魔の髪を布に包みつつ、ノクトに尋ねる。
「あなたが僕の護衛なんですか?」
「そうだ。司教に頼まれた」
「えぇ……いつも前線で戦っているあなたが? あの薄らハゲ、僕に嫌がらせしたいんですか」
「口を慎め。司教には考えがお有りなのだ」
「いや何も考えてませんよ。聖騎士も大変ですね」
ノクトは何も言わず、そっと淫魔の肩に触れた。敵意や悪意はなさそうだが、アスキスのように淫魔を道具だと思っているのかもしれない。つい彼に縋ったが、警戒した方がいい。淫魔はそろそろとノクトから離れ、部屋の隅に逃げて襤褸にくるまった。
「怯えなくていい。私は君に危害を加えない」
するとアスキスが呆れたように言う。
「それは淫魔ですよ。人間じゃないんです。護衛なのに誑かされないでください」
「私に魅了は効かない。それに彼女は何もしていない」
「今は、ね。天界のものは何をするか分かりません」
「しかし……」
ノクトは淫魔を一瞥し、おもむろに白い上衣を脱いで差し出してきた。これを羽織れということだろうか。だが何かの罠かもしれない。ノクトの意図が分かるまでは何もしない方がいい。そうやって固まる淫魔を、ノクトはじっと見つめてくる。人間にしては整った面立ちだと、頭の片隅で思う。
「困ったな。アスキスが乱暴なことをしたから警戒している」
「あの、何度も言いますが淫魔ですよ。隊服を渡すなんて何を考えているんですか」
ノクトは淫魔に歩み寄ると、何の躊躇いもなく隊服を肩に羽織らせた。
「この者が何であれ、怯えているのなら助けるのが聖騎士だ」
アスキスは呆れ切っていたが、淫魔は驚きながらノクトの青い瞳を見つめた。淫魔を相手に助けるだなんて言うとは思わなかった。彼は普通の聖職者ではないのだろうか。よく分からない。分かったのは、敵ではなさそうだということだけだ。
淫魔が隊服をそろそろと握ると、ノクトはアスキスと話を始めた。司教への悪口を咎め、研究について尋ねている。アスキスは話したくないのか、誤魔化すように世間話を始めようとしていた。
「私は彼女をどうする気かと聞いているのだが」
「いや、ええと、今後の研究に役立てます」
「はぐらかすな。非道な真似は聖騎士として見過ごせない」
「ああもう、面倒くさい人やな。絶対薄らハゲの嫌がらせや」
アスキスは嫌がっているが、淫魔はノクトから目が離せなかった。彼がいたら痛いことはされないかもしれない――それは淫魔にとって、とても安心できることだった。この時は、ただそれだけだった。




