第3話「痕」
足の裏の痕は三日経っても消えなかった。
むしろ、くっきりしてきている気がする。風呂に入るたびに確認した。赤い痕。規則的な模様。医者に見せることも考えた。でもなんて説明する。異世界の泥に沈んでたら足の裏に模様ができましたって。皮膚科に行って靴下脱いだ瞬間に精神科を紹介される。
スマホを買い替えた。ショップの店員に「データ移行されますか?」と聞かれて、「前のやつはないです」と答えたら変な顔をされた。水没ですか、と聞かれたので頷いた。嘘ではない。沈んだのは水じゃないが。
仕事には行っていた。行くしかなかった。足の裏が痺れたまま革靴を履いて、満員電車に揺られて、パソコンに向かった。画面の文字が頭に入ってこない。エクセルのセルをクリックするたびに、あの泥のぶよぶよした感触が指先に蘇る。
「おい、大丈夫か」
声をかけてきたのは兄貴だった。
兄貴——拓海。俺より四つ上。同じ会社の別の部署にいる。体がでかい。椅子からこっちに歩いてくるだけで周りの社員が道を開ける。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない顔してるぞ。飯行くぞ」
断る隙を与えないのがこの人のやり方だった。昼休み、会社の裏の定食屋に引っ張られた。
生姜焼き定食を前にして、箸が進まなかった。肉の焼ける匂いを嗅ぐと、あの甘い腐臭が重なる。米を口に入れたら、泥の生温かさが口の中に蘇って、飲み込めなかった。
拓海は向かいの席に収まりきらない体を押し込んで、自分の定食を黙々と食っていた。
「食えよ」
「……食ってる」
「食ってない。三日前くらいから様子おかしいだろ。靴も変わってるし、スマホも変わってる。何があった」
見ている。この人はいつもそうだ。細かいところを全部見ている。
言うか。言わないか。
言ったら、頭がおかしいと思われる。言わなかったら、一人で抱え続ける。一人で抱えたまま、また次が来る。次はもっと長いかもしれない。次はもっと深く沈むかもしれない。次は帰って来れないかもしれない。
「兄貴」
「おう」
「信じなくていいから、聞いてくれ」
拓海が箸を置いた。俺の目を見た。この人はこういうとき、茶化さない。子供の頃からそうだった。俺がいじめられたときも、親父が暴れたときも、まず黙って聞いた。それから動いた。
話した。
全部話した。最初の、息を吸った瞬間のこと。あの暗がりの中の赤い光。三日後に駅のホームから泥の世界に落ちたこと。靴を溶かされたこと。スマホをなくしたこと。首まで沈んで死にかけたこと。足の裏に残った模様のこと。
漏らしたことだけは言えなかった。
拓海は最後まで黙って聞いていた。
「……終わり?」
「終わり」
「靴の話は本当なんだな。スマホも」
「うん」
「足の裏見せろ」
定食屋の座敷で靴下を脱いだ。拓海が俺の足の裏を覗き込んだ。しばらく黙っていた。
「……何だこれ」
「わからない。洗っても消えない」
「皮膚科は行ったか」
「行ってない」
「行け。まずそれが先だ」
拓海はスマホを取り出して、足の裏の写真を撮った。俺が何か言う前に「記録だ。経過を見る」と言った。
この人はこういうとき、まず事実を並べる。信じる信じないは後。昔からそうだった。
「異世界って言ったな」
「俺の感覚では、そうとしか言えない」
「気を失って、その間に夢を見てる可能性は」
「靴が溶けてた。スマホがない。泥がついてた」
「……夢遊病で泥に突っ込んだ可能性は」
「駅のホームから?」
「確かにそれは苦しいな」
拓海が生姜焼きを一口食って、咀嚼しながら考えていた。
「次にそれが起きたら、連絡しろ。戻ってきたらすぐだ。場所と時間と、覚えていることを全部テキストで送れ。お前の記憶が新鮮なうちに」
「……信じてるのか?」
「信じるとか信じないとかの話じゃない。お前に何かが起きてるのは事実だ。靴は溶けてるし、足の裏にわけのわからない痕がある。原因が異世界かどうかは知らない。でも原因は必ずある。それを潰す」
それを潰す。問題は潰す。この人はいつもそうだ。
少しだけ、息ができた気がした。
三日ぶりに、飯を全部食えた。
帰りのエレベーターで拓海が言った。
「あと、次に行くときは靴紐をきつく結んでおけ。溶かされるにしても時間は稼げる」
笑えなかった。笑えなかったけど、ほんの少しだけ、気持ちが軽くなった。
この人がいれば、なんとかなるかもしれない。
そう思ってしまった。




