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魔界世界  作者: 彗
孤独

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7/22

第7話「採」


 森塚から段ボール箱が届いた。


 会社宛てに送られてきて、拓海が受け取った。中身は採取キットだった。滅菌済みのサンプル管が十本、ピンセット、小型のスコップ、密閉できるビニール袋が何枚か、使い捨てのゴム手袋、それから手書きのメモ。


 「土壌を三箇所以上から。表面と五センチ以下の二層に分けて。植物があれば葉・茎・根を分けて。可能なら空気に触れていない層の土壌も。手袋必須」


 几帳面な字だった。研究者の字。


 「これ全部ポケットに入らないだろ」と俺が言った。


 「ウエストポーチ買え」と拓海が言った。


 百均じゃなくて、ちゃんとしたやつを買った。アウトドア用の防水のやつ。サンプル管とスコップとピンセットと手袋を詰めた。ジップロックとメモ帳と鉛筆はいつものポケットに。LEDライトは前回向こうに落としてきたので、新しいのを二個買った。一個は予備。


 ウエストポーチを腰に巻いたまま寝た。拓海には笑われた。


 「そのまま会社行くのか」


 「行く」


 「どうかしてる」


 「もうとっくにどうかしてる」


 五日目。転移は来なかった。六日目も。七日目も。


 待っている間が一番きつかった。いつ来るかわからない。風呂に入っているときかもしれない。会議中かもしれない。電車に乗っているときかもしれない。常にウエストポーチを巻いて、常に構えている。でも来ない。来ないと逆に不安になる。次は滞在時間が長くなるかもしれない。次はもっと深い場所に落とされるかもしれない。


 右手の水ぶくれは止まっていた。十一のまま増えない。斑点も肘から先には広がらなかった。森塚は「進行が止まったのか、休眠期に入ったのか、現時点では判断できません」と言った。


 八日目の夜だった。


 拓海が家に来ていた。仕事帰りにビールを買ってきて、俺の狭いワンルームで二人で飲んでいた。俺はテーブルの上にメモ帳を広げて、次に行ったときの行動計画を拓海と確認していた。


 「まず足元の地面を確認する。硬いか柔らかいか。沈まないなら作業開始。サンプル管に表面の土壌を入れる。次にスコップで五センチ掘って、下層の土壌を別の管に入れる。手の届く範囲に植物があれば採取。なければ無理しない。全部で三分以内にやる」


 「三分でできるか?」


 「やるしかない。長居したら何が来るかわからない」


 拓海がビールを飲みながら頷いた。「記録は。メモは書けるか」


 「サンプルが先だ。メモは余裕があったら」


 「余裕なんかないだろ」


 「だからサンプルが先だって」


 そんな話をしていた。俺がテーブルに両手をついて立ち上がろうとしたとき、拓海が俺の右手を掴んだ。水ぶくれの具合を見ようとしたのか、何か渡そうとしたのか。


 足元がぶよぶよした。


 「——え」


 俺の声だったのか、拓海の声だったのか、わからない。


 テーブルが消えた。ビールの缶が消えた。蛍光灯の白い光が、あの灰色に塗り替わった。


 あの空気。あの匂い。あの重さ。


 灰色の空の下に、二人で立っていた。


 拓海の手が、まだ俺の右手を握っていた。


 「——何だ、これ」


 拓海の声だった。低くて、掠れていた。


 「兄貴。手、離すな」


 「は?」


 「絶対に離すな。俺から離れるな」


 拓海が周りを見た。俺も見た。今回は柱みたいな木の群れの中だった。最初のときと似ている。暗い。頭上を覆い尽くす枝葉。脈動する幹。地面を這う蟲。


 「……何だよこれ」


 拓海の声が変わっていた。さっきまでビールを飲みながら計画を立てていた男の声じゃなかった。


 「これがあの場所だ」


 「空気が——重い。何だこれ。息しづらい」


 「吸い込むな。浅く呼吸しろ。口じゃなくて鼻で」


 四回目だ。体が覚えている。勝手に動く。この空気の重さも、この匂いも、足元の感触も、全部知っている。口が勝手に指示を出していた。


 拓海は知らない。初めてだ。


 兄貴の手が震えていた。俺の手を握っている拓海の手が、震えていた。初めて見た。この人の手が震えるのを見るのは、生まれて初めてだった。


 「兄貴。大丈夫だ。俺は四回目だ。帰れる。帰れるから」


 「……おう」


 声が小さかった。


 足元を見た。泥じゃない。硬い地面。赤黒い。いける。


 「サンプル採る。兄貴は俺の手を掴んだまま、立ってろ」


 左手一本でウエストポーチを開けた。右手は拓海に握られたまま。ゴム手袋を出した。左手だけで手袋をはめるのは無理だった。口で引っ張って、左手にだけはめた。


 スコップを出した。左手で地面を掘った。赤黒い土がスコップに乗った。サンプル管の蓋を歯で開けて、土を入れた。蓋を歯で閉めた。


 もう一本。五センチくらい掘った。下の層は色が違った。もっと黒い。匂いも違う。酸っぱい。管に入れた。


 「何やってんだ」と拓海が言った。


 「土壌サンプル。森塚先生に頼まれてる」


 「……こんな状況で、正気か」


 「正気じゃなかったら帰れない」


 三本目のサンプルを採ろうとしたとき、足の裏の痕がずきんと脈打った。


 来る。


 あの感覚。瘴気が濃くなり始めている。空気の質が変わっている。前回と同じだ。何かが近づいてきている。


 「兄貴。帰る。もういい。帰る」


 「帰るって——」


 「勝手に帰れる。前もそうだった。もうすぐ引き戻される。たぶん。手を離すな」


 たぶん。たぶんだ。確証はない。前は一人だった。二人で帰れるのか。わからない。


 瘴気がさらに濃くなった。拓海が咳き込んだ。


 「っ——何だこの匂い。何だこれ。吐きそうだ」


 「吸うな。口を閉じろ」


 「目が——目が痛い」


 拓海がたまらず片手で目を擦ろうとした。俺の右手を握っていた手が緩んだ。


 「離すな!」


 叫んだ。拓海の手を両手で掴み直した。サンプル管が一本落ちた。左手のゴム手袋が脱げた。地面に落ちた手袋が、地面に吸い込まれていった。


 地面が揺れ始めた。あの振動。不規則で、重い。近い。前回よりずっと近い。


 拓海の顔を見た。真っ青だった。涙が出ていた。瘴気で粘膜がやられている。鼻から薄く血が出ていた。


 この人が。この人が血を流してる。こんなの見たことない。親父に殴られても泣かなかった人が。


 「帰れ。帰れ。帰してくれ——」


 誰に言ってるかわからなかった。この世界に。この空気に。足元の地面に。


 握った手に力を込めた。指が白くなるくらい。拓海も握り返してきた。震える手で。


 視界が歪んだ。瘴気のせいか、帰還の兆候か、わからない。


 地面が消えた。


 ワンルームの床だった。


 テーブルの脚が目の前にあった。ビールの缶が倒れていた。中身が畳に広がっていた。


 拓海が隣にいた。うつ伏せに倒れていた。手が繋がったまま。


 「兄貴。兄貴!」


 「…………」


 動かない。


 「拓海!」


 拓海が咳き込んだ。ごぼっ、と粘液みたいなものを吐いた。畳の上に。透明で、少し緑がかった液体。あの匂いがした。


 「……くそ」


 拓海の最初の言葉がそれだった。


 「何だあれ。何だあの場所」


 「言っただろ」


 「言ってた。言ってたけど。——全然違う。聞くのと行くのは全然違う」


 拓海が仰向けになった。天井を見ていた。右手がまだ俺の手を握っていた。離さなかった。


 「お前、あそこに四回行ったのか」


 「うん」


 「一人で」


 「うん」


 「…………」


 拓海が目を閉じた。しばらく何も言わなかった。呼吸が荒かった。鼻血が顎を伝って畳に落ちていた。


 「俺の手を握ってたから、一緒に行ったのか」


 「……たぶん」


 「握ってなかったら、お前だけ消えてた」


 「……うん」


 拓海がやっと手を離した。自分の手を見た。震えていた。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。畳の上にこぼれたビールの匂いと、あの世界の匂いが混ざっていた。拓海が天井を見たまま、何度か深呼吸した。


 「……あの空気で三分。防護なしで三分。それでこれだ」


 鼻血を拭いた。手の甲で乱暴に。


 「防護がいる。あの空気を吸っちゃだめだ。マスクじゃ無理だ。防毒マスクか、それとも——」


 拓海の目に、何かが戻っていた。さっきまでの恐怖とは違うもの。


 「あそこに行くなら、装備がいる。ちゃんとした装備が。森塚に連絡しろ。今すぐ」


 ウエストポーチを確認した。サンプル管が二本、残っていた。一本は向こうに落としてきた。


 二本。二本持って帰れた。


 拓海が畳の上に座り直して、手を見ていた。まだ震えていた。


 「あれが、お前がずっと一人で行ってた場所か」


 「うん」


 拓海が俺の顔を見た。


 「よく、生きてたな」


 その一言で、泣きそうになった。

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