第11話「発見」
週末、森塚の研究室に行った。
電車の中でぼんやり立っていた。吊り革を握る右手の水ぶくれは、十一のまま増えていない。斑点も肘から先には広がっていない。休眠しているのか、俺の体と何かの均衡に達したのか。
大学の古いビルの四階。ノックした。「どうぞ」。
入ると、前回とは空気が違った。机の上に資料が散乱している。タブレットが二台。ノートパソコンが開いたまま。コーヒーのマグカップが三つ。森塚は寝ていないのかもしれない。目の下にくまがあった。
「座ってください」
座った。森塚が向かいの椅子に座った。タブレットを手に取って、画面をしばらく見ていた。何かを整理しているようだった。
「まず。お兄さんの採られたサンプルの話をします」
拓海の。
「五本のうち、佐倉さんが採った三本は前回と同様の微生物群——あの未知の菌類を含む土壌サンプルでした。これはこれで重要ですが、想定の範囲内です」
「残りの二本」
「お兄さんの二本のうち一本は、佐倉さんのものとほぼ同質でした。ただし、もう一本——」
森塚がタブレットを俺に向けた。顕微鏡写真が映っていた。前回見た菌類の画像とは明らかに違う。もっと複雑な構造。色が違う。形が違う。
「これは菌類ではありません」
「……何ですか」
「多細胞生物の組織片です」
意味がすぐには入ってこなかった。
「お兄さんが採った土壌の中に、微生物ではない、より大きな生物の体組織の断片が混入していました。おそらく地中に埋まっていた何かの破片を、スコップで掬ったときに一緒に入ったのだと思います」
「その生物って」
「わかりません。ただ——」
森塚が眼鏡を外した。この人がこれをやるときは、重要なことを言うときだ。
「細胞の構造が、地球上の既知の多細胞生物とは根本的に異なります」
「根本的に」
「はい。たとえば、地球上の動物の細胞にはミトコンドリアがあります。植物の細胞には葉緑体がある。これらは何十億年もの進化の中で細胞に取り込まれた構造です。——この組織片の細胞にも、エネルギー生産を担う小器官はあります。ですがミトコンドリアではない。形が違う。内部構造が違う。まるで……」
森塚が言葉を探していた。研究者が言葉を探している。
「まるで、同じ問題を、全く別のやり方で解いたような構造です」
同じ問題を、別のやり方で。
「もう少し踏み込んで言うと」と森塚が続けた。「地球上の生物は、どんなに多様でも、根っこは同じです。同じ遺伝暗号を使い、同じアミノ酸を使い、同じエネルギー通貨を使っている。三十八億年前の共通祖先から枝分かれしただけで、基本設計は一つです。——この組織片は、その基本設計が違う」
「違う星の生き物ってことですか」
森塚が首を振った。
「そうとは言い切れません。ただ、地球上の生物ではないことは確かです。少なくとも、我々が知っている地球上の、いかなる時代の生物とも一致しない」
森塚がコーヒーのマグカップに手を伸ばして、空であることに気づいて戻した。
「正直に言います。このサンプルを前にして、私の三十年の知識は無力です。既存の生物学の枠組みでは、説明がつかない。あの場所が何なのか、科学的に定義する言葉を、私は持っていません」
森塚がかすかに笑った。疲れた顔に、自嘲のような、諦めのような。
「佐倉さんが最初に言った言葉が、今のところ一番正確かもしれない」
「俺が言った言葉?」
「異世界。——あるいは、差し詰め魔界、ですかね。科学者がこんなことを言うのは恥ずかしいですが」
森塚が眼鏡をかけ直した。
「我々の知っている法則が通じない場所に、我々の知っている生物とは根本的に違う何かがいる。それを魔界と呼ぶなら、私にはそれ以上に適切な言葉が見つからない」
科学者が魔界と言った。冗談めかしてはいたけど、目は笑っていなかった。
「先生。俺にわかるように言うと、要するに何なんですか、あの場所」
「わかりません。本当にわかりません。ですが——」
森塚が資料の山の中からノートを引っ張り出した。手書きの図が描いてあった。円と矢印。フローチャートのような何か。
「この組織片が、あの未知の菌類と共生関係にある可能性が高い。組織片の細胞の表面に、あの菌類の菌糸が侵入した痕跡がありました。ただし、侵入というより——接続、と呼んだ方が正確かもしれない。菌糸が細胞の中に入り込んで、そこでネットワークを形成している。宿主を殺さずに、むしろ共存している」
足の裏がずきんとした。
共存。あいつらは俺の体に入り込んで、俺を殺さずに住み着いている。ずっとそうだ。水ぶくれを作って、模様を残して、でも俺を殺しはしない。あいつらにとって俺は何だ。家か。道具か。
「先生。それ、俺にも起きてることですか」
森塚が頷いた。ゆっくりと。
「可能性は高いです。佐倉さんの皮膚に定着した菌は、あなたの体の一部になりつつある。だからこそ薬が効かない。排除すべき異物ではなく、あなたの体とネットワークを形成している」
「それが、俺があの場所に行ける理由と関係あるんですか」
「まだ証明はできません。ですが、可能性としては——はい。あなたの体に根づいたネットワークが、あちらの世界のネットワークと繋がっている。だからあなただけが行ける。そして、あなたの手を握っている人間だけが、あなたを媒介にして一時的に繋がれる」
鍵。前に森塚がそう言った。俺の体が鍵で、あっちの世界の地面が鍵穴。あの菌が両方に根を張ってる。
「次に行くときの話をさせてください」
森塚が姿勢を正した。
「前回の佐倉さんの報告から、いくつかのことがわかりました。一つ、あちらの大気は防毒マスクで数分は対応可能だが、長時間は危険。二つ、地面は不安定で予告なく崩壊する。三つ、何らかの大型生物が存在し、接近すると大気組成が変化する」
拓海のときと同じだ。事実を並べて、対策を立てる。
「次に行くときは、私も同行します。条件があります」
「条件」
「一、必ずあなたの手を握った状態を維持する。片手は常にあなたと繋いだまま、もう片方の手だけで作業する。二、滞在時間の上限を設ける。私の体力と防毒マスクのフィルター寿命を考慮して、五分。三、大気の変化を感じたら即座に撤収。あなたが帰還の感覚を感じたら、必ず私の手を握ったまま帰る」
一の条件が最も重い。拓海は手を離した。だから帰れなかった。
「先生。兄は手を離したから死にました」
「知っています。だから、この条件です」
「それでも死ぬかもしれない」
「わかっています」
森塚は俺の目を見ていた。怖い顔はしていなかった。覚悟のある顔だった。拓海ともまた違う。拓海は筋を通すために行った。森塚は知るために行く。
「先生、一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「怖くないんですか」
森塚が少し考えた。
「怖いですよ。お兄さんの話を聞いて、正直に言えば、夜眠れなかった日もあります」
初めて聞いた。この人が怖がっている姿を。
「ですが、あの組織片を顕微鏡で見たとき、恐怖より先に来たものがありました」
「何ですか」
「知りたい、です。三十年間、地球上の菌類を見てきました。その全てが同じ基本設計の上にある。それが当たり前だと思っていた。——あの組織片は、その当たり前を壊しました。違う設計がある。違う解き方がある。それを目の前にして、見に行かないという選択肢は、私にはありません」
拓海とは違う動機。拓海は弟を一人で行かせないために行った。森塚は真実を見るために行く。
どちらも、俺には止められない。
「わかりました。次に来たら、先生の手を握ります。——絶対に離しません」
森塚が頷いた。
帰り道、電車の窓に映る自分の顔を見た。疲れた顔だった。
右手を見た。水ぶくれの手。この手で、次は森塚の手を握る。
離さない。今度は、絶対に。




