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魔界世界  作者: 彗
孤独

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第10話「嘘」


 三日後、母さんから電話が来た。


 「拓海から連絡ある?」


 心臓が跳ねた。わかっていた。いつか来る。わかっていたのに、準備ができていなかった。


 「……ないけど」


 「三日も連絡ないの。電話も出ないし、LINE既読にならないし。会社に聞いたら体調不良で休んでるって。悠、あんた同じ会社でしょ。知らないの」


 嘘をつけ。つけ。つけ。


 「俺も二、三日顔見てない。別の部署だし。——体調不良で休んでるなら、寝込んでるんじゃない?」


 「鍵持ってないの。拓海の家の」


 持っている。拓海の合鍵は俺の財布の中にある。何かあったとき用に、と渡された。何かあったとき。今がそのときだ。今が。


 「……持ってる」


 「見に行ってくれない? お母さん心配で」


 拓海のアパートに行った。仕事帰り。電車で三駅。鍵を回してドアを開けた。


 きれいだった。


 拓海らしかった。物が少ない。必要なものだけが必要な場所にある。シンクに洗い物はない。ゴミ箱は空。ベッドはきちんと整えてある。最後に家を出たとき、いつも通りの朝だったんだろう。会社に行って、仕事をして、夜は弟の家に寄ってビールを飲む。そういう一日の予定だったんだろう。


 冷蔵庫を開けた。ビールが四本。牛乳が一本。卵。納豆。食パン。生活の匂いがした。生きている人間の冷蔵庫だった。


 閉めた。


 部屋の中を、何も触らずに見て回った。デスクの上にノートパソコン。充電ケーブルが挿さったまま。本棚にビジネス書と、何冊かの小説と、登山の雑誌。


 拓海が登山をやっていたことを、俺は知らなかった。雑誌のページに付箋が貼ってあった。北アルプスのルートに赤ペンで線が引いてあった。行きたかったのか。行くつもりだったのか。


 もう行けない。


 写真立てがあった。家族写真。俺が中学生くらいのとき。母さんと拓海と俺。父親はいない。三人で写っている。拓海が俺の頭に手を置いている。俺はむすっとした顔をしている。


 写真立てを伏せた。見ていられなかった。


 母さんに電話した。


 「部屋にはいなかった。荷物はある。財布もあった。——ちょっと出かけてるだけじゃない?」


 財布はなかった。拓海は財布を持って俺の家に来た。その財布は今、俺のリュックの中にある。防護服のポケットに入っていた。帰還したとき、拓海の体は戻ってこなかったが、拓海が触れていた防護服の一部と財布は、なぜか俺側に残っていた。


 母さんに財布があったと嘘をついた。財布がないとなれば、警察に届ける流れになる。それはまずい。


 「そう? でも三日よ?」


 「明日もう一回見に来る。それでもいなかったら、俺から警察に連絡する」


 「お願いね。……拓海、何かあったのかしら」


 何かあった。あったなんてもんじゃない。


 「大丈夫だよ。あの人、たまに一人でどっか行くじゃん。登山の雑誌あったし、山でも行ってるんじゃない」


 嘘を重ねていた。いつの間にか口が勝手に動いていた。


 電話を切った。拓海の部屋に一人で立っていた。


 ビールをもらった。冷蔵庫から一本。拓海のビール。同じ銘柄。あの夜、俺の部屋で飲んでいたのと同じ。


 プルタブを開けた。一口飲んだ。


 味がしなかった。


 拓海の部屋を出た。鍵を閉めた。もう誰もこの鍵で開ける人間はいない。


 帰りの電車で、拓海の財布を開いた。中身を確認した。免許証。クレジットカード。保険証。現金が一万三千円。コンビニのレシートが一枚。日付はあの日。コーヒーとおにぎり。拓海の最後の買い物が、コンビニのコーヒーとおにぎりだった。


 俺と同じだ。俺も朝はコンビニのおにぎりと缶コーヒーだった。兄弟で同じものを食っていた。


 免許証の写真を見た。拓海の顔。証明写真特有の無表情。でもこの人は無表情でも目が笑っている。そういう顔だった。


 財布を閉じた。


 家に帰った。テーブルの上に拓海の飲みかけのビールがまだあった。もう四日経っている。中身が濁り始めていた。


 その隣に、拓海の財布を置いた。


 ビールと財布。拓海がこの世界に残した最後のもの。


 翌日、会社で人事から呼ばれた。拓海の直属の上司と、人事の担当者。


 「佐倉さん。お兄さんと連絡は取れましたか」


 「取れていません」


 「ご家族から我々にも問い合わせがありまして。無断欠勤が五日目になります。就業規則上、このまま連絡が取れない場合は——」


 「明日、警察に届けます」


 言った。言うしかなかった。


 「ご事情があるとは思いますが、何か心当たりは」


 「ありません」


 嘘。嘘。嘘。全部嘘。心当たりしかない。あの赤黒い地面の下に兄がいる。あの粘液の中で、今ごろ——


 考えるな。


 「わかりました。何かあればご連絡ください」


 席に戻った。パソコンの画面を見た。何も見えなかった。


 拓海の席が視界の端に見える。空席。五日目の空席。マグカップはまだ置いてある。誰も片づけていない。


 夜、森塚に電話した。


 「警察に届けることになりました。兄の失踪届を」


 「そうですか。——何か困ることがあれば、相談してください」


 「先生。一つだけ」


 「はい」


 「兄が死んだことを、俺以外に知っているのは先生だけです」


 長い沈黙。


 「……わかっています」


 「嘘をつき続けます。たぶんずっと。兄は失踪した。行方不明になった。それが公式の話になります。死体もないし、証拠もない。ただ消えた」


 「佐倉さん」


 「先生も巻き込んですみません」


 「巻き込まれたんじゃありません。私が選んだことです」


 森塚の声は静かだった。


 「それから、サンプルの分析が進んでいます。——お兄さんが採ったサンプルから、重要な発見がありました」


 「……何ですか」


 「来られるときに、直接お話しします。電話で言うような内容ではないので」


 電話を切った。


 重要な発見。拓海が命と引き換えに採ったサンプルから。


 あのとき拓海が手を離さなければ、サンプルは三本で済んでいた。拓海が「両手使った方が早い」と言って離れて、二本余計に採って、その二本のうちの一本から、何かが見つかった。


 拓海の合理的判断が、拓海を殺した。でもその判断が、何かを見つけた。


 拓海が採ったサンプルから何かが見つかった。なら、使わなきゃいけない。あいつが手を離して採った二本を、無駄にしていいわけがない。


 テーブルの上のビールを見た。濁り切っていた。匂いが変わっていた。ビールの匂いじゃなくなっていた。


 捨てなきゃ。もう捨てなきゃいけない。


 缶を持ち上げた。シンクの前に立った。


 中身を流した。


 缶を洗って、潰して、ゴミ袋に入れた。


 それだけのことに、五分かかった。

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