第2話「泥」
駅のホームでスマホをいじっていたら、足元がぶよぶよした。
三日ぶりだった。
「あ——」
それだけしか言えなかった。アスファルトが消えて、あの赤黒い地面が足の裏にあった。あの匂い。あの重い空気。肺が覚えていた。前みたいに咳き込まなかった。そのかわり、全身の毛穴がぶわっと開いた。腕の産毛が全部逆立つのがわかった。
来た。また来た。なんでまた来た。
スマホを握ったままだった。画面が光っている。圏外。当たり前だ。手が震えていて、スマホの表面がカタカタ鳴っていた。
周りを見た。
前回と場所が違う。あの柱みたいな木は遠くにぼんやり見えるだけで、ここは開けていた。開けている、というか——何もなかった。赤黒い地面がだらだらと続いていて、ところどころに背の低い草みたいなものが群生している。草、と呼んでいいのかわからない。葉っぱが緑じゃない。赤黒い。地面と同じ色をしている。その表面に細かい棘がびっしり生えていて、近づいただけで肌がちくちくする。空気に何か飛ばしているのかもしれない。
空が見えた。
今度は空がある。灰色。雲じゃない。空自体が灰色だった。太陽がどこにあるのかわからない。光はあるのに光源がない。全方向からぼんやりと照らされている感じで、影がほとんどなかった。
静かだった。
前回の、あの振動も、あの呼吸の音もない。しんとしている。何もいないわけじゃない。何かがいて、黙ってる。そういう静けさだった。前回のことがあるから、静かな方がむしろ怖い。音があれば場所はわかる。何も聞こえないということは、何がどこにいるかわからないということだ。
「……帰れ。帰れ帰れ帰れ」
自分に言い聞かせるみたいに呟いた。帰り方なんてわからない。前回は勝手に戻された。今回もそのうち戻されるはずだ。はずだ。はずだ。
足元を見た。泥。さっきまで立っていた駅のホームのタイルの上じゃなくて、足首まで沈む泥の上に俺はいた。靴が片方脱げかけている。右足のスニーカーが泥に吸われていた。
引き抜こうとした。動かない。
「は?」
もう一回。だめだ。泥が靴を掴んでいる。掴んでいるとしか思えない力で引っ張っている。足を持ち上げようとすると泥がぬるっと足首に巻きついてきて、ずぶ、とさらに沈んだ。
「うそ——ちょっ、待っ——」
左足も沈み始めていた。泥の表面にぶくぶくと泡が浮いている。泡が弾けるたびに、酸っぱい匂いがした。泥が消化液みたいに俺の靴を崩し始めている——靴底が柔らかくなっていくのが足の裏でわかった。
スマホを落とした。掴んでいられなかった。手が震えすぎていた。泥の中に半分沈んで、画面の光がぼんやりと赤黒い泥を照らした。
もがいた。両手で左膝を抱えて引っ張った。ずぶずぶずぶ。逆効果だった。暴れるほど沈む。
「やめろやめろやめろやめろ!」
叫んでいた。誰もいない灰色の世界で、一人で叫んでいた。腰まで来た。泥が温かい。生温かい。体温くらいの温度がある。気持ち悪い。何かの腹の中にいるみたいだ。
尿意がきた。最悪だ。恐怖で膀胱の制御が効かなくなっている。必死に我慢した。泥の中で小便を漏らしながら死ぬのだけは嫌だった。死ぬかもしれないのに、そんなことを考えている自分がおかしかった。
——死ぬ。
ここで沈んで、崩されて、死ぬ。そう思った。
叫ぼうとしたけど今度は喉が詰まっていた。さっき叫びすぎたせいだ。前回みたいに引き戻されない。なんで。前は数十秒で戻れたのに。なんで今回は戻れない。
泥が胸まで来た。
呼吸が浅くなる。瘴気を吸いたくない。でも吸わないと死ぬ。どっちにしろ死ぬ。泥に飲まれて崩されて死ぬか、この空気に肺を焼かれて死ぬか。
母さんの顔が浮かんだ。なんで今。なんで母さんなんだ。それから中学のときの担任の顔が浮かんで、それから何も浮かばなくなった。
もがくのをやめた。体力が残っていなかった。暴れるほど沈むなら、動かない方がまだましだ。呼吸だけしていた。浅く、浅く。
その静止した瞬間に、視界の端で何かが動いた。
地平線——あるのかないのかわからない灰色の境界のあたりで、黒い影。大きい。前回の暗がりの中のやつとは違う。もっとずっと大きい。低くて、横に長い。地面を這うように移動している。ゆっくりと。こっちに向かっているのか、無関係に通り過ぎているのか、わからない。
わからないけど、見られている気がした。
もう何も考えられなかった。怖いとすら思わなかった。全部使い果たしていた。
泥が首まで来た。
あ、だめだ。
そう思った瞬間に——
駅のホームだった。
電車がちょうどホームに入ってきたところだった。風圧で髪が揺れた。
座り込んでいた。ホームのタイルの上に、膝を抱えて。泣いていた。自分が泣いていることに気づくのに数秒かかった。涙と鼻水がぐちゃぐちゃに混ざって顎から落ちていた。
スマホがない。泥の中に落としたまま戻ってきた。
靴が。
右足の靴がなかった。靴下だけになっている。靴下の底がぼろぼろに穴が開いていた。足の裏がひりひりする。
左足の靴はあった。でも靴底がぺらぺらに薄くなっていて、歩くと地面の凹凸が全部わかった。
ズボンの腰から下が泥だらけだった。あの赤黒い泥。駅のホームにぼたぼたと滴り落ちている。それから——股間が濡れていた。結局漏らしていた。いつの間にか。向こうでか、こっちに戻ってからか。わからない。
周りの人間が俺を見ていた。泥だらけで泣きながら座り込んでいる男。目が合った女子高生が露骨に距離を取った。おばさんが「大丈夫ですか」と声をかけてきたけど、首を振ることしかできなかった。
改札を通れなかった。スマホがないからだ。あのスマホはあの泥の中で、今ごろ崩されているのだろうか。
駅員に事情を——何を言えばいいんだ。異世界の泥に飲まれてスマホと靴をなくしましたって?
「す、すみません、スマホ落として……」
それだけ言うのに、三回つっかえた。駅員が怪訝な顔をしていた。当たり前だ。泥だらけの人間が靴片方なくして泣いた跡のある顔で来たら、誰だって怪訝になる。
裸足に近い状態で一番近いコンビニまで歩いた。サンダルを買った。それだけで精一杯だった。
帰り道、足が何度も止まった。歩いていると急にあの泥の感触が蘇って、足が地面にめり込むんじゃないかと思って動けなくなる。アスファルトだ。ここは普通の道だ。大丈夫だ。何回も自分に言い聞かせた。
家に着いて、玄関で靴下を脱いだ。ズボンも脱いだ。パンツも替えた。全部ビニール袋に突っ込んだ。
風呂に入って、足の裏を洗っているときに気づいた。
赤い痕がうっすらと残っている。洗っても落ちない。模様みたいだった。泥がつけた模様。ランダムじゃない。規則性がある。
湯船の中で、しばらくその模様を見ていた。
あの泥は、俺のことを調べていたんじゃないか。
……考えすぎだ。泥が何かを調べるわけがない。そう思おうとした。でも足の裏の模様を見ると、否定しきれなかった。
その夜、眠れなかった。目を閉じると泥の温度が蘇る。首まで浸かったときの、あの生温かさ。
三時過ぎに、やっと意識が落ちた。




