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魔界世界  作者: 彗
孤独

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第6話「未知」


 二日後、病院から電話が来た。


 仕事中だった。知らない番号。出たら、あの女医だった。名前を名乗られたが覚えていなかった。「先日の水ぶくれの件で」と言われて、やっとわかった。


 「検査の結果なんですが、お電話でお伝えするのが難しい内容です。本日中にご来院いただくことは可能ですか」


 声が硬かった。前回の診察のときの、落ち着いた感じじゃない。


 「……今日ですか」


 「はい。できれば今日、お願いしたいです」


 拓海にメッセージした。「病院から電話。今日来いって」


 「行く。三時に正面玄関」


 午後三時。拓海の車で病院に向かった。道中、ほとんど喋らなかった。ラジオが天気予報を読んでいた。明日は晴れ。気温二十三度。そういう世界の話が、ひどく遠い。


 右手の水ぶくれは十一になっていた。斑点は肘まで来ている。長袖で隠していたが、キーボードを打つとき袖がめくれて、隣の席の同僚が二回見た。何か言われる前に袖を戻した。


 病院の診察室。前回と同じ部屋だった。ただし、女医の他にもう一人いた。


 五十代くらいの男。白衣ではなくジャケットを着ている。銀縁の眼鏡。髪に白いものが混じっている。女医の隣の椅子に座っていて、俺たちが入ったとき立ち上がった。


 「東央大学の真菌生態学研究室の森塚と申します」


 名刺を渡された。拓海が先に受け取って、読んで、俺に渡した。


 森塚敬一。東央大学理学部生物学科。教授。


 教授が来ている。


 「座ってください」と女医が言った。


 座った。拓海が隣にいた。女医が机の上にいくつかの書類と、タブレットを置いた。


 「まず、検査結果についてお話しします」


 女医がタブレットを俺の方に向けた。画面に画像が映っていた。顕微鏡の写真だろう。紫と青の染色で、何かの細胞が映っている。


 「佐倉さんの水疱液から採取したサンプルです。——率直に申し上げます」


 女医が一拍おいた。


 「既知のデータベースに該当する微生物が見つかりませんでした」


 意味がわからなかった。拓海が口を開いた。


 「該当しないというのは」


 「文字通りの意味です。細菌でも、既知の真菌でも、ウイルスでもありません。細胞構造は真菌に近いですが、既存のどの分類群にも属さない。遺伝子配列を照合しましたが、一致する種がデータベース上に存在しません」


 森塚が口を開いた。静かな声だった。


 「もう少し噛み砕いて言うと、佐倉さんの体から採取された微生物は、地球上で今まで一度も記録されたことがない種類のものです」


 地球上で一度も記録されたことがない。


 「お持ちいただいた衣服——パジャマでしたか。付着していた泥からも同じ微生物が検出されました。そして」


 森塚がタブレットを操作した。別の画像が出た。もっと拡大されたもの。網目状の何かが映っている。


 「この構造を見てください。菌糸に似ていますが、菌糸ではない。分岐のパターンが、既知のどの真菌とも異なります。しかも」


 森塚が画面を指した。


 「この網目構造が、佐倉さんの皮膚の角質層に定着しています。足裏の痕は、これです。この微生物が皮膚の上に、独自のネットワークを形成している」


 足の裏を見た。靴下の上から。あの痕が、こいつらの巣だったのか。


 「取れるんですか」と俺が言った。自分の声がやけに小さかった。


 「現時点では」と森塚が言った。「抗真菌薬をいくつか試しましたが、効果がありません。既知の薬剤に反応しない。これは、この微生物の細胞膜の構造が既存の真菌と根本的に異なるためだと考えています」


 効かない。薬が効かない。


 「広がり続けるんですか」


 「現時点のデータでは、拡大速度は緩やかです。急激に全身に広がるような兆候は見られません。ただ——」


 森塚が眼鏡を外した。女医と同じ仕草だ。目を見て話すための。


 「正直に申し上げます。我々はこの微生物について、ほとんど何もわかっていません。どこから来たのか、何を栄養にしているのか、どのような条件で増殖するのか。——正直なところ、わかっていることより、わかっていないことの方が圧倒的に多い」


 静かだった。空調の音が聞こえた。


 拓海が口を開いた。


 「先生。その泥がどこから来たか、俺たちも正直に話した方がいいですか」


 俺は拓海を見た。拓海は俺を見ずに、森塚を見ていた。


 「……兄貴」


 「黙ってても仕方ないだろう。お前の体に知らない生き物が住み着いてて、薬が効かなくて、どんどん広がってる。原因がわからなきゃ対処もできない」


 正論だ。正論だけど。


 「頭がおかしいと思われる」


 「思われてもいいだろう。足の裏に地球上に存在しない生き物が住んでるやつが、もう普通の人間じゃないんだから」


 ひどい言い方だった。でも拓海は笑っていた。笑ってくれていた。お前はもう普通じゃない。だからもう気にするな、と。そういう笑い方だった。


 森塚が二人を交互に見ていた。


 「どこから来た泥なのか、教えていただけますか」


 俺は深呼吸した。病院の消毒液の匂い。あっちの空気じゃない。


 「信じなくていいです」


 「聞きます」


 話した。


 全部は話さなかった。「……その、気がつくと、別の場所にいるんです。自分の意志じゃなくて」。言葉が出てこなかった。拓海が横から補足した。「そこの地面や空気が全部おかしい。何度か行って帰ってきてる。泥はそこのものです」。俺は頷いた。魔物のことは言わなかった。瘴気という言葉も使わなかった。事実の最小構成だけを出した。


 森塚は黙って聞いていた。メモを取っていた。


 「その場所に、次に行かれる予定は」


 予定。予定なんてない。向こうが勝手に連れて行く。


 「わかりません。自分の意志じゃないので」


 「もし次に行かれたとき、そちらの土壌や植物のサンプルを採取していただくことは可能ですか」


 サンプル。ジップロックに入れて持ち帰る。そういうことか。


 拓海が言った。「可能です。こいつにはメモ帳と袋を持たせてます」


 森塚が頷いた。名刺をもう一枚出して、裏に携帯番号を書いた。


 「何かあったら、いつでもご連絡ください。——それから」


 森塚が立ち上がった。


 「佐倉さん。あなたの体に起きていることは、少なくとも私の三十年の研究の中で、一度も見たことがないものです。怖い思いをされていると思います。ですが、わからないものに対して我々ができることは、まず知ることです。一緒に調べさせてください」


 帰りの車の中で、拓海が言った。


 「あの教授、目が本気だった」


 「……うん」


 「お前の足の裏に住んでるやつが、あの人の人生を変えるかもしれないな」


 笑えなかった。笑えなかったけど、拓海がハンドルを片手で叩いて笑った。


 「いい流れだ。一人が二人になって、二人が四人になった。次はもっと増える」


 次はもっと増える。


 それがいいことなのかどうか、まだわからなかった。

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