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魔界世界  作者: 彗
孤独

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2/21

第2話「泥」


 駅のホームでスマホをいじっていたら、足元がぶよぶよした。


 三日ぶりだった。


 「あ——」


 それだけしか言えなかった。アスファルトが消えて、あの赤黒い地面が足の裏にあった。あの匂い。あの重い空気。肺が覚えていた。前みたいに咳き込まなかった。そのかわり、全身の毛穴がぶわっと開いた。腕の産毛が全部逆立つのがわかった。


 来た。また来た。なんでまた来た。


 スマホを握ったままだった。画面が光っている。圏外。当たり前だ。手が震えていて、スマホの表面がカタカタ鳴っていた。


 周りを見た。


 前回と場所が違う。あの柱みたいな木は遠くにぼんやり見えるだけで、ここは開けていた。開けている、というか——何もなかった。赤黒い地面がだらだらと続いていて、ところどころに背の低い草みたいなものが群生している。草、と呼んでいいのかわからない。葉っぱが緑じゃない。赤黒い。地面と同じ色をしている。その表面に細かい棘がびっしり生えていて、近づいただけで肌がちくちくする。空気に何か飛ばしているのかもしれない。


 空が見えた。


 今度は空がある。灰色。雲じゃない。空自体が灰色だった。太陽がどこにあるのかわからない。光はあるのに光源がない。全方向からぼんやりと照らされている感じで、影がほとんどなかった。


 静かだった。


 前回の、あの振動も、あの呼吸の音もない。しんとしている。何もいないわけじゃない。何かがいて、黙ってる。そういう静けさだった。前回のことがあるから、静かな方がむしろ怖い。音があれば場所はわかる。何も聞こえないということは、何がどこにいるかわからないということだ。


 「……帰れ。帰れ帰れ帰れ」


 自分に言い聞かせるみたいに呟いた。帰り方なんてわからない。前回は勝手に戻された。今回もそのうち戻されるはずだ。はずだ。はずだ。


 足元を見た。泥。さっきまで立っていた駅のホームのタイルの上じゃなくて、足首まで沈む泥の上に俺はいた。靴が片方脱げかけている。右足のスニーカーが泥に吸われていた。


 引き抜こうとした。動かない。


 「は?」


 もう一回。だめだ。泥が靴を掴んでいる。掴んでいるとしか思えない力で引っ張っている。足を持ち上げようとすると泥がぬるっと足首に巻きついてきて、ずぶ、とさらに沈んだ。


 「うそ——ちょっ、待っ——」


 左足も沈み始めていた。泥の表面にぶくぶくと泡が浮いている。泡が弾けるたびに、酸っぱい匂いがした。泥が消化液みたいに俺の靴を崩し始めている——靴底が柔らかくなっていくのが足の裏でわかった。


 スマホを落とした。掴んでいられなかった。手が震えすぎていた。泥の中に半分沈んで、画面の光がぼんやりと赤黒い泥を照らした。


 もがいた。両手で左膝を抱えて引っ張った。ずぶずぶずぶ。逆効果だった。暴れるほど沈む。


 「やめろやめろやめろやめろ!」


 叫んでいた。誰もいない灰色の世界で、一人で叫んでいた。腰まで来た。泥が温かい。生温かい。体温くらいの温度がある。気持ち悪い。何かの腹の中にいるみたいだ。


 尿意がきた。最悪だ。恐怖で膀胱の制御が効かなくなっている。必死に我慢した。泥の中で小便を漏らしながら死ぬのだけは嫌だった。死ぬかもしれないのに、そんなことを考えている自分がおかしかった。


 ——死ぬ。


 ここで沈んで、崩されて、死ぬ。そう思った。


 叫ぼうとしたけど今度は喉が詰まっていた。さっき叫びすぎたせいだ。前回みたいに引き戻されない。なんで。前は数十秒で戻れたのに。なんで今回は戻れない。


 泥が胸まで来た。


 呼吸が浅くなる。瘴気を吸いたくない。でも吸わないと死ぬ。どっちにしろ死ぬ。泥に飲まれて崩されて死ぬか、この空気に肺を焼かれて死ぬか。


 母さんの顔が浮かんだ。なんで今。なんで母さんなんだ。それから中学のときの担任の顔が浮かんで、それから何も浮かばなくなった。


 もがくのをやめた。体力が残っていなかった。暴れるほど沈むなら、動かない方がまだましだ。呼吸だけしていた。浅く、浅く。


 その静止した瞬間に、視界の端で何かが動いた。


 地平線——あるのかないのかわからない灰色の境界のあたりで、黒い影。大きい。前回の暗がりの中のやつとは違う。もっとずっと大きい。低くて、横に長い。地面を這うように移動している。ゆっくりと。こっちに向かっているのか、無関係に通り過ぎているのか、わからない。


 わからないけど、見られている気がした。


 もう何も考えられなかった。怖いとすら思わなかった。全部使い果たしていた。


 泥が首まで来た。


 あ、だめだ。


 そう思った瞬間に——


 駅のホームだった。


 電車がちょうどホームに入ってきたところだった。風圧で髪が揺れた。


 座り込んでいた。ホームのタイルの上に、膝を抱えて。泣いていた。自分が泣いていることに気づくのに数秒かかった。涙と鼻水がぐちゃぐちゃに混ざって顎から落ちていた。


 スマホがない。泥の中に落としたまま戻ってきた。


 靴が。


 右足の靴がなかった。靴下だけになっている。靴下の底がぼろぼろに穴が開いていた。足の裏がひりひりする。


 左足の靴はあった。でも靴底がぺらぺらに薄くなっていて、歩くと地面の凹凸が全部わかった。


 ズボンの腰から下が泥だらけだった。あの赤黒い泥。駅のホームにぼたぼたと滴り落ちている。それから——股間が濡れていた。結局漏らしていた。いつの間にか。向こうでか、こっちに戻ってからか。わからない。


 周りの人間が俺を見ていた。泥だらけで泣きながら座り込んでいる男。目が合った女子高生が露骨に距離を取った。おばさんが「大丈夫ですか」と声をかけてきたけど、首を振ることしかできなかった。


 改札を通れなかった。スマホがないからだ。あのスマホはあの泥の中で、今ごろ崩されているのだろうか。


 駅員に事情を——何を言えばいいんだ。異世界の泥に飲まれてスマホと靴をなくしましたって?


 「す、すみません、スマホ落として……」


 それだけ言うのに、三回つっかえた。駅員が怪訝な顔をしていた。当たり前だ。泥だらけの人間が靴片方なくして泣いた跡のある顔で来たら、誰だって怪訝になる。


 裸足に近い状態で一番近いコンビニまで歩いた。サンダルを買った。それだけで精一杯だった。


 帰り道、足が何度も止まった。歩いていると急にあの泥の感触が蘇って、足が地面にめり込むんじゃないかと思って動けなくなる。アスファルトだ。ここは普通の道だ。大丈夫だ。何回も自分に言い聞かせた。


 家に着いて、玄関で靴下を脱いだ。ズボンも脱いだ。パンツも替えた。全部ビニール袋に突っ込んだ。


 風呂に入って、足の裏を洗っているときに気づいた。


 赤い痕がうっすらと残っている。洗っても落ちない。模様みたいだった。泥がつけた模様。ランダムじゃない。規則性がある。


 湯船の中で、しばらくその模様を見ていた。


 あの泥は、俺のことを調べていたんじゃないか。


 ……考えすぎだ。泥が何かを調べるわけがない。そう思おうとした。でも足の裏の模様を見ると、否定しきれなかった。


 その夜、眠れなかった。目を閉じると泥の温度が蘇る。首まで浸かったときの、あの生温かさ。


 三時過ぎに、やっと意識が落ちた。

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