第8話「喪」
森塚は話が早かった。
サンプル二本を渡した翌日には電話が来た。「想像以上です」とだけ言った。声が震えていた。研究者の声が震えるのを、二度目に聞いた。
三日後、森塚の研究室で打ち合わせをした。俺と拓海と森塚。大学の古いビルの四階。棚に標本瓶がずらっと並んでいて、部屋中が薬品の匂いだった。この匂いなら大丈夫だ。あっちの匂いじゃない。
森塚が言った。「次に行かれるなら、装備を用意します」
防毒マスクを二つ。有機ガス用のフィルター付き。それから耐薬品性のゴム手袋、密閉型のゴーグル、タイベックの防護服。「最低限です」と森塚は言った。「本来なら自給式の呼吸器が欲しい。でもあれは重い。機動力を優先するなら、防毒マスクが現実的です」
「完全には防げない?」と拓海が聞いた。
「防げません。有機ガス用フィルターは既知の有機化合物に対応したものです。あちらの大気に何が含まれているか、我々はまだ正確には把握していない。ただ、直接吸うよりは遥かにましです」
拓海が頷いた。「それでいく」
俺は黙っていた。
装備はリュックに入れて、家に持ち帰った。防毒マスク、ゴーグル、手袋、防護服。全部出して、テーブルの上に並べた。前回のウエストポーチのサンプルキットも隣に置いた。
拓海が夜また来た。ビールは買ってこなかった。
「行くぞ」
「……兄貴」
「前回は事故だった。今回は違う。準備して行く」
「兄貴が行く必要は——」
「ある。お前一人で片手にサンプル管、片手に歯ブラシで行かせるわけにいかないだろう」
笑えなかった。
「前回、鼻血出てた。吐いてた」
「防毒マスクがある。今回は違う」
「違わない。あそこはマスクがあっても——」
「悠」
名前を呼ばれた。兄貴に名前で呼ばれたのは、いつぶりだろう。
「お前が四回一人で行った場所に、兄貴が一回も行かないのは筋が通らない」
筋。この人はいつもそうだ。正しいとか正しくないとかじゃなくて、筋が通るかどうか。
「死ぬかもしれない」
「お前も毎回死にかけてる」
返す言葉がなかった。
防護服を着た。防毒マスクをつけた。ゴーグルをかけた。手袋をはめた。狭いワンルームで、二人して化学災害の現場みたいな格好で立っていた。
「似合わないな」と拓海が言った。マスク越しでくぐもっていた。
「兄貴もだ」
拓海が右手を出した。俺はその手を握った。
「来るまで、このまま待つのか」
「わからない。いつ来るかは、こっちじゃ決められない」
待った。五分。十分。防毒マスクが暑かった。自分の呼吸音がうるさかった。来ない。こういうときに限って来ない。
「座って待つか」と拓海が言って、繋いだ手はそのまま、二人で床にあぐらをかいた。防護服が擦れてがさがさ鳴った。
「……間抜けだな」
「うん」
拓海が空いた左手でビールの缶を取ろうとした。マスクをつけたままでは飲めないことに気づいて、缶を戻した。
「これ終わるまでビール飲めないのか」
「飲めない」
「最悪だ」
そのとき、足の裏の痕がずきんと脈打った。
来る。
拓海に伝わったのかはわからない。でも拓海は俺の手を見た。それから俺の顔を見た。何かを察したように、繋いだ手をぐっと握り直した。指の骨が軋むくらい。防護手袋越しでも伝わる力だった。
拓海が頷いた。マスクの上から見える目が、笑っていた。大丈夫だ、と。行くぞ、と。声は出さなかった。目だけで言った。
足元がぶよぶよした。
暗かった。
柱みたいな木の群れの中。頭上を枝葉が覆い尽くしている。灰色の光がほとんど届かない。地面は硬い。沈まない。
防毒マスク越しの呼吸。フィルターを通した空気。あの匂いが薄い。完全には消えていないけど、肺が拒絶しない。息ができる。まともに息ができる。初めてだった。
「兄貴」
「——いる」
拓海の手が俺の右手を握っていた。防護服越し。手袋越し。体温が遠い。
「息できるか」
「……ああ。マスク、すげえな。全然違う」
拓海がゴーグル越しに周りを見ていた。あの柱みたいな木。脈動する幹。鈍く明滅する粘液。
「前より、見えるな。前は涙で何も見えなかった」
ゴーグルのおかげだ。粘膜がやられない。目が開けていられる。今まで涙と恐怖で見えなかったものが、見える。
「サンプル採る。兄貴、手を繋いだまま——」
そう言いかけたとき、拓海が俺の手を離した。
足の裏の痕がずきんと痛んだ。
「兄貴!」
「大丈夫だ。マスクもゴーグルもある。両手使った方が早い。二人で採れば倍になる」
「だめだ、離れるな。手を離すな——」
「五メートルだ。目の届く範囲にいる。サンプル管よこせ」
拓海が手を出した。俺はリュックからサンプル管を三本渡した。手が震えていた。拓海の手は震えていなかった。防護服を着て、マスクをつけて、この人は前回の恐怖を上書きしていた。
もう大丈夫だと思ったのだ。装備があれば大丈夫だと。
拓海が五歩離れた。しゃがんで、スコップで地面を掘り始めた。手慣れた動きだった。森塚の手順書を暗記していたんだろう。
俺も採取を始めた。左手でスコップ、右手でサンプル管。今回は両手が使える。手袋もしている。前回よりずっと効率がいい。
管に土を入れた。蓋を閉めた。二本目。三本目。近くに背の低い赤黒い草があった。根元からピンセットで引き抜いた。別の管に入れた。
順調だった。
順調だったのが、いけなかった。
足の裏が脈打った。
来る。
瘴気が濃くなった。マスクのフィルター越しでもわかった。空気の質が変わっている。あの圧。あの、内臓が揺れる感覚。
「兄貴! 戻れ! 来る!」
叫んだ。拓海が顔を上げた。五メートル先。しゃがんだまま。
拓海が立ち上がろうとした。
地面が動いた。
拓海の足元の地面が。硬かったはずの赤黒い地面が、突然、ぐにゃりと波打った。拓海の足首まで沈んだ。
「っ——何だ」
「動くな! 暴れるな!」
前に泥に沈んだときのことが頭を過ぎった。暴れるほど沈む。動くな。動くな。
でも拓海にはわからない。あの泥を知らない。
拓海が足を引き抜こうとした。もがいた。反射だ。人間なら誰でもそうする。足が沈めば引き抜こうとする。
ずぶ。膝まで沈んだ。
「兄貴! 手! 手を出せ!」
走った。五メートル。たった五メートル。走りながら手を伸ばした。
地面が割れた。
拓海の足元から半径二メートルくらいの地面が、ぱっくりと口を開けるように割れた。その下から、赤黒い、どろどろした何かが溢れ出してきた。泥じゃない。泥よりもっと粘度が高い。糸を引いている。匂いが、マスク越しでも突き抜けてきた。甘くて、腐っていて——
拓海が腰まで沈んだ。
「悠!」
手を伸ばしていた。俺に向かって。防護服の手袋をした右手を。
俺も手を伸ばした。走った。あと三メートル。あと二メートル。
地面が揺れた。あの振動。近い。すぐ近くにいる。空気が歪んでいる。瘴気がマスクのフィルターを飽和させている。息が苦しい。
あと一メートル。指先が届きそうだった。
拓海の体が引っ張られた。下に。一瞬で胸まで沈んだ。何かに掴まれたように。何かに引きずり込まれるように。
「——にげ」
拓海が言った。俺に向かって。手を伸ばしたまま。
「にげろ」
拓海の手が、粘液の中に沈んだ。マスクの上半分だけが見えていた。ゴーグルの向こうに目が見えた。
怖い顔じゃなかった。
怒っていた。俺が逃げないことに、怒っていた。
「に——」
粘液が、拓海の頭を覆った。
五秒。
五秒で、拓海は消えた。
地面が閉じた。割れ目が元に戻った。赤黒い地面が、何事もなかったみたいに硬く乾いていた。拓海がいた場所に、サンプル管が一本だけ残っていた。蓋が閉まったまま。中に赤黒い土が入っていた。
立っていた。
拓海がいた場所の前に、立っていた。
手を伸ばしたまま。指先が、何も掴んでいなかった。
「——」
声が出なかった。
声が出なかった。
足元がぶよぶよした。
帰還の感覚。このタイミングで。拓海の手を掴んでいない。繋がっていない。俺だけが帰る。
嫌だ。
嫌だ。まだ帰れない。拓海が——
地面が消えた。
ワンルームの床に座っていた。
防護服を着たまま。防毒マスクをつけたまま。ゴーグルの内側が曇っていた。たぶん泣いていた。たぶん。覚えていない。
隣に拓海はいなかった。
手の中にサンプル管が握られていた。拓海が採った分と、俺が採った分。全部で五本。拓海がいた場所に残っていた一本も、いつの間にか拾っていたらしい。
五本。
拓海の命と引き換えに、サンプルが五本。
防毒マスクを外した。部屋の空気を吸った。ビールの匂いが残っていた。拓海が最後に飲んだビールの、缶が、テーブルの上にまだあった。
携帯を見た。拓海からのメッセージが残っていた。今日の午後に送られてきたやつ。
「防護服のサイズ、Lでいいか」
それが、拓海の最後のメッセージだった。
森塚に電話しなきゃ。警察に連絡しなきゃ。拓海の会社に。母さんに。
何もできなかった。
床に座ったまま、防護服のまま、朝になった。




