第9話「朝」
朝になっていた。
カーテンの隙間から光が入っていた。防護服のタイベックが朝日で白く光っていた。ゴム手袋をしたままの手が、膝の上に置かれていた。自分の手だった。
動けなかったのか、動かなかったのか。わからない。
立ち上がった。膝が痛かった。一晩中同じ姿勢で座っていたせいだ。防毒マスクを外した。ゴーグルを外した。顔に跡がついていた。鏡は見なかった。
テーブルの上に、ビールの缶が二本あった。一本は俺の。空。一本は拓海の。半分残っている。
半分残っている。
飲みかけのビール。拓海の唇がついたビール。これがこの部屋にある拓海の最後の痕跡だった。
携帯を手に取った。画面に通知が並んでいた。会社の勤怠システムからのリマインド。ニュースアプリの通知。天気予報。
拓海からのメッセージはもう来ない。
最後のメッセージを開いた。昨日の午後。「防護服のサイズ、Lでいいか」。既読。俺が「L」とだけ返している。
拓海がこの世界に存在した最後の言葉が、防護服のサイズ確認。俺の最後の返事が、アルファベット一文字。
何をすればいい。
警察に電話する。兄が行方不明です。いつから——昨夜。最後に会ったのは——うちで。それで? 二人で異世界に行って、兄だけ地面に飲まれて。何を言ってるんだ俺は。
無理だ。
でも、何もしないわけにはいかない。拓海は消えた。この世界から消えた。会社に来ない。家に帰らない。携帯に出ない。明日になれば誰かが気づく。同僚が。上司が。
母さんが。
母さんに、なんて言えばいい。
シャワーを浴びた。防護服を脱いで、裸になって、湯を浴びた。体中が強張っていた。首が回らなかった。湯が顔にかかったとき、泣いた。立ったまま、声を出さずに泣いた。シャワーの音にまぎれて、誰にも聞こえなかった。聞かせる相手もいなかった。
着替えた。スーツを着た。ネクタイを締めた。靴紐を結んだ。
靴紐を。
きつく結んだ。
会社に行った。
拓海の席が見える位置を通って、自分のデスクに座った。拓海の席は空だった。パソコンの電源が落ちている。マグカップが置いてある。中身が入ったまま。昨日の午前中に入れたコーヒーだろう。もう冷めている。
誰も、まだ気づいていなかった。
午前中は普通に仕事をした。普通にメールを返した。普通にエクセルを開いた。何も頭に入ってこなかったが、指は動いた。体が勝手にやっていた。
昼前に、拓海の部署の人間が俺のところに来た。
「佐倉さん、お兄さん今日お休みですか? 連絡がつかなくて」
「……体調不良だと思います。昨日ちょっと具合悪そうだったんで」
嘘が出た。自分でも驚くくらい、自然に。
「そうですか。お大事にとお伝えください」
「はい」
伝える相手がいない。
昼休み、社食に行かなかった。トイレの個室に入って、便座の蓋の上に座った。携帯を握った。
森塚に電話しなきゃいけない。あの人にだけは本当のことを言える。言わなきゃいけない。サンプルのこともある。拓海が命と引き換えに採ったサンプルが五本、俺のリュックの中にある。
発信ボタンを押した。三コールで出た。
「佐倉さん。どうしました」
「先生。昨夜、行きました」
「サンプルは」
「五本あります。——あと」
声が詰まった。トイレの個室で、携帯を握りしめて、声が出なくなった。
「佐倉さん?」
「……兄が」
「拓海さんが?」
「一緒に、行きました。兄が俺の手を握ってたんで。——帰ってきたのは俺だけです」
森塚が黙った。
長い沈黙だった。トイレの換気扇の音だけが聞こえていた。
「……それは」
「地面に飲まれました。五秒で。俺は手を離されてて、帰還に巻き込めなかった」
「佐倉さん。あなたは今、どこにいますか」
「会社のトイレです」
「今日の仕事が終わったら、うちの研究室に来てください。サンプルを預かります。——それから、話しましょう。全部」
電話を切った。
便座の蓋の上で、しばらく動けなかった。
午後、仕事を再開した。拓海の部署からもう一度連絡が来た。「やっぱり連絡つかないんですが」。「あとで確認してみます」と答えた。
定時で上がった。同僚に「お疲れさまです」と言った。言えた。普通に。
電車に乗って、大学に向かった。リュックの中にサンプル管が五本。
森塚の研究室のドアをノックした。「どうぞ」という声。入った。
森塚が椅子から立ち上がった。俺の顔を見て、何も言わなかった。何も聞かなかった。
棚からマグカップを出して、湯を沸かし始めた。
「座ってください」
座った。古い革張りの椅子がぎしっと鳴った。研究室の薬品の匂い。標本瓶の列。蛍光灯の白い光。全部、現実の匂いと光だった。
森塚がコーヒーを淹れてくれた。インスタントだった。マグカップを受け取った。手が震えていた。
「飲んでから、話してください。急ぎません」
コーヒーを一口飲んだ。苦かった。温かかった。
それだけで、涙が出た。
声を出さずに泣いた。今日二回目だった。コーヒーのマグカップを両手で持ったまま、涙がぼたぼた机の上に落ちた。
森塚は何も言わなかった。自分のコーヒーを飲みながら、標本瓶の整理をしていた。俺が泣き止むまで、背中を向けていてくれた。
十分くらい経って、鼻をすすって、顔を拭いた。
「すみません」
「謝ることではありません」
リュックからサンプル管を出した。五本。テーブルの上に並べた。
「三本が俺の。二本が兄の。——あと、この一本は」
最後の一本を手に取った。拓海が地面に飲まれた場所に残っていた管。
「兄が、沈む直前に採ったやつだと思います」
森塚がその管を受け取った。両手で、丁寧に。
「大事に扱います」
その一言で、また泣きそうになった。堪えた。
話した。全部話した。装備のこと。手を繋いで待ったこと。転移したこと。サンプルを採ったこと。拓海が手を離したこと。地面が割れたこと。五秒だったこと。帰還の感覚が来て、拓海の手を掴んでいなかったから、一人で帰ってきたこと。
森塚は黙って聞いていた。メモを取っていた。前回と同じだ。この人は聞いて、記録する。
全部話し終わったとき、森塚が言った。
「佐倉さん。一つだけ確認させてください。——あなたの手を握っている人間だけが、一緒に行ける。そして帰るときも、あなたの手を握っていなければ帰れない」
「……はい。たぶん、そうです」
「あなたは、帰るタイミングを自分で決められますか」
「決められません。向こうが勝手に引き戻します」
森塚が頷いた。長い間、何かを考えていた。
「あなたの体が、鍵なんですね」
鍵。
「行くのも帰るのも、あなたの体を通じてしか起きない。そしてあなたに物理的に接触している人間だけが、その鍵の効果を受ける」
「……はい」
「では、次に行くときは」
森塚が俺の目を見た。
「私も連れて行ってください」
コーヒーが冷めていた。
窓の外が暗くなっていた。
帰り道、電車の中でぼんやり立っていた。吊り革を握る手が震えていた。もう一人、死なせるかもしれない。
家に帰った。玄関を開けた。
拓海のビールが、テーブルの上にまだあった。半分残ったまま。
捨てられなかった。




