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魔界世界  作者: 彗
孤独

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15/22

第15話「独」


 園田は速かった。


 翌日には森塚のメールアカウントから連絡先を洗い出していた。文科省の研究振興局に森塚の知人がいた。名前は出さなかったが、「アポが取れました」とだけメッセージが来た。


 三日後、園田から電話が来た。


 「文科省の人と会いました。報告書とサンプルの一部を見せました」


 「反応は」


 「最初は半信半疑でした。でもサンプルの顕微鏡写真を見せたら黙りました。——来週、もう一回会います。今度は上の人が来るそうです」


 上の人。官僚の上。


 「園田さん。俺の名前は出したんですか」


 「出してません。まだ。サンプルの出所は森塚先生としか言ってません。先生が行方不明であることは伝えましたが、佐倉さんのことは——まだ早いと思って」


 「ありがとうございます」


 「佐倉さん。一つ聞いていいですか」


 「はい」


 「会社、大丈夫ですか」


 大丈夫じゃなかった。拓海の失踪から三週間。俺は毎日会社に行っていたが、何も手についていなかった。上司に呼ばれた。「佐倉、お兄さんのこともあるだろうし、少し休め」。有給を取れと言われた。拓海の件で精神的に参っていると思われている。間違ってはいない。


 有給を取った。三日。三日間、家にいた。何もしなかった。テーブルの上に拓海の財布と森塚の手袋の切れ端が並んでいる。それを見ながら、ぼんやりしていた。


 四日目に、辞表を書いた。


 あの会社にいる意味がなくなっていた。拓海がいた会社。拓海の席が空いている会社。毎日あの空席を見ながら働くのは、もう無理だった。それに、これから起きることに、会社員の生活は両立しない。いつ転移が来るかわからない。会議中に消えるかもしれない。取引先との電話中に消えるかもしれない。


 上司は引き留めた。「お兄さんのことで判断力が落ちてるんだ。今決めるな」。正論だった。でも俺の判断力が落ちているのは兄の失踪のせいじゃない。あの世界のせいだ。あの世界が俺の人生を全部書き換えてしまった。


 退職届を出した。受理されるまで二週間。有給を消化する形で、実質的にはもう行かなかった。


 園田に報告した。


 「会社辞めました」


 電話の向こうで、園田が少し黙った。


 「……生活は」


 「貯金で少しは持ちます。それに、会社員やりながらあの世界に行くの、もう限界だったんで」


 「佐倉さん」


 「はい」


 「先生の研究室、使ってください。先生がいなくなってから、あの部屋はほとんど私しか使ってません。居場所がないなら、あそこに来てください」


 居場所。


 森塚の研究室が、俺の居場所になる。標本瓶と薬品の匂いの部屋。森塚が死んだ部屋。


 「……ありがとうございます」


 それから一週間、何も起きなかった。転移は来なかった。


 園田の研究室に通い始めた。電車で通った。スーツじゃなくて、ジーンズとパーカーで。ウエストポーチは常に腰に巻いている。中にサンプルキット。ポケットにジップロックとメモ帳と鉛筆とLEDライト。靴紐はきつく結んでいる。


 園田は忙しかった。自分の博士論文の研究と、森塚のデータの解析と、文科省との折衝を同時にやっていた。研究室のパソコンの前に朝から晩まで座っていて、俺が行くとコーヒーを淹れてくれた。インスタント。森塚と同じ銘柄だった。


 「先生がいつもこれ飲んでたんで。私も慣れちゃって」


 森塚の椅子には座らなかった。園田も俺も。あの椅子だけ空けたままだった。


 園田と話しているうちに、この人の頭の回転の速さがわかってきた。森塚のデータを見ながら、仮説を次々に立てていく。


 「この菌糸ネットワーク、地球のマイコライザルネットワークと機能的に類似してるんです。でも構成する菌糸の細胞構造が根本的に違う。同じ役割を、全然違う方法でやってる。——先生が『同じ問題を別のやり方で解いた』って書いてたのは、本当にその通りで」


 俺には半分もわからなかったが、園田が森塚の研究を正しく引き継いでいることはわかった。


 その夜だった。


 園田の研究室で、データの整理を手伝っていた。園田が隣のパソコンで作業をしていた。時計は夜の十時を過ぎていた。


 足の裏がずきんと脈打った。


 「——っ」


 立ち上がった。椅子が後ろに倒れた。園田が振り向いた。


 「佐倉さん?」


 「来る。転移が来る」


 園田の顔色が変わった。椅子から立ち上がって、一歩こっちに来ようとした。


 「来るな!」


 叫んだ。園田が止まった。二メートルの距離。手は届かない。


 「近づくな。手を出すな。俺に触れるな」


 「佐倉さん——」


 「頼むから」


 足元がぶよぶよし始めた。園田が俺を見ていた。目が大きくなっていた。眼鏡の奥で。


 「必ず帰ってきてください」


 園田の声が聞こえた。小さかった。でも聞こえた。


 地面が消えた。


 開けた場所だった。


 灰色の空。赤黒い地面。久しぶりの単独行。防護服は着ていない。マスクもない。パーカーとジーンズとスニーカー。ウエストポーチだけが装備。


 瘴気が肺に入ってきた。咳き込んだ。何回目だ。もう何回目だかわからない。でも前ほど酷くない。体が慣れてきている。慣れていいのか。慣れたくない。


 「……くそ」


 拓海の口癖が出た。


 周りを見た。開けた場所。前に来たことがある気がする。遠くに柱みたいな木の群れ。背の低い赤黒い草の群生。地面は硬い。


 一人。手を繋ぐ相手がいない。帰還は勝手に来る。それまで生き延びればいい。それだけだ。


 LEDライトを点けた。足元を照らした。地面の網目状の筋が光から逃げていく。いつもの。


 しゃがんだ。サンプルキットを開けた。やることは決まっている。採れるだけ採って、記録して、帰る。


 サンプル管に土を入れた。表面。下層。三本目。近くの赤黒い草を一株引き抜いた。透明な液が紫に変わった。管に入れた。


 メモ帳を出した。書いた。


 「単独。防護なし。開けた場所。地面硬い。視界良好。風なし。匂い——いつもの瘴気。追加の匂いなし」


 追加の匂いなし。あの金属的な匂いがない。上にも何もいない。灰色の空だけ。


 立ち上がった。もう少し歩いてみよう。前は怖くて十歩が限界だった。今はもう少し行ける。


 歩いた。二十歩。三十歩。地面が硬いまま。蟲が時々横切る。もう驚かない。腕くらいの太さの蟲。青い光の筋。


 五十歩。百歩。


 遠くの木の群れが少し近づいた。その手前に、何かがあった。


 地面の色が違う場所。赤黒い中に、灰色の部分がある。円形。直径三メートルくらい。地面の筋がその円を避けて走っている。あの網目が近づかない場所。


 近づいた。


 灰色の地面。硬い。足で踏んだ。硬い。周りの赤黒い地面より明らかに硬い。石。石みたいだ。でも石じゃない。表面に細かい構造がある。溝。規則的なのか不規則なのかわからない溝が、表面全体に走っている。


 しゃがんだ。LEDライトを近づけた。


 溝の幅も深さもまちまちだった。一見するとランダムに見える。でもよく見ると、同じ形が何度か繰り返されている気もする。いや、わからない。パターンなのかノイズなのか、俺の目では判断できない。自然にできた模様にも見えるし、何かが意図的に刻んだようにも見える。


 ただ、一つだけ確かなことがあった。この灰色の素材は、この世界のどこにもない。赤黒い地面とも、脈動する木の幹とも、蟲とも、草とも違う。何かが、ここにこれを置いた。あるいは作った。


 心臓がうるさかった。


 メモ帳を出した。手が震えていた。見えている構造をスケッチした。正確には描けない。溝の形を追おうとしたが、途中で見失う。一部分だけ写し取った。


 灰色の円の端に、何か突き出ているものがあった。棒状。高さ三十センチくらい。地面から垂直に立っている。表面があの灰色の素材と同じ。同じような溝が入っている。


 棒の先端に、何かが嵌め込まれていた。半透明の、丸いもの。ガラスみたいな。でもガラスじゃない。近づいたら、かすかに温かい気がした。熱源がある。生きている? これが?


 LEDライトを当てたら、その半透明の丸いものが反応した。光を当てた側とは反対側の表面が、うっすらと色を変えた。赤黒く。光に反応している。でもあの地面の筋みたいに逃げるのではなく、何かを返している。


 何だこれは。何のためのものだ。


 触ろうとして、止めた。触るな。持って帰るな。何を壊すかわからない。何のための装置かわからない。


 足の裏がずきんと脈打った。帰還の兆候。


 足元がぶよぶよした。


 帰還。


 研究室の床だった。


 園田が目の前にいた。床に座り込んでいた。俺が消えた場所で、ずっと座って待っていたのか。


 「佐倉さん!」


 「……帰ってきた」


 「何分でした。七分。七分消えてました」


 園田がスマホのストップウォッチを見せた。7:13。正確に計っていた。


 「怪我は。大丈夫ですか。血は。吐いてないですか」


 「大丈夫。今回は——大丈夫だった」


 座ったまま、ポケットからサンプル管を出した。四本。メモ帳を出した。


 「これ。あと——園田さん」


 「はい」


 「何か見つけた。構造物みたいなやつ。地面に。自然のものじゃない」


 園田の目が変わった。森塚と同じ目。知りたい、という目。


 メモ帳を開いた。震える手で描いたスケッチを見せた。灰色の円。溝の構造。棒。半透明の球体。


 園田がそれを受け取って、長い間見ていた。


 「……この溝、何かのパターンですか?」


 「わからない。パターンに見えたり、ランダムに見えたり。俺の目じゃ判断できなかった」


 「ライトを当てたら反応した、というのは」


 「球体の反対側が色を変えた。光を返してるみたいだった」


 園田が黙った。ペンをくるりと回した。あの癖。


 「何かの装置ですね。機能はわからないけど、少なくとも自然物じゃない。——これを作った知性がある」


 知性。


 あの世界に、知性がある。


 でも、あの溝のパターンが俺の目には読み取れなかったように、その知性は俺たちとは違う。人間にわかる形をしていない。俺が模様だと思ったものは、模様じゃないのかもしれない。あの球体が光に返したものは、俺たちへのメッセージなんかじゃなく、俺たちには想像もつかない何かの機能なのかもしれない。


 あの世界のものは、全部そうだ。見えているのに、わからない。


 園田が俺を見た。


 「佐倉さん。これはもう、私たちだけで抱える話じゃなくなりました」

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