序章1 捨てられた淫魔
その失敗作は、月明かりの届かない袋小路に捨てられていた。
襤褸のような汚い布にくるまり、割れた石畳をぼんやりと眺める。辺りは砂と埃まみれで、澱んだ空気が凝っていた。通りには誰もおらず、痛いほどの静寂が満ちている。街の人々は寝静まっており、天界から失敗作が堕とされたことにも気付いていない。
彼女は冷たい壁に背を預け、小さく呟いた。
「何がいけなかったんだろう」
彼女を創り出したのは色欲の女神だ。美しくエロティックなものを好み、神々や人間を惑わしては精を啜っていた。
そんな女神が戯れに思いついたのが、最高の淫魔を造ることだった。目的は特にない。ただ新しい玩具が欲しかった。神々がよくやる暇潰しである。
女神は手近にあった素材を集め、淫魔を造り始めた。それが彼女だ。まずは白くて華奢な身体を作った。顔立ちは可愛らしく、あどけない少女のようにも見えるし、美しい女性のようにも見える、絶妙なバランスに仕立てた。瞳は宝石のように美しいローズピンク。髪の色は太陽の光を思わせる眩いプラチナ。容姿は完璧だ。しかし、そこで女神は飽きてしまった。
基本の人格は作ったものの、細かく作り込むのが面倒で、作業の手を止めた。
中途半端に作られた淫魔は己の完成を待ったが、女神は冷たかった。
――気分が乗らない。あなたは失敗作よ。
そうして淫魔は地上に捨てられてしまった。
あまりの理不尽に呆然としたが、神々とはそういうものだ。そう割り切るしかない。今考えるべきは、これからどうするかだ。
基本の人格の中には生存本能が含まれている。故に失敗作だとしても生きたいと思う。しかしその方法が思い浮かばない。
「淫魔らしく人間を誑かして生きる……? でもやり方が分からない。会話、というのをしなければならないんだっけ」
呟きながら首を傾げる。彼女は感情や欲望を作り込まれていない。思考力も中途半端だ。どうやって生きるかという問題が、未完成の失敗作には難しすぎた。
何もせずただ座っていると、反対側の路地から足音が上がった。どうやら何かが彼女に気付いたらしい。現れたのは、白い衣服を着た小柄な少年だった。あれは聖職者が着る法衣だろうか。猫のようなアーモンド型の目が見開かれ、慌てて剣を抜いている。不慣れなのか、少しもたついていたのが子供らしかった。
「おまえ、人間ではないな! 天界の気配を感じるが、天使か何かなのか?」
天使と言われて首を傾げてしまった。そんなに高潔な存在に見えたのだろうか。
「私は淫魔。でも、失敗作だから完全な淫魔ではないのかもしれない」
すると少年は慌てて後ずさっていた。
「淫魔なんて穢らわしい。早く処分しなければ」
「私は穢らわしいの? 誰とも寝てないけど」
しかし少年は懐から何か取り出し、忌々しげに睨んでくる。
「そこから動くなよ。隊長たちを呼んでくる」
後から知ったが、少年は太環府という太陽神を崇める教会の一員だった。警備のために街を巡回していたところ、天界の気配を感じ、何事かと様子を見にきたのだ。
太環府では淫魔を忌むべきものとして嫌っている。「駆除」の対象だ。
続々と太環府の者たちが集まってきて、淫魔の彼女は捕らえられてしまった。細く白い腕に手錠をかけられ、首にも縄をかけられる。
普通の淫魔なら大騒ぎするところだが、彼女は失敗作なので感情が動かない。面倒なことになったと思いながら連行されていった。
夜明けの刻に太環府の聖堂に到着し、彼女は赤い絨毯の上を裸足で歩かされた。綺麗で厳かな建物で、縦長の大きな窓からは太陽の白い光が射し込んでいた。その光のせいか、聖職者たちの法衣が眩く輝いて見えた。
「どこに行くの? 本当に私を処分するの?」
何気なく尋ねると、皆が冷たく睨んでくる。
「黙れ。淫魔なんぞが口を開くな」
喋るのも駄目なのか、とほんの少し驚いてしまった。人間は何故こんなにも淫魔を嫌うのか、さっぱり分からない。
そのまま一行は黙々と進み、回廊の途中でぴたりと止まった。聖職者たちの前には年老いた男が立っている。他の者より法衣が立派で、白い布地に美しい金の刺繍が入っていた。
「オルドー司教、報告通り淫魔を連行しました」
司教とやらは大仰に言う。
「ご苦労であった。すぐに聖葬の用意をし、穢らわしい淫魔を処分しろ」
誰もが当然のように了解し、口を挟む間もなく淫魔が殺されることが決まってしまった。彼女は感情がほとんどないとはいえ、さすがに悲しく思う。その時、回廊の奥から慌ただしい足音が上がり、背の高い男が現れた。
「ちょい待ち! そんな貴重な素材を燃やすなんて絶対あかんよ!」
違う地域の出身なのか、喋り方が皆と違う。髪の色は明るい茶色で糸目なのが印象的だ。
「司教さん、この淫魔はかなり神気が強い。きっと貴重な素材で作られてる。僕に調べさせてください」
男は一見するとへりくだっているが、強気な態度だった。不快そうに眉を寄せる司教に歩み寄り、薄く笑う。
「なあ、ええやろ? あんたの趣味をもみ消してやってるんやから」
司教は沈黙している。生まれたての淫魔でも「弱みを握っている」というのがよく分かる。やがて司教は深く息を吐き、踵を返して言った。
「その淫魔の処遇はアスキスに任せる」
聖職者たちは戸惑っていたが、司教の命令は絶対らしい。ゆっくりと淫魔から離れていく。茶髪の男――アスキスは上機嫌で淫魔の前に来ると、何の躊躇いもなく顔に触れてきた。
「綺麗な造りやなあ。こんなに上品な淫魔は滅多におらん。どんな素材で造られているのか、調べるのが楽しみや」
間近から見つめられ、淫魔はおずおずと尋ねた。
「あの……調べるって何するの? 殺すの?」
「最終的には処分するけど、しばらくは生きてもらう」
アスキスは笑顔だったが、何となく危険な感じがした。遠慮のなさと強引さが、自分本意な神々と似ている気がする。思わず後ずさるが、いつの間にか首の縄を掴まれて動けない。周りを見回しても、誰も彼女を助けてくれない。
「さあ、僕の研究室に行こうか。早速調査を始めるで」
たじろいでいると、淫魔を見つけたあの少年が遠慮がちに口を開いた。
「アスキス様、これは淫魔です。もし誑かされてしまったら大変なのでは」
「僕が? そんなことにはならへんよ」
「ですが心配です。護衛を付けるべきです」
すると他の聖職者たちも騒ぎ始めた。皆が淫魔のことを危険だと言う。アスキスを誑かす気はなく、やり方も分からないのだが、この雰囲気では聞いてくれないだろう。黙って見ていると、司教が溜め息を吐いて戻ってきた。
「アスキスの研究室に護衛の聖騎士を配備する。それならよかろう」
聖職者たちは安堵していたが、アスキスはとんでもないと首を振っていた。
「聖騎士は能力的に貴重やないですか。ただでさえ護衛なんて大仰なのに、こんなことに使うのは勿体ないです」
「おまえが淫魔に誑かされたら太環府の恥となる。おまえだけの問題ではないのだ」
「え、自分の顔に泥を塗るなってことやん」
回廊が一瞬静まり返った。アスキスははっと我に返り、ぎこちない笑みを浮かべる。
「今のは独り言です。それじゃ、ありがたく護衛をしてもらいます。先に失礼しますね」
そしてそそくさと歩き出した。淫魔はぐいぐいと縄を引っ張られ、よろめきながら付いて行く。何をされるか不安だが、ここには淫魔を助けてくれる者などいない。陽光に包まれた回廊から離れ、人気のない暗い通路に入った。アスキスは深々と溜め息を吐き、不満をあらわにしている。
「あの薄らハゲ、自分の責任問題になるのが嫌だからって聖騎士を護衛にしよった。アホなんちゃうか」
淫魔はそんなアスキスを見つめ、率直に尋ねた。
「アホとは悪口だったと思う。聖職者なのに悪口を言っていいの」
純粋に疑問に思ったのだが、アスキスは物珍しげに淫魔を眺めた。
「普通の淫魔やったらそんなことに興味は持たん。知能がそこそこ高いんか? その割に感情は薄そうや。やっぱりこの淫魔、なんかおかしい」
「そうなの?」
「そうそう。実験の前に観察が必要そうやな。よし、行くで」
淫魔は大人しくアスキスの後ろを歩いた。状況はよく分からないが、すぐに処分するわけではなさそうだ。それに反抗すれば聖職者たちが怒るかもしれない。
アスキスはどんどん階段を降りて行き、一番下であろう地下に辿り着いた。灰色の壁には等間隔に灯が付いているが、薄暗く不気味な雰囲気だ。それに背中がぞわぞわする。ここには淫魔にとって良くない何かがあるのかもしれない。
「僕の研究室は一番奥や。手前の三つの部屋には悪魔関係の品や禁忌の道具が仕舞ってある。ええ素材も多いんやけど、普通の生物には害になるものもある。君も気をつけてな」
そんなことをつらつら説明しながら歩いていく。確かに三つの部屋からは異様な気配がした。無知な淫魔でもあまり近づきたくない場所だ。
「あなたは何も感じないの」
「慣れたし、僕にはとある神の加護がある。だから太環府でも好き勝手できるんや」
「加護? それは特別なもの?」
「そやで。僕は特別なんや」
からからと笑う。彼は神に愛されているのだろうか。途中で飽きて捨てられた身としては、素直に羨ましいと思う。地下の最奥に辿り着くと、アスキスは笑顔で扉を開けた。
「ここが僕の研究室や」
淫魔は室内を見て目を見開いた。青白い光に照らされた部屋に、様々な形の器具が所狭しと置かれている。
試験管やビーカーなどの実験道具、刃物や鋸などの危険そうなもの。木のテーブルの横には寝台らしきものがあるが、鎖や皮ベルトなどの拘束具が付いている。そろそろと壁の方を見ると、たくさんの本棚にぎっしり本が並べられていた。背表紙には拷問だの尋問だの、物騒な言葉が書かれている。
なんだか怖そうな部屋だ。こんなところで何を研究するのだろう。淫魔に何をするつもりなのだろうか。ここには入りたくない。




