第12話「同行」
準備に一週間かかった。
森塚が用意したものは前回の倍だった。防毒マスクと防護服は同じ。それに加えて、気密性の高いサンプル容器、小型の温度計、湿度計、簡易的な気圧計。全部ポケットに入るサイズ。「計測できるものは計測する」と森塚は言った。
それから、カラビナ付きのナイロンロープ。二メートル。
「これで互いの腰を繋ぎます。手を離しても物理的に接続が切れないように」
手を繋いだ上に、ロープでも繋ぐ。拓海のことがあるから、森塚は二重にした。
「ロープで繋がっていれば帰れるかは、わかりません」と俺は言った。
「わかりません。ですが、ないよりはましです。手を繋いでいるのが帰還の条件なら、ロープは保険です。手が条件なら、ロープでは帰れない。でも手を繋いだ上でロープもあれば、手が離れそうになったときに引き戻せる」
合理的だ。拓海みたいなことを言う。
——ロープの話だ。ロープの話をしている。
森塚の研究室で装備を着けた。防護服。マスク。ゴーグル。手袋。カラビナとロープで互いの腰を繋いだ。ロープの長さは二メートル。手を繋いだ状態で、互いにしゃがめるぎりぎりの長さ。
「行きましょう」
森塚が右手を出した。俺は左手で握った。右手は作業用に空けておく。森塚も同じ。左手が俺、右手が作業用。
前回は拓海と二人で床に座って待った。今回も同じだ。研究室の床に、防護服姿で、手を繋いで座った。標本瓶の棚を背にして。五十代の大学教授と二十三歳の会社員が、手を繋いで床に座っている。
「……絵面がすごいですね」
「自覚はあります」
森塚の手は乾いていた。拓海の手より小さくて、骨張っていた。力は強くない。でも離さない、という手だった。
待った。十分。二十分。
「来ないこともあるんですか」
「前回は八日待ちました」
「八日」
「ずっとウエストポーチ巻いて寝てました」
森塚がマスクの下で何か言った。笑ったのかもしれない。
三十五分くらい経ったとき、足の裏がずきんと脈打った。
「来ます」
森塚の手を握り直した。森塚が握り返してきた。
足元がぶよぶよした。
明るかった。
今までで一番明るい場所だった。あの灰色の空が広がっている。頭上を覆う枝葉がない。開けた場所。赤黒い地面がどこまでも続いていて、遠くに柱みたいな木の群れが見える。
防毒マスク越しの呼吸。フィルターを通した空気。重いけど、吸える。
森塚の手が、一瞬ぎゅっと強くなった。
「……これが」
森塚の声がマスク越しに聞こえた。掠れていた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です。——大丈夫です」
二回言った。自分に言い聞かせていた。
森塚がゴーグル越しに周りを見た。ゆっくりと。三百六十度。首を回して、全方向を見た。研究者の目だった。
「空の色。大気の散乱が通常と異なる。光源が不明。——気温は」
右手でポケットから温度計を出した。手が震えていなかった。この人の手は震えない。目と脳が動いているとき、手は安定する。研究者の手だ。
「三十二度。湿度——」
湿度計を見た。
「九十一パーセント。気圧は——少し待ってください」
気圧計の数値を読んでいた。俺はその間、周囲を警戒した。地面に変化がないか。瘴気の濃度が変わっていないか。あの圧が来ていないか。
立場が逆だった。前回は拓海が状況を把握する側で、俺がパニックになる側だった。今は俺が見張りで、森塚が観測者。いつの間にか、俺はこの世界の先輩になっていた。
「気圧、千四十二ヘクトパスカル。地表面の標準より高い。大気が濃い。酸素分圧が——」
「先生。計測は後で。まずサンプル」
「……そうですね。すみません。つい」
森塚が照れたように首を縮めた。この状況で「つい」はすごい。この人は計測が始まると周りが見えなくなるタイプらしい。
しゃがんだ。二人同時に。ロープが張った。二メートルの距離を確認した。互いの顔が見える。手は繋いだまま。
右手でスコップを出した。地面を掘った。サンプル管に土を入れた。森塚も右手だけで同じことをやっていた。動きが正確だった。俺より速い。さすがにサンプリングは本職だ。
「表面層。——これは明らかに有機質が高い。色が違う。匂いも——フィルター越しでもわかる」
森塚が独り言のように呟きながら作業していた。サンプル管に土を入れ、蓋を閉め、ポケットに入れる。次の管を出す。その間、左手は俺の手を握ったまま。
俺も採取した。前回と同じ手順。表面と下層を分ける。管に入れる。蓋を閉める。
「あの草。赤黒い草。採れますか」
三メートルほど先に、前回も見た背の低い赤黒い草が群生していた。
「ロープの範囲内なら」
立ち上がった。手を繋いだまま、二人で草の方に歩いた。三歩。ロープに余裕がある。しゃがんで、ピンセットで草を一株引き抜いた。根がぶちっと切れた。切れた断面から、透明な液がじわっと滲んだ。空気に触れた瞬間、うっすら紫に変わった。
「触らないでください」と森塚が言った。「手袋越しでも。前回の水ぶくれの原因がこの植生由来の可能性がある」
サンプル管に入れた。蓋を閉めた。
「先生。あと何分くらい——」
足の裏がずきんとした。
瘴気が変わった。濃くなっていない。薄くなった。風が来た。今まで風なんて感じたことがなかった。生温かくて、湿った風。あっちの方から——柱みたいな木の群れの方から。
風に乗って、匂いが来た。マスク越しでもわかった。甘い腐臭とは違う匂い。もっと鋭い。金属的な。血みたいな匂い。
「先生。帰ります。今すぐ」
「何か——」
「匂いが変わった。前と違う。知らない匂いが来てる」
森塚は反論しなかった。サンプル管を素早くポケットに押し込んで、立ち上がった。俺の手を強く握った。
「帰れますか」
「わかりません。来たら帰れます。来なかったら——」
風が強くなった。あの柱みたいな木の群れの上を、何かが飛んだ。一瞬だった。黒い影が、灰色の空を横切った。大きい。鳥じゃない。翼のようなものが見えたが、鳥の翼じゃない。膜。薄い膜が広がっていた。
森塚が見上げていた。ゴーグルの奥で目が見開かれていた。
「あれは——」
「見ないでください。先生。俺の手だけ見ていてください」
空を飛ぶ何かが、旋回した。こっちに向かって降下している。ように見えた。確証はない。でも嫌な感じがした。あの金属的な匂いがさらに強くなっている。
足元がぶよぶよした。
来た。帰還。
森塚の手を握っている。ロープも繋がっている。大丈夫。大丈夫だ。
「先生、手握ってますか」
「握ってます」
地面が消えた。
研究室の床だった。
二人で尻餅をついていた。手が繋がったまま。ロープも繋がったまま。
森塚が隣にいた。
いた。
「……先生」
「います」
「帰れました」
「帰れましたね」
森塚がマスクを外した。深く息を吸った。研究室の空気を。薬品と古い紙の匂い。この人にとっての日常の匂い。
俺もマスクを外した。
森塚の顔を見た。目が赤かった。ゴーグルの中で泣いていたのか、瘴気の刺激か。わからなかった。でも、口元は笑っていた。
「すごい」
それが、森塚の最初の言葉だった。
「すごい世界だ。——あの空。あの地面。あの空気。全部が全部、地球じゃない」
ポケットからサンプル管を出した。森塚のが四本、俺のが三本。合計七本。
全部持って帰れた。
森塚が温度計と湿度計と気圧計を机の上に並べた。数値をノートに書き写した。手が震えていた。さっきは震えていなかったのに。帰ってきてから震え始めた。緊張が解けたのだ。
「あの飛んでいたもの」と森塚が言った。「見ましたか」
「見ました。見るなと言いましたけど」
「膜状の翼。あれは——いや、まだ何も言えません。データが足りない」
森塚がペンを置いた。椅子の背にもたれた。天井を見上げた。
「佐倉さん。あそこは本当に魔界ですね」
冗談ではなかった。
「地球上のどの環境とも一致しない。大気組成も、土壌の性質も、あの植物も、あの飛翔体も。——三十年やってきて、自分の知識が完全に通用しない場所に立ったのは初めてです」
「怖かったですか」
森塚が俺を見た。
「怖かった。——でも、もう一度行きたい」
やっぱりこの人もだ。拓海と同じだ。怖くても行く。動機は違う。でも結果は同じ。
「先生。一つ約束してください」
「何ですか」
「絶対に手を離さないでください。何があっても。何が見えても。何を採りたくても」
森塚が頷いた。
「約束します」
帰り道。電車の中。サンプル管が七本、リュックの中にある。拓海の五本と合わせて十二本。
あの空を飛んでいたもののことを考えていた。翼膜。旋回。降下。あれは何だ。地面の魔物とは違う。空にもいる。地面にも空にも、あの世界は何かで満ちている。
金属的な匂いを思い出した。血みたいな匂い。あれは何の匂いだったんだろう。
家に着いた。テーブルの上には何もなかった。ビールの缶はもうない。拓海の財布だけが置いてある。
明日は月曜日。会社に行かなきゃいけない。拓海の失踪届の手続きも進めなきゃいけない。
でも今夜は、少しだけ眠れる気がした。森塚が帰ってきたから。手を離さなかったから。
今日、誰も死ななかった。
それだけで、十分だった。




