第4話「備」
靴紐をきつく結ぶようになった。
革靴でもスニーカーでも、家を出るときに毎回ぎちぎちに締める。足の甲が痛いくらいに。いつ来るかわからない。風呂のとき以外、靴を脱がなくなった。会社でもスリッパに履き替えない。後輩に「佐倉さん、潔癖ですか?」と聞かれて「まあ」と答えた。
拓海の指示で、ズボンのポケットにジップロックを一枚入れておくようにした。中にメモ帳と短い鉛筆が入っている。スマホが使えないなら、アナログで記録しろ、と言われた。向こうの泥や水に触れても中身が守られるように、と。
百均でLEDの小さいライトも買った。ボタン電池式のキーホルダータイプ。これもポケットに突っ込んである。あの暗さの中で、光源があるだけで違うはずだ。たぶん。
準備をしていると、少しだけ落ち着いた。何もできないまま放り込まれるよりは、何か一つでも持っている方がましだ。それが百均のライトでも。
四日目の朝だった。
歯を磨いていた。洗面台の前で、口の中が泡だらけで、左手に歯ブラシを持っていて——足元がぶよぶよした。
「んぐ——っ」
歯磨き粉の泡を盛大に吸い込んだ。咳き込みながら目を開けたら、もうあの空だった。灰色の、光源のない空。
今回は開けた場所だった。前回の泥のときと似ている。赤黒い地面が広がっていて、遠くにあの柱みたいな木の群れが見える。足元は泥じゃない。硬い。前回みたいに沈まない。それだけで心臓が少し落ち着いた。少しだけ。
口の中にまだ歯磨き粉の泡が残っていた。吐き出した。白い泡が赤黒い地面に落ちて——前と同じだ。地面がぶよっと波打って、泡を吸い込んだ。
やっぱりこの地面は生きている。
左手に歯ブラシを握ったままだった。右手をポケットに突っ込んだ。ジップロック。ある。LEDライト。ある。パジャマのまま来てしまったが、昨日の夜ズボンだけは外出用のに履き替えて寝ていた。拓海に「寝るときもポケットに入れとけ」と言われたからだ。
「……よし」
声が震えていた。よしじゃない。全然よしじゃない。でも前回と前々回は完全に丸腰だった。今は歯ブラシとジップロックとメモ帳と鉛筆とLEDライトがある。
歯ブラシは何の役にも立たない。わかってる。
LEDライトをつけた。小さい光。あの巨大な柱みたいな木々の暗がりに比べたら、蝋燭以下だ。でも手元は見える。自分の足元が見える。それだけで全然違った。
前回まではただ怯えて、立ち尽くすだけで終わった。今回は——今回は少しだけ、動こう。動いてみよう。
足を一歩出した。地面が硬い。沈まない。
「……大丈夫。大丈夫だ」
声に出して言った。誰に言ってるんだ。自分にだ。もう一歩。大丈夫。赤黒い地面の上を、パジャマ姿で、左手に歯ブラシ、右手にLEDライトを持った男が歩いている。客観的に見たら完全に狂人だ。
十歩くらい歩いたところで、足の裏の痺れが強くなった。あの痕がある方の足。右足。地面に何か感じる。振動じゃない。もっと細かい。ぶるぶるという微振動。地面の下で何かが動いている。
しゃがんだ。LEDライトを地面に近づけた。
赤黒い地面の表面に、細い筋が走っていた。網目状に。糸くらいの太さの筋が、ものすごく細かく張り巡らされている。筋が、動いていた。ゆっくりと、ゆっくりと、位置を変えている。
ライトを近づけると、筋が光から逃げた。
「うわ……何だこれ……」
生きている。地面の表面を覆っているこの網目状の何かは、生きていて、光に反応する。
ジップロックを開けて、メモ帳を取り出した。鉛筆を握った。手が震えている。しゃがんだまま、見えているものを書いた。
「地面。赤黒い。硬い場所と柔らかい場所がある。表面に網目状の筋。動く。光に反応。逃げる」
字が汚い。震えすぎて自分でも読めるかわからない。でも書いた。記録した。初めてこの世界で、ただ怯える以外のことをした。
もう少し観察しよう。そう思って顔を上げたとき、空気が変わった。
匂い。瘴気が、急に、濃くなった。さっきまでの何倍も。喉が痛い。目が痛い。涙が勝手に出てくる。
「っ——なに、何だ、何が——」
地面の網目の筋が動いた。さっきはゆっくりだったのに、今は速い。全部が同じ方向に、一斉に逃げていく。俺から逃げているんじゃない。俺の後ろ側から、何かが来ている。
耳鳴りがした。
音じゃない。耳の奥で何かが共鳴している。低すぎて聞こえない音。内臓が揺れる。肺が揺れる。心臓のリズムが狂う。気持ち悪い。吐きそうだ。さっきまで何ともなかった平衡感覚がぐらぐら崩れて、まっすぐ立っていられない。
視界が歪んだ。陽炎みたいに。瘴気の密度が上がって、空気の屈折が変わっている。遠くの木の群れが、ぐにゃぐにゃに歪んで見える。
何かがいる。
見えない。音も聞こえない。でもいる。後ろにいる。後ろの、かなり遠くにいる。それなのにこれだけの圧がある。瘴気が、気圧が、空気の成分そのものが変わっている。そいつがいるだけで、空気が全部おかしくなっている。
魔物。
最初にあの世界に行ったとき、暗がりの中の赤い光を見て、頭に浮かんだ言葉。また来た。でも今回は違う。あのときは何かが見えた。今回は何も見えていない。見えていないのに体が知っている。あの赤い光とは比べものにならない。桁が違う。
振り返れなかった。振り返ったら見える。見えたら、壊れる。頭のどこかがそう叫んでいた。
「見るな、見るな、振り返るな——」
LEDライトを握っていた手から力が抜けた。ライトが地面に落ちて、消えた。
走れ。走れ。どこに。どこに逃げる。
膝が抜けた。尻餅をついた。地面に手をついた瞬間、手のひらから振動が伝わってきた。一定じゃない。不規則で、重くて、地面全体がびりびり痙攣している。
魔物が動いている。あれが一歩動くだけで、地面がこうなる。
歯ブラシを握りしめていた。歯ブラシを。こんなもんで何ができる。こんなもんで。
泣いていた。パジャマ姿で赤黒い大地の上に尻餅をついて、歯ブラシ握って泣いていた。
「帰りたい……帰りたい帰りたい帰りたい……」
メモ帳だけはポケットにねじ込んだ。これだけは持って帰る。これだけは。
瘴気がさらに濃くなった。息が吸えない。地面が波打った。硬かったはずの地面がぐにゃりと歪んで——
あ。沈む。ここも沈む。足首が——
洗面台の前だった。
鏡の中の俺は泣いていた。歯磨き粉の泡と涙と鼻水がぐちゃぐちゃに混ざっていた。パジャマの膝から下が赤黒い泥だらけだった。左手に歯ブラシ。右手は空。LEDライトは向こうに落としてきた。
蛇口から水が出しっぱなしだった。
ポケットに手を突っ込んだ。ジップロック。ある。中のメモ帳を出した。手が震えていて何度もチャックを滑らせた。
メモを開いた。
「地面。赤黒い。硬い場所と柔らかい場所がある。表面に網目状の筋。動く。光に反応。逃げる」
読めた。読める。持って帰れた。
スマホで写真を撮った。それから拓海にメッセージを送った。
「今朝また行った。メモ取れた。何かやばいのがいた。見えなかった。見えないのに空気ごと変わった。近くにいるだけで立てなくなった」
三十秒で返信が来た。
「昼に話せ」
それだけだった。でもそれで十分だった。
顔を洗った。パジャマを脱いだ。泥を拭いた。
拭きながら、気づいた。
右手の甲に、水ぶくれができていた。三つ。赤く腫れていて、触ると熱い。あの地面に手をついたときにできたのか。
地面に手をついたのは数分前だ。数分で水ぶくれはできない。
指の間にも赤い斑点が出ていた。痒い。掻くと痒みが広がる。
足の裏の痕がずきんと脈打った。足と手が、同時におかしくなっている。
会社に行かなきゃ。時計を見た。あと三十分。
右手を洗った。水ぶくれが破れた。中から透明な液体が出て、それが空気に触れた瞬間に、あの匂いがした。
甘ったるくて、腐った匂い。あの世界の匂い。俺の手から。
洗面台に吐いた。




