第5話「菌」
昼休み、拓海にメモを見せた。
社食の隅の席。周りに人がいないことを確認してから、ジップロックごとテーブルに置いた。拓海がメモ帳を開いて、震えた文字を読んだ。
「地面の表面に、網目状の筋」
「うん」
「動く。光に反応。逃げる」
「ライト近づけたら、さーっと逃げた。全部同じ方向に」
拓海が顔を上げた。
「お前、理系だったか」
「文系」
「だろうな。これ、観察としては悪くないけど、記録が足りない。色は。太さは。密度は。動く速度は。逃げた方向は光の反対側か、それとも別の方向か」
「……そこまで見てる余裕なかった」
「次はある」
次。次があるのか。あるんだろう。体がそう言っている。
「それより、これ見てくれ」
右手の甲を見せた。水ぶくれは三つから五つに増えていた。朝より大きくなっている。赤い斑点も指の間から手首の方まで広がっていた。
拓海が俺の手を掴んで、近くで見た。
「熱いな」
「うん。ずっと熱い」
「痒いか」
「痒い。でも掻くと広がる気がして掻いてない」
「水ぶくれの中身は」
「……朝、一つ破れた。透明な液が出て、あの匂いがした」
「あの匂い」
「あっちの世界の匂い。甘くて、腐った匂い」
拓海がしばらく黙った。社食のざわざわした音だけが聞こえていた。
「今日の午後、病院行くぞ」
「仕事——」
「早退しろ。俺も出る」
午後二時。拓海の車で、会社から二十分くらいの総合病院に行った。皮膚科。受付で症状を聞かれて「手に水ぶくれができて」と言った。よくある話だと思われたらしく、三十分くらい待たされた。
診察室に入った。四十代くらいの女医が、俺の右手を見て、最初は普通の顔をしていた。
「いつ頃からですか」
「今朝です」
「今朝? 今日の朝?」
「はい」
女医の表情が変わった。手袋をはめて、俺の手を持ち上げて、デスクのライトに近づけた。
「……これは今朝できたんですか」
「はい」
「足にもあると伺いましたが」
靴下を脱いだ。足の裏の痕を見せた。女医が椅子ごと俺の足元に移動してきて、しばらく黙って見ていた。
「これはいつからですか」
「一週間くらい前です」
「皮膚科にはかかっていない?」
「はい」
「何か心当たりは。薬品を扱うお仕事とか、海外渡航歴とか」
拓海が後ろから口を挟んだ。「泥です。特殊な泥に触れて、それからこうなりました」
女医が拓海を見た。「泥?」
「はい。成分はわかりません」
「その泥はまだありますか」
拓海が俺を見た。俺はパジャマのことを思い出した。洗ったか。洗ってない。脱いだまま洗面所の床に放ってある。
「あると思います。服についてます」
「持ってきてもらえますか。——あと、少し検査をさせてください」
血を抜かれた。水ぶくれの液を採取された。針を刺されたとき、あの匂いが診察室に広がった。女医が一瞬手を止めた。
「……この匂いは何ですか」
「わかりません」
女医はそれ以上聞かなかった。でも目が変わっていた。さっきまでの「よくある皮膚トラブル」を見る目じゃなくなっていた。
足の裏の痕も写真を撮られた。拡大して撮られた。スケール用の定規を当てて撮られた。
「結果は二、三日で出ます。——ただ」
女医が眼鏡を外して、俺の目を見た。
「正直に申し上げると、この痕のパターンは見たことがありません。水ぶくれの進行速度も通常ではありません。念のため、検体を別の機関にも回してよろしいですか」
別の機関。
「どこですか」と拓海が聞いた。
「大学の研究室です。感染症と真菌学の専門の。——ご本人の同意が必要ですが」
俺は拓海を見た。拓海が小さく頷いた。
「お願いします」
車の中で、しばらく二人とも黙っていた。
「研究室に回すって、そんな大ごとか」と俺が言った。
「大ごとだ」と拓海が言った。「あの女医、最初は流してた。途中から目が変わった。水ぶくれの液を採ったとき、あの匂いで完全に変わった。あれは医者の顔じゃなくて研究者の顔だった」
「……どうなる」
「わからない。でも、あの女医に説明できないものが、お前の体にあるってことがはっきりするかもしれない」
「それ、いいことなのか」
拓海が信号で止まった。ハンドルを握ったまま、前を見ていた。
「いいことかどうかはわからない。でも、お前一人で抱える話じゃなくなるかもしれない」
家に帰って、洗面所の床に放ってあったパジャマを拾い上げた。膝から下が赤黒く染まったまま、乾いて固まっていた。匂いはもう薄くなっていたけど、鼻を近づけるとまだあった。あの匂い。
ジップロックに入れた。明日、病院に持っていく。
風呂に入って、足の裏を確認した。痕は消えていない。右手の水ぶくれは七つになっていた。朝は三つだったのに。
斑点が手首を越えて、前腕に届き始めていた。
眠れなかった。目を閉じると、あの瘴気の匂いが鼻の奥に蘇る。でも今夜は、それだけじゃなかった。
匂いが外からじゃなくて、自分の体の中から来ている気がした。




