第7話「採」
森塚から段ボール箱が届いた。
会社宛てに送られてきて、拓海が受け取った。中身は採取キットだった。滅菌済みのサンプル管が十本、ピンセット、小型のスコップ、密閉できるビニール袋が何枚か、使い捨てのゴム手袋、それから手書きのメモ。
「土壌を三箇所以上から。表面と五センチ以下の二層に分けて。植物があれば葉・茎・根を分けて。可能なら空気に触れていない層の土壌も。手袋必須」
几帳面な字だった。研究者の字。
「これ全部ポケットに入らないだろ」と俺が言った。
「ウエストポーチ買え」と拓海が言った。
百均じゃなくて、ちゃんとしたやつを買った。アウトドア用の防水のやつ。サンプル管とスコップとピンセットと手袋を詰めた。ジップロックとメモ帳と鉛筆はいつものポケットに。LEDライトは前回向こうに落としてきたので、新しいのを二個買った。一個は予備。
ウエストポーチを腰に巻いたまま寝た。拓海には笑われた。
「そのまま会社行くのか」
「行く」
「どうかしてる」
「もうとっくにどうかしてる」
五日目。転移は来なかった。六日目も。七日目も。
待っている間が一番きつかった。いつ来るかわからない。風呂に入っているときかもしれない。会議中かもしれない。電車に乗っているときかもしれない。常にウエストポーチを巻いて、常に構えている。でも来ない。来ないと逆に不安になる。次は滞在時間が長くなるかもしれない。次はもっと深い場所に落とされるかもしれない。
右手の水ぶくれは止まっていた。十一のまま増えない。斑点も肘から先には広がらなかった。森塚は「進行が止まったのか、休眠期に入ったのか、現時点では判断できません」と言った。
八日目の夜だった。
拓海が家に来ていた。仕事帰りにビールを買ってきて、俺の狭いワンルームで二人で飲んでいた。俺はテーブルの上にメモ帳を広げて、次に行ったときの行動計画を拓海と確認していた。
「まず足元の地面を確認する。硬いか柔らかいか。沈まないなら作業開始。サンプル管に表面の土壌を入れる。次にスコップで五センチ掘って、下層の土壌を別の管に入れる。手の届く範囲に植物があれば採取。なければ無理しない。全部で三分以内にやる」
「三分でできるか?」
「やるしかない。長居したら何が来るかわからない」
拓海がビールを飲みながら頷いた。「記録は。メモは書けるか」
「サンプルが先だ。メモは余裕があったら」
「余裕なんかないだろ」
「だからサンプルが先だって」
そんな話をしていた。俺がテーブルに両手をついて立ち上がろうとしたとき、拓海が俺の右手を掴んだ。水ぶくれの具合を見ようとしたのか、何か渡そうとしたのか。
足元がぶよぶよした。
「——え」
俺の声だったのか、拓海の声だったのか、わからない。
テーブルが消えた。ビールの缶が消えた。蛍光灯の白い光が、あの灰色に塗り替わった。
あの空気。あの匂い。あの重さ。
灰色の空の下に、二人で立っていた。
拓海の手が、まだ俺の右手を握っていた。
「——何だ、これ」
拓海の声だった。低くて、掠れていた。
「兄貴。手、離すな」
「は?」
「絶対に離すな。俺から離れるな」
拓海が周りを見た。俺も見た。今回は柱みたいな木の群れの中だった。最初のときと似ている。暗い。頭上を覆い尽くす枝葉。脈動する幹。地面を這う蟲。
「……何だよこれ」
拓海の声が変わっていた。さっきまでビールを飲みながら計画を立てていた男の声じゃなかった。
「これがあの場所だ」
「空気が——重い。何だこれ。息しづらい」
「吸い込むな。浅く呼吸しろ。口じゃなくて鼻で」
四回目だ。体が覚えている。勝手に動く。この空気の重さも、この匂いも、足元の感触も、全部知っている。口が勝手に指示を出していた。
拓海は知らない。初めてだ。
兄貴の手が震えていた。俺の手を握っている拓海の手が、震えていた。初めて見た。この人の手が震えるのを見るのは、生まれて初めてだった。
「兄貴。大丈夫だ。俺は四回目だ。帰れる。帰れるから」
「……おう」
声が小さかった。
足元を見た。泥じゃない。硬い地面。赤黒い。いける。
「サンプル採る。兄貴は俺の手を掴んだまま、立ってろ」
左手一本でウエストポーチを開けた。右手は拓海に握られたまま。ゴム手袋を出した。左手だけで手袋をはめるのは無理だった。口で引っ張って、左手にだけはめた。
スコップを出した。左手で地面を掘った。赤黒い土がスコップに乗った。サンプル管の蓋を歯で開けて、土を入れた。蓋を歯で閉めた。
もう一本。五センチくらい掘った。下の層は色が違った。もっと黒い。匂いも違う。酸っぱい。管に入れた。
「何やってんだ」と拓海が言った。
「土壌サンプル。森塚先生に頼まれてる」
「……こんな状況で、正気か」
「正気じゃなかったら帰れない」
三本目のサンプルを採ろうとしたとき、足の裏の痕がずきんと脈打った。
来る。
あの感覚。瘴気が濃くなり始めている。空気の質が変わっている。前回と同じだ。何かが近づいてきている。
「兄貴。帰る。もういい。帰る」
「帰るって——」
「勝手に帰れる。前もそうだった。もうすぐ引き戻される。たぶん。手を離すな」
たぶん。たぶんだ。確証はない。前は一人だった。二人で帰れるのか。わからない。
瘴気がさらに濃くなった。拓海が咳き込んだ。
「っ——何だこの匂い。何だこれ。吐きそうだ」
「吸うな。口を閉じろ」
「目が——目が痛い」
拓海がたまらず片手で目を擦ろうとした。俺の右手を握っていた手が緩んだ。
「離すな!」
叫んだ。拓海の手を両手で掴み直した。サンプル管が一本落ちた。左手のゴム手袋が脱げた。地面に落ちた手袋が、地面に吸い込まれていった。
地面が揺れ始めた。あの振動。不規則で、重い。近い。前回よりずっと近い。
拓海の顔を見た。真っ青だった。涙が出ていた。瘴気で粘膜がやられている。鼻から薄く血が出ていた。
この人が。この人が血を流してる。こんなの見たことない。親父に殴られても泣かなかった人が。
「帰れ。帰れ。帰してくれ——」
誰に言ってるかわからなかった。この世界に。この空気に。足元の地面に。
握った手に力を込めた。指が白くなるくらい。拓海も握り返してきた。震える手で。
視界が歪んだ。瘴気のせいか、帰還の兆候か、わからない。
地面が消えた。
ワンルームの床だった。
テーブルの脚が目の前にあった。ビールの缶が倒れていた。中身が畳に広がっていた。
拓海が隣にいた。うつ伏せに倒れていた。手が繋がったまま。
「兄貴。兄貴!」
「…………」
動かない。
「拓海!」
拓海が咳き込んだ。ごぼっ、と粘液みたいなものを吐いた。畳の上に。透明で、少し緑がかった液体。あの匂いがした。
「……くそ」
拓海の最初の言葉がそれだった。
「何だあれ。何だあの場所」
「言っただろ」
「言ってた。言ってたけど。——全然違う。聞くのと行くのは全然違う」
拓海が仰向けになった。天井を見ていた。右手がまだ俺の手を握っていた。離さなかった。
「お前、あそこに四回行ったのか」
「うん」
「一人で」
「うん」
「…………」
拓海が目を閉じた。しばらく何も言わなかった。呼吸が荒かった。鼻血が顎を伝って畳に落ちていた。
「俺の手を握ってたから、一緒に行ったのか」
「……たぶん」
「握ってなかったら、お前だけ消えてた」
「……うん」
拓海がやっと手を離した。自分の手を見た。震えていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。畳の上にこぼれたビールの匂いと、あの世界の匂いが混ざっていた。拓海が天井を見たまま、何度か深呼吸した。
「……あの空気で三分。防護なしで三分。それでこれだ」
鼻血を拭いた。手の甲で乱暴に。
「防護がいる。あの空気を吸っちゃだめだ。マスクじゃ無理だ。防毒マスクか、それとも——」
拓海の目に、何かが戻っていた。さっきまでの恐怖とは違うもの。
「あそこに行くなら、装備がいる。ちゃんとした装備が。森塚に連絡しろ。今すぐ」
ウエストポーチを確認した。サンプル管が二本、残っていた。一本は向こうに落としてきた。
二本。二本持って帰れた。
拓海が畳の上に座り直して、手を見ていた。まだ震えていた。
「あれが、お前がずっと一人で行ってた場所か」
「うん」
拓海が俺の顔を見た。
「よく、生きてたな」
その一言で、泣きそうになった。




