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魔界世界  作者: 彗
孤独

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14/21

第14話「残」


 森塚の失踪届は、大学側が出した。


 俺は何もしなかった。何もする必要がなかった。教授が突然大学に来なくなり、連絡がつかなくなれば、大学が動く。警察が動く。俺が動かなくても、世界は勝手に森塚の不在を処理し始めた。


 拓海のときとは違った。拓海は弟の俺しか異変に気づけなかった。森塚には研究室があった。学生がいた。事務がいた。学部長がいた。


 会社で仕事をしていた。月曜日。エクセルを開いていた。何も頭に入ってこなかったが、指は動いた。最近はずっとそうだ。


 昼過ぎに、知らない番号から電話が来た。


 「佐倉悠さんの携帯でしょうか。東央大学の園田と申します。森塚研究室の」


 心臓が止まるかと思った。


 「……はい」


 「突然すみません。森塚先生のことでお話を伺いたいのですが、お時間いただけますか」


 女の声だった。若い。俺と同じくらいか、少し上か。落ち着いているが、声の奥に硬いものがあった。


 「森塚先生がいなくなる前日に、先生の研究室の入退室記録にお名前がありました。最後に先生に会われたのは佐倉さんだと思うんですが」


 入退室記録。大学の建物はセキュリティカードで管理されている。俺は森塚に言われて、ゲスト用のカードを借りて入った。記録が残っていた。


 「お話しすることは、あまりないですけど」


 「五分だけで構いません。——先生のことが心配なんです」


 心配。森塚のことが心配。この人は、まだ森塚が生きていると思っている。


 「わかりました。いつがいいですか」


 「今日、お仕事の後にお会いできますか。大学でも、どこでも」


 定時で上がった。電車に乗った。大学の最寄り駅の改札を出たところに、女が立っていた。


 園田という人間を見た第一印象は、小さい、だった。百五十センチあるかないか。髪を後ろで一つに結んでいる。眼鏡。白いブラウスにジーンズ。リュックを背負っていて、中身がぱんぱんに詰まっている。


 「佐倉さんですか。園田梓です」


 名刺を渡された。園田梓。東央大学大学院理学研究科生物学専攻。博士後期課程三年。


 博士課程の三年目。森塚の弟子だ。


 駅前のチェーンのカフェに入った。園田がアイスコーヒーを頼んだ。俺はホットのブラックを頼んだ。森塚がインスタントを淹れてくれたのを思い出した。


 「単刀直入に聞きます」


 園田がストローを咥えたまま言った。


 「佐倉さん、先生に何を依頼してたんですか」


 「……依頼?」


 「先生のパソコンにデータが残ってます。未知の微生物のゲノム解析データ。組織片の細胞構造の分析。全部ファイル名に『佐倉サンプル』って入ってる。先生の個人ディレクトリに。——研究室の共有サーバーじゃなくて、先生の個人フォルダ。他のメンバーは気づいてないと思います。私はバックアップ作業で先生のディレクトリに入って、たまたま見つけた」


 全部残っている。パソコンのデータ。ファイル名に俺の名前。


 「それだけじゃないです。先生、報告書の草稿も書いてた。タブレットに。四十ページの。文科省と防衛省に持っていくつもりだった。——あれ、読みました。全部」


 園田の目が真っ直ぐだった。アイスコーヒーのストローを離して、俺を見ていた。


 「何なんですかあのサンプル。地球上に存在しない微生物。既知の分類群に属さない多細胞生物の組織片。先生が『魔界』って書いてるメモまである。——森塚先生が、魔界って。冗談じゃなく書いてる」


 森塚の報告書を読んだ。データを見た。魔界というメモも見た。この人は全部知っている。


 「先生はどこに行ったんですか」


 園田の声が小さくなった。さっきまでの切り込むような調子が消えて、ただの心配している人間の声になった。


 「先生は、あの夜、佐倉さんと一緒に研究室にいた。入退室記録ではそうなってる。佐倉さんが出たのが夜の九時十三分。先生は出ていない。建物のどこにもいない。防犯カメラにも映ってない。——先生は、あの研究室から消えたんです」


 九時十三分。俺が帰還した時刻。入退室記録に俺の退出が記録されて、森塚の退出は記録されなかった。森塚はあの研究室から出ていない。出ていないのにいない。


 「佐倉さん。お願いです。何か知ってるなら教えてください。先生を探す手がかりが欲しいんです」


 探す手がかり。森塚はあの世界の空にいる。あの飛翔体の腹の中にいる。もうどこにもいない。


 「園田さんは、森塚先生の弟子なんですよね」


 「はい。学部四年から。六年になります」


 「先生のこと、信頼してましたか」


 「してます。今も」


 今も。まだ生きていると思っている。


 コーヒーのカップを持ったまま、園田の目を見ていた。


 話すべきか。話すべきじゃないか。拓海に話した。死んだ。森塚に話した。死んだ。


 でもデータは残っている。報告書は残っている。園田はもう半分知っている。森塚が命をかけて集めたデータが、このまま大学のパソコンの中で眠るのか。


 「信じなくていいです」


 三回目だった。拓海に言った言葉。森塚に言った言葉。同じ言葉を、また。


 「聞きます」と園田が言った。


 森塚と同じ返事だった。


 話した。今回は前より多く話した。魔界のこと。転移のこと。サンプルのこと。拓海のこと。森塚と一緒に行ったこと。森塚が持ち去られたこと。


 最後の部分で、園田のアイスコーヒーを持つ手が震えた。ストローから口を離して、テーブルの上にカップを置いた。


 「先生は死んだんですか」


 「……はい」


 「遺体は」


 「ありません」


 「確認のしようがない」


 「はい」


 園田がしばらく黙っていた。カフェのBGMがやけにうるさかった。隣のテーブルで大学生が笑っていた。


 「証拠は」


 「サンプルが研究室にあります。先生が分析したデータも全部。——あと、これ」


 左手を開いた。ポケットからゴム手袋の切れ端を出した。森塚の手袋の、指先の部分。ずっと持ち歩いていた。


 「先生の手袋です。引きちぎられたとき、俺の手に残った」


 園田がそれを見た。長い間見ていた。


 「……先生の手袋だって、わかる?」


 「研究室に同じものがあるはずです。先生が用意した装備の一つだから」


 園田がリュックからノートを出した。ペンを出した。


 「もう一回、最初から話してください。全部記録します」


 森塚と同じだ。聞いて、記録する。


 「園田さん」


 「はい」


 「俺と関わった人間は死にます。兄が死にました。森塚先生が死にました。二人とも、俺と一緒にあの場所に行って、死にました」


 園田の手が止まった。ペンを持ったまま。


 「それでもですか」


 「それでもです」


 即答だった。目が据わっていた。小さい体で、カフェの椅子に背筋を伸ばして座って、俺を真っ直ぐ見ていた。


 「先生が命をかけて集めたデータがある。報告書がある。それを誰かが引き継がなきゃ意味がない。佐倉さん一人じゃ無理でしょう。先生の研究を理解できるのは、あの研究室では私しかいません」


 あの研究室では私しかいません。


 俺しかいない、と俺も思った。拓海がいなくなったとき。森塚がいなくなったとき。同じ構造だ。一人になった人間が、残されたものを引き継ぐ。


 「一つだけ約束してください」


 「何ですか」


 「あの場所には行かないでください。俺が連れて行かない。手を握らない。絶対に」


 園田がペンをくるりと回した。


 「それは、今は約束します」


 今は。


 「全部話してください。最初から」


 もう一杯コーヒーを頼んだ。カフェが閉まるまで話した。園田はノート十七ページ分の記録を取った。字が小さくて、几帳面で、森塚の字に似ていた。


 店を出て、駅に向かって歩いた。園田が隣を歩いていた。背が低くて、歩幅が狭い。俺が普通に歩くと置いていきそうになる。


 「佐倉さん」


 「はい」


 「先生の報告書、私が引き継ぎます。文科省への接触も。防衛省は——先生の知り合いの連絡先がメールに残ってるはずなので、探します」


 「園田さんが行くんですか。博士の学生が」


 「森塚研究室の人間が行くんです。肩書きは先生のを借ります。——先生の名前なら、門前払いにはならない」


 小さい背中が、改札に向かって歩いていった。リュックが体に対して大きすぎて、亀みたいだった。


 帰りの電車で、窓に映る自分の顔を見た。


 また一人増えた。また一人、あの世界に近づく人間が増えた。


 園田梓。博士課程三年。百五十センチ。眼鏡。小さい字でノート十七ページ。


 この人は、あの場所に行きたいと言い出すだろう。「今は約束します」の「今は」が、そう言っていた。


 でも行かせない。今度は、行かせない。


 拓海のビールの缶は捨てた。森塚の手袋の切れ端はまだ持っている。


 三つ目を増やすわけにはいかない。

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