第13話「遭」
森塚が動いていた。
サンプル十二本の分析結果をまとめた報告書を作っていた。A4で四十ページ。「これを持って、然るべき機関に話を通します」と森塚は言った。然るべき機関が何を指すのか、俺にはわからなかった。
「文科省の研究振興局に知り合いがいます。それから、防衛省にも話を通す必要があるかもしれません」
「防衛省」
「未知の環境に人間を送り込む。防護装備がいる。大気の分析がいる。場合によっては武装がいる。——民間の研究者だけでは限界があります」
拓海が生きていたら、同じことを言っただろう。装備がいる。ちゃんとした装備が。
「先生。それ、どれくらいかかりますか」
「早くて一ヶ月。遅ければ三ヶ月。官僚を動かすのは菌糸より遅い」
冗談を言った。この人は疲れると冗談を言う。
「それまでに、もう一回行きたい」と森塚が言った。「前回の計測データだけでは足りない。大気のサンプリングがしたい。今回は専用の容器を用意しました」
机の上に小さな金属製の筒が二本あった。バルブ付きの気密容器。「現地で開けて、閉める。それだけで大気を持ち帰れます」
もう一回。
怖かった。でも森塚が行くと言うなら、俺は手を握る。それが俺の仕事だ。
装備は前回と同じ。防護服、マスク、ゴーグル、手袋。ロープで腰を繋ぐ。サンプルキット。それに大気採取用の金属筒を二本。
森塚の研究室。夜の八時。二人で床に座った。手を繋いだ。前回は三十五分待った。今回はもっと早いかもしれないし、来ないかもしれない。
「先生」
「はい」
「前回、空を飛んでたやつ。あれが来たら、今度は走れないかもしれない」
「わかっています」
「走れなかったら、しゃがんで、動かないでください。地面に伏せて。目立たないように」
「了解です」
七分で来た。
足の裏がずきんと脈打った。森塚の手を握り直した。森塚が握り返した。
足元がぶよぶよした。
暗かった。
柱みたいな木の群れの中。また最初のときと似た場所。頭上を枝葉が覆い、灰色の光がほとんど届かない。地面は硬い。沈まない。
マスク越しの呼吸。前回より瘴気が濃い気がした。フィルターを通しても、甘い腐臭が微かに届く。
「先生」
「います。——暗い。前回より暗い」
「木の中です。前に来たことある場所に近い」
LEDライトを点けた。小さな光。森塚もポケットからライトを出した。二つの光が赤黒い地面を照らした。地面の網目状の筋が、光から逃げていくのが見えた。
「これが。——これがあの菌糸ネットワークですか」
森塚の声が震えていた。でも恐怖じゃなかった。
「先生、大気の採取を先に」
「そうでした」
森塚が右手で金属筒を出した。バルブを開けた。しゅっ、という小さな音。空気が入っていく。三秒。バルブを閉めた。ポケットにしまった。もう一本も同じように。
「採れました」
速い。この人は二回目で手際がよくなっている。
俺は地面のサンプルを採った。左手は森塚。右手でスコップ。管に入れる。蓋を閉める。もう慣れた。この動きに慣れてしまった自分が、少し怖かった。
三本採ったところで、森塚がライトを幹に向けた。
「佐倉さん。この幹の表面を見てください」
見た。脈動する表面。鈍く明滅する粘液。前に見たものと同じだ。
「粘液の下に。——何か、模様がある」
ライトを近づけた。確かに、粘液の層の下に、暗い色の筋が走っていた。地面の網目と同じパターン。あの筋が木の表面にも走っている。地面から木の幹まで、あの網目が全部繋がっている。
「ネットワークだ。地面だけじゃない。この森全体がネットワークで繋がっている」
森塚がポケットからメモ帳を出して、走り書きしていた。右手だけで。左手は俺の手を握ったまま。
「先生。時間」
「あと一分だけ。この幹のサンプルを——」
足の裏がずきんと痛んだ。
違った。今までの脈動とは違う痛み。鋭い。針で刺されたような。
地面の筋が動いた。前回と同じ。全部が同じ方向に、一斉に逃げていく。幹の表面の筋も、同時に動いた。粘液がぶるっと震えた。
木全体が震えていた。この木だけじゃない。周りの木も。全部が同時に。
「帰ります」
「何が——」
「全部震えてる。地面も木も全部。前とは違う。前は地面だけだった。今度は森全体が——」
音が来た。
前回の、あの内臓を揺さぶる低周波とは違う音だった。もっと高い。鋭い。空気を裂くような音。上から。
上。
頭上の枝葉が爆発した。
そうとしか表現できなかった。覆い尽くしていた枝葉が一瞬で砕け散って、灰色の空が剥き出しになった。光が一気に差し込んだ。何かが上から突っ込んできて、枝葉を粉砕しながら降下してきた。
見えた。
見てしまった。
巨大だった。翼があった。膜状の翼が広がっていた。前回遠くで見たやつの、何倍も大きい。体の表面がぬめぬめと光っていて、色がわからない。灰色の空に溶け込むような色。腹の下に何本もの脚——脚なのか腕なのかわからない何かがぶら下がっていて、それが枝葉を掴んで引きちぎっていた。
頭。頭があった。長くて、平たくて、先端が鉤のように曲がっている。口が——口は見えなかった。頭の下側全部が口だった。割れていた。開いていた。
匂いが来た。あの金属的な匂い。マスクのフィルターを貫通してきた。血。血の匂い。あれの口から。
「——っ」
叫べなかった。声が出なかった。足が動かなかった。
森塚が俺の手を引いた。
「走って!」
森塚が叫んでいた。俺が動けなかった。研究者が、五十代の大学教授が、俺を引きずるようにして走り出した。手を繋いだまま。ロープが張った。
走った。木の間を。枝を避けて。地面の蟲を踏んで。どこに向かっているかわからない。とにかく、あれの下から離れる。
背後で、木が折れる音がした。ばきん。ばきん。ばきん。連続で。あいつが木を掴んで折りながら降りてきている。地面に降りようとしている。
地面全体が揺れた。あいつが木の上にいるだけで、森の地面が波打っている。重さ。あれだけの翼幅の生き物の重さが、木を介して地面に伝わっている。
森塚が転んだ。
木の根に足を取られた。防護服の膝が赤黒い地面に突いた。俺が引っ張った。立て。立ってください。
森塚が立ち上がった。走り出した。
背後の音が変わった。木を折る音が止んだ。代わりに、空気を裂く音。あいつが地面に降りるのをやめて、もう一度飛び上がった。旋回している。上から見ている。
俺たちを見ている。
「伏せて!」
二人で地面に伏せた。手を繋いだまま。ロープが二人の間で張っていた。赤黒い地面に顔をつけた。泥の匂い。地面の匂い。マスク越しでも。
頭上を影が通過した。風圧で髪が揺れた。防護服がばたばた鳴った。通り過ぎた。
「……行った?」
俺が顔を上げた。灰色の空に、あの影が遠ざかっていく。旋回しながら。まだこっちを見ている。でも離れていく。
「先生、今のうちに——」
森塚を見た。
森塚は地面に伏せたまま、右手でメモ帳に何か書いていた。左手は俺の手を握ったまま。顔を地面につけたまま、右手だけ動かして、書いていた。
「先生。何やって」
「記録です。翼幅推定十五メートル以上。膜状翼。複数の把持肢。頭部が扁平。口腔が頭部腹面全体を占める。体表に粘液層。——見たものを忘れる前に」
この人は。この状況で。
「立ってください。帰れるかもし——」
足の裏が脈打った。痛みじゃない。帰還の兆候だ。あのぶよぶよが来る。
「先生! 帰還来ます! 手を——」
握っている。握っている。大丈夫だ。
あの影が旋回を止めた。こっちに向かって急降下してきた。翼を畳んで、矢のように。
速い。
足元がぶよぶよし始めた。来る。帰還が来る。間に合え。間に合ってくれ。
影が近づいてくる。あの口が開いている。頭の下側全体が裂けるように開いている。中に何列もの——
見るな。見るな。
森塚の手を握っている。握っている。
地面が消え——
衝撃。
森塚の手が、引っ張られた。上に。ロープが一瞬ぴんと張って、腰に食い込んで、それから——ぶつん、と。ロープが切れた。
森塚の手が俺の手から抜けた。
引き抜かれた。上に。持っていかれた。
指の間に、森塚の手袋の感触が一瞬残って、消えた。
研究室の床だった。
一人だった。
手が空だった。左手に、ゴム手袋の切れ端が握られていた。森塚の手袋の、指先の部分だけ。
ロープが腰から垂れていた。途中でちぎれていた。断面が鋭い。噛み切られたのか、引きちぎられたのか。
森塚の机の上に、コーヒーのマグカップがあった。三つ。さっき淹れたやつ。まだ温かいはずだった。
タブレットの画面が点いたままだった。報告書の草稿が表示されていた。A4四十ページ。然るべき機関に持っていくはずだった報告書。
棚の標本瓶。蛍光灯。薬品の匂い。
全部、森塚のものだった。
左手のゴム手袋の切れ端を見た。森塚の手の形が、まだ残っている気がした。
握った。
握って、目を閉じた。
研究室の時計が音を立てていた。九時十二分。転移から帰還まで、たぶん十分もなかった。
ポケットを探った。サンプル管。三本。大気の金属筒。二本。森塚のメモ帳。ない。森塚が持っていた。あの記録。翼幅推定十五メートル。膜状翼。複数の把持肢。あのメモ帳は森塚と一緒に持っていかれた。
でも俺は聞いた。森塚が読み上げたのを聞いた。覚えている。
ポケットから自分のメモ帳を出した。鉛筆を握った。手が震えていた。
書いた。
「翼幅15m以上。膜状翼。把持肢複数。頭部扁平。口腔が頭部腹面全体。体表粘液層。降下速度——やばいくらい速い。ロープ噛み切るか引きちぎる力がある」
それから。
「森塚敬一教授。死亡。把持され上空に持ち去られた」
書いて、鉛筆を置いた。
報告書の草稿がタブレットに残っている。データが残っている。森塚が一週間かけて分析した結果が、全部この部屋に残っている。
サンプル管を机の上に並べた。三本。大気の金属筒を隣に。二本。
森塚の命と引き換えに。また。
拓海のときと同じだ。人が死んで、サンプルが残る。
椅子に座った。森塚の椅子じゃなくて、来客用の、あの古い革張りの椅子。前にコーヒーを飲みながら泣いた椅子。
泣かなかった。
泣けなかった。涙が出なかった。拓海のときは泣いた。今回は出なかった。体が涙の出し方を忘れたのか、それとも壊れたのか。
ただ座っていた。左手にゴム手袋の切れ端を握ったまま。
然るべき機関。森塚が持っていくはずだった報告書。あの人がいなくなったら、誰が持っていく。
俺しかいない。
タブレットに手を伸ばした。報告書の草稿を開いた。四十ページ。読んだ。全部は理解できなかった。でも読んだ。
朝までかかった。




