三章4 逃避行、村から街まで
逃避行三日目、宿を出る前に怪我の状態を見た。シエラは人間より怪我の治りが早いようで、歩いてもほとんど痛まないようになっている。
「良かった。これならどこにでも行けるぞ」
ノクトがそう言ってくれたのが嬉しくて、シエラは口元を綻ばせた。ラシェルの町を後にすると、街道を歩きながらどこへ行くか考えた。
「他の町にも行ってみたい。自然の中も歩きたい」
「そうか。では天気も良いし川下りをしてみよう」
「よく分からないけどやってみたい」
弾む足取りで街道を進む。樹々の隙間から朝陽が射し込み、その下をたくさんの人々が歩いていく。その中に人ではない自分がいるのだと思うと不思議だった。しばらくして横道に進み、河原に出た。そこまで大きな河ではなく流れも緩やかだ。ここを舟で下るらしい。
ノクトが借りた舟は、二人しか乗れない小さなものだった。先にシエラを舟に座らせ、続いてノクトが櫂を持って乗り込んだ。器用に櫂を動かして舟を水面に浮かべる。シエラはゆらゆら揺れる舟に目を丸くしてしまった。
「どうして水に浮いてるの?」
「浮力というやつだ」
「落ちない? 大丈夫?」
「余程のことがなければ大丈夫だ。流れのまま下っていけばいい」
初めての舟に戸惑ったが、ふとノクトを見ると楽しそうにしていた。
「舟が好きなの?」
「舟というか、普段と違うことをするのが楽しい。景色も綺麗だ」
言われて周囲を見回してみると、確かに美しい景色が広がっている。頭上には濃い緑のアーチがあり、河の水は底が見えるほど綺麗に澄み切っている。たまに魚が泳いでいるのが見えて、シエラも一気に楽しくなった。
「すごい。綺麗。風も気持ちいいね。――わっ、水飛沫」
「少し当たってしまったか」
「うん。でも綺麗だからいい」
小舟はゆっくり河を下っていく。二人は景色を楽しみ、水の美しさに感嘆し、河のせせらぎに耳を傾けた。小舟が揺れると二人して笑い、水飛沫の冷たさに声を上げた。
――楽しい。人間の世界は怖いところだと思っていたのに、小舟に乗るだけでこんなにも楽しい。
嬉しくてノクトを眺めると、また胸がぽかぽかする。何度目か分からない感覚だ。そろそろこの温かさの正体を知りたいところだ。
ちょうどそこで川下りが終わってしまい、河原に降りた。ノクトは管理者に小舟を返却し、礼を言っている。シエラも自分から礼を言うことができた。
「まだ揺れている気がする」
その感覚もまた楽しいものだ。ノクトの腕にしがみつきながら先へ進んだ。
河原から出ると丘陵地帯になっており、緑の匂いに包まれた。遠くには牛や羊が放牧され、牧羊犬が走り回っている。村の者たちはノクトとシエラを見ると手を振って挨拶してくれた。
嬉しいことに牧羊犬も駆け寄ってくる。黒と白の模様の垂れ耳の子だ。人懐こい性格らしく、尻尾を振って二人の周りを嗅ぎ回った。ノクトが頭を撫でてやると、尻尾の勢いが激しくなる。シエラは若干及び腰になったが、おそるおそる撫でてみた。犬の瞳が輝いた気がして、可愛くてたまらなくなった。
「せっかくだからこの村で少しゆっくりしよう」
「うん。この子をもっと撫でたい」
通り沿いにいくつか店が並んでおり、ノクトはそこで食事をするという。人間は一日に何度も食事を必要とするから大変だ。シエラはその間、犬や猫を撫でさせてもらった。どの子も可愛くて癒される。牛は大きくて近寄るのが怖かったので、遠くから眺めた。のんびり草を食べているところが可愛い。羊たちも毛皮がもこもこして可愛い。動物というのはこんなにも可愛いのかと感動した。
ノクトは食事を済ますと店の前のベンチに座った。シエラも隣に腰掛け、付いて来た犬を撫で回した。
「シエラを気に入ったようだ」
「ノクトも撫でる?」
「可愛い子だな。名前は何だろう」
それから二人でその犬と遊んだ。村人もたまにやって来て、ノクトと世間話をする。この地域で収穫された乳や肉が聖堂に収められているらしい。ノクトは身分を明かさず、ただの聖堂勤めだと誤魔化していた。
昼過ぎになると村を出た。通りかかった幌馬車に乗り、街を目指した。聖堂の近くにある街で、シエラが最初に降り立った路地があるらしい。まったく興味がなかったが、あてもなく彷徨うわけにもいかない。この逃避行は二、三日と決まっているのだ。ずっと逃げていたいが、ノクトを困らせたくはない。しかし不安は多い。幌馬車に揺られながら尋ねた。
「私は処分されてしまうの」
ノクトは優しくしてくれるが、シエラは結局淫魔だ。人間にとって敵である。聖堂に戻ればいずれ処分されてしまうはずだ。ノクトはシエラを見つめ、真剣な表情で告げた。
「シエラには善的な力の気配もある。そう簡単に処分できないだろう。それに、私が何としても守る。君に悪意はないと証明し、普通に過ごせるようにする」
「普通に……」
ノクトのことは疑っていないが、それが難しいことだというのは分かっている。シエラは生まれて初めて苦笑いを浮かべた。
「大変だろうけど、私も頑張らないとね」
何ができるか分からないが、ノクトにすべてを任せるのではなく自分で何かしなければならない。死にたくないと思うのはシエラ自身なのだから。そんなシエラにノクトは少し驚いている。
「シエラはたまに大人びた顔をする。それに意外とよく考えている」
「私は普段から考えている」
「……ならば少し慎みを持ってほしいが……生態の違いなのか……?」
小声だったので聞き取れなかった。詳しく尋ねようとしたが、幌の隙間から見えた街の景色が気になってしまった。
「綺麗な建物がいっぱい」
「この辺りで一番大きな街で、フロリアという」
昨日の町や先程の村と違う、石造りの建物が並んでいる。柱や窓枠には模様が彫られており、屋根の形や色にもこだわりを感じる。足元は当然のように石畳で、街全体が整然としていた。路地からは見えなかったが、かなり大きな街だったらしい。
幌馬車を降りると、街灯というのが建っていた。まだ灯りは付いていないが、お洒落で可愛い造形をしている。近くに小さな置物があったのでノクトに聞くと、ポストというらしい。
行き交う人々の様子も様々だった。農民から商人、貴族、兵士、聖職者。急いでいる者からゆったりしている者までいる。
あちこち見て回るのは楽しいが、情報量が多くて目眩がしてしまう。
「物が溢れていて目が回る。音もたくさん聞こえる。匂いもする。酔いそう」
「大丈夫か? 陽暮れも近いし宿を取ろうか」
ノクトに腕を引かれて宿へ向かった。ここでも二部屋取ろうとしたが、シエラが「一緒がいい」とごねたので渋々同室となった。ノクトは押しに弱いのかもしれない、なんて悪いことを学んだ。
早速二階の部屋に通され、窓から街を眺めながら尋ねた。
「街にはどんなものがあるの?」
「何でもあるが、シエラが好きそうなものがあるだろうか」
「ノクトが好きなものは?」
「正直に言うと、昨日の町のような穏やかな場所がいい。賑やかな場所は苦手でな」
「だったら部屋に居よう」
シエラも人間が多い場所は緊張してしまうので、部屋でゆっくり過ごしたい。それに少し疲れている。ノクトが一緒だったとはいえ、知らない世界を歩き回るのは負担だった。
二人は先にシャワーを済ませ、部屋でのんびりすることにした。今後のことを真面目に語ることもあれば、ノクトに気を許してほしいと詰め寄ることもあった。だが最後は穏やかに笑い合う。二人の性分なのか、ゆったりした空気になってしまう。
落ち着いた時間のおかげか、すぐに眠くなってしまった。シエラがうとうとするとノクトが席を立った。
「少し早いが休もうか。どちらの寝台で寝る?」
「こっち……」
シエラは目の前の寝台に横になった。大きな欠伸をし、そのまま目を瞑ろうとする。しかし一つだけどうしても知りたいことがあった。
ノクトは部屋の灯りを消し、寝台に横になった。シエラはその背中を見て毛布に潜り込む。ノクトの背中にぴったりくっつくと、さすがに驚いていた。
「シエラ、何――」
「ノクトといると胸がぽかぽかするの。これは何の感情だと思う?」
これまで何度も感じてきた、よく分からない感情。ノクトなら知っているのではないかと思ったが、何故か黙って起き上がろうとする。シエラはシャツを掴み、ついでに長い黒髪に手を添えた。
「綺麗な髪。それに仄かに花の香りがする」
「花……? ああ、私を祝福した神が花に関係あるからかもしれない」
「何の花?」
話そうとしたが、ノクトは我に返ったように咳払いした。
「男と女が同じ寝台で寝るのは良くない」
「じゃあこの感情のことを教えてほしい」
「……さあ、何だろうな」
ノクトは嘘が下手なのか、はぐらかそうとしているのが分かる。シャツを離すものかと握りしめると、深々と息を吐いていた。
「私から迂闊なことを言うわけにはいかない。公平な立場の人に教えてもらうといい」
「公平って、たとえば誰?」
「アスキスだ。彼は公平性にかけては随一だ」
「あの人は怖い。髪を引っ張られた」
ノクトは寝台に座り、神妙な顔つきで見下ろしてくる。
「痛かったのか」
「うん。あれで怖いという感情を知った」
そこから色んな感情が芽生えていったように思う。ならばノクトに温かい感情の正体を教えてもらえば、もっと他の感情も分かるのではないだろうか。そう言うとノクトは考え込んでいた。
「ならば私が教えても……いや、やはり客観的な意見がほしい。私では駄目だ」
「知りたいだけなのに」
「悪い感情ではないと思う。今はそれが分かっていればいい」
やはりはぐらかされた。シエラは不満たっぷりにノクトを見上げた。
「ノクトは良い人なのに、今だけ意地悪」
「そうかもな。意地悪だから、シャツを離して眠るよう言うぞ」
「意地悪」
しかしノクトは笑うばかりだ。シエラは渋々シャツを離し、自分の寝台に戻った。怒りの意思表示として背中を向けて横になるが、ノクトがそこにいるか不安で振り返ってしまう。ノクトは寝台に戻っており、シエラにまた背を向けていた。
――教えてほしかっただけなのに。
そうむくれながら眠りについた。
シエラの寝息を聞くと、ノクトはやれやれと息を吐いた。今夜も突飛なことをしてくれた。温かい感情とやらが何か知りたいらしいが、想像通りのものだとしたら少々困ったことになる。
シエラがどんな感情を抱こうが、ノクトは応えることはできない。聖騎士だからではなく、シエラの保護者だと思っているからだ。保護者以外のものにはなるつもりはないし、なってはいけない。括りから外れると関係が破綻する恐れがある。
シエラが安全に過ごせるようになるまで、この関係を変えるつもりはない。
しかし目が冴えてしまった。元々眠るには早かったし、どこかの店で酒を飲んでもいいかもしれない。そう思って起き上がろうとした時だった。背後に奇妙な気配を感じ、即座に起き上がった。それと同時にシエラが倒れ込んでくる。
「シエラ? どうした」
まさか暴走したのかと青褪めたが、すやすや眠っている。魅了の気配も、それ以外の気配も感じない。
「……寝惚けたのか?」
まさかと思ったが、本当に寝惚けただけのようだ。シエラはノクトの腕の中で、安心しきった寝顔を晒している。不覚にも可愛いと思ってしまい、内心で自分を罵倒した。しかし起こすのも可哀想だ。そろそろと抱き上げて寝台に寝かせようとしたが、シャツにしがみついて不満そうにする。
「やだ」
「そ、そう言われても」
苦労して横たわらせたが、シエラはノクトを放そうとしない。無理矢理引き剥がすことは簡単だが、それはやはり可哀想だと思ってしまう。ノクトは頭を抱え、観念してシエラと共に眠ることにした。
シエラはノクトから花の香りがすると言っていたが、彼女の方が良い香りがする。花に近い甘い香りだ。これで魅了を使っていないのだから恐ろしい。
「はあ……」
すり寄ってくるシエラを抱き留めながら、試されすぎではと懊悩した。




