第62話「域」
足裏が鳴った。
いつもの脈動とは違う。じんじん、ではなく、ずん、と一回。深いところから突き上げるような振動。体の芯まで響いた。
転移だ。
時計を見た。午前十一時二十三分。端末を取った。ミラーの番号。
「来ます」
「四分で行きます」
それだけで切れた。
装備は玄関に置いてある。防護服、ボンベ、ゴーグル。コールの新しい作戦計画に基づいて組まれたセット。サプレッサー付きのサイドアームが一丁。発煙筒が三本。方位磁針。電子機器はあちら側で狂うことがあるから、針式。
防護服に足を通した。ボンベを背負った。マスクを首にかけた。ゴーグルを額に上げた。
四分。
足裏がまた鳴った。ずん。間隔が短くなっている。
チャイムが鳴った。
ミラーだった。もう防護服を着ていた。背中にボンベ。腰にサイドアーム。胸のポケットに発煙筒。走ってきたはずなのに息が乱れていない。
初めてまともに顔を見た。殲滅戦の後、ミラーは悠に対して「Yes, sir」しか言わなかった。報告書を書き、指示を待ち、それ以外の言葉を発しなかった。九人の仲間を失った男の沈黙だった。
三十代前半。顎が角張っていて、目が薄い茶色。目の下に影がある。眠れていないのかもしれない。俺と同じだ。
「ミラー」
「サー」
「今日は、名前で呼んでくれ」
ミラーが一瞬だけ目を動かした。
「……佐倉さん」
不器用な日本語だった。悠、ではなく佐倉さん。コールに教わったのか。
「行きます。あいつらの縄張りに入る。前回は向こうに検査された。今回は俺から入る。中で何が起きても、俺が撃つなと言ったら撃たないでください」
「了解です」
「それと——俺がおかしなことを言い始めたら、引きずってでも帰還ポイントまで戻してください」
ミラーが頷いた。「了解です」ではなく、頷いた。
足裏が三度目。ずん。ずん。間隔がさらに短くなった。
「来る。手を」
ミラーの手を掴んだ。乾いていて、硬かった。握り返す力が強い。マスクを上げた。
足裏が鳴った。四度目。
世界が裏返った。
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匂いが来た。マスクの縁から。
甘い腐敗。鉄錆。湿った土。それからもう一つ、名前がつかない何か。肺の奥に貼りつくような重さ。ゴーグルを下ろした。
目を開けた。
赤い。空が赤黒い。太陽がどこにあるかわからない。光が拡散していて、影の方向が定まらない。
足元。何かが分厚く堆積した地面。踏むと微かに弾力がある。湿っていて、腐葉土とも違う。生きているのか死んでいるのかわからないものの上に立っている。
周囲。木。巨大な木。幹の直径が三メートルはある。見上げると、上の方は赤い光に溶けて見えない。幹の表面を蟲が這っていた。手のひらほどの大きさ。甲殻が黒光りしている。何十匹も幹を登っている。
ミラーが隣にいた。銃を構えていた。銃口が微かに動いている。プロの動き。でも手が震えていた。わずかに。
「ミラー。銃を下ろしてください。振動を出さない」
ミラーが銃を下ろした。手の震えは止まらなかった。
足裏に集中した。マスクの中で目を閉じた。
地面の下に筋がある。あの網目。流れている。方向がある。あいつらの場所は、あっちだ。
目を開けた。
「こっちです」
歩き始めた。ミラーが後ろについた。
森は騒がしかった。蟲が動く音。遠くで何かが地面を踏む振動。低く、重い。大きなやつがどこかにいる。木の上から液体が垂れてきた。マスクの外側に滴がついた。紫がかった色。ぬるい。拭かなかった。
どこから何が来るかわからない。いつ来るかわからない。マントが木の間に広がるかもしれない。地面が揺れて、口が出てくるかもしれない。あるいは上から。
ポケットの中の発煙筒に触れた。三本。これで何ができる。何もできない。
二十分ほど歩いた。
地面が変わった。
踏んだ瞬間にわかった。弾力のある地面が消えて、硬くなった。硬いが、死んでいない。地面が生きている。整然と脈打っている。舗装された道路のようだった。何かに飼い慣らされた地面。
同時に、世界が黙った。
蟲がいなかった。
幹を何十匹も登っていた蟲が、境界の手前で止まっている。一匹もこっちに入っていない。遠くの振動も消えた。何かが地面を踏む音もない。木の上から液体も垂れてこない。
何もいない。
境界の向こう側には魔物が溢れていた。蟲も、遠くの大きなやつも、木の上の何かも、全部いた。ここには何もいない。全部が、この線の手前で止まっている。
入れないのだ。この先には。何かが、あの魔物を全部ここから追い出している。あの蟲すら入れない力が、この地面の下に流れている。
ミラーも気づいた。足を止めた。周囲を見回している。銃口が上がりかけて、下がった。撃つものがない。
「何もいません」
「ここからが、あいつらの場所です」
木の配置が変わっていた。外では好き勝手に生えていた木が、ここでは間隔が揃っている。枝の伸び方が統一されている。植えたのだ。誰かが。この森をこう作った。
進んだ。
匂いが変わった。外の甘い腐敗が消えて、別の匂いが来た。鋭い。何層にも重なっている。人間の鼻では分解できない。でもあちら側に来るたびに、少しだけ解像度が上がっている気がする。以前は「鋭い匂い」としか感じなかったものが、今は層になっていることがわかる。
ミラーの呼吸がマスクの中で荒くなった。
匂いの中に、肉の匂いが混じっていた。
木の間に、何かがぶら下がっていた。
最初は木の実だと思った。巨大な、赤黒い塊。だが近づくにつれて、形が見えてきた。
脚があった。
関節がある。鉤爪がある。前肢が長い。頭が下を向いている。目が開いていた。濁った目。生きていたときはこの目で獲物を追い、学習し、回り込み、殺した。今はただ濁っている。何も映していない。腹が裂かれていて、中身が半分ない。残った肉が変色していた。
こいつを知っている。
学ぶやつら。殲滅戦の夜に来た。銃の射界を覚えて回り込んできた。バリケードの死角から侵入してきた。テントの紐を切って中の人間を引きずり出した。真鍋を殺したのも、こいつらだ。テーブルの上に真鍋の靴がある。あの靴の持ち主を殺した魔物と同じやつ。
それが、吊るされていた。
一体ではなかった。木の間に、等間隔で。七体。全部同じように吊るされ、腹を裂かれている。変色の度合いが違った。手前のは赤黒い。奥のは灰色に近い。新しいのと古いのがある。順番に、計画的に吊るされている。
肉だった。
人間を殺す魔物が、ここでは餌だった。あの蟲すら入れない何かが、この学ぶやつらを捕まえて、吊るして、腹を裂いて、腐らせている。
ミラーが立ち止まっていた。吊るされた魔物を見上げていた。マスクの中で唇が動いていた。何も音にならなかった。ミラーはこいつらと戦った。九人の仲間を殺された。その魔物が、ここでは吊るされている。
濁った目が七対、俺たちを見下ろしていた。死んだ目だった。でも開いていた。こいつらを殺したものが、この森のどこかにいる。こいつらより上にいるものが。はるかに上に。
足裏が急に強く脈打った。
来る。
姿が見える前に、わかった。足裏が先に知った。地面の脈動が変わった。整然としたリズムの中に、もう一つのリズムが加わった。重くて、遅くて、地面全体を押さえつけるような振動。
次に匂い。吊るされた肉の匂いに、新しい匂いがかぶさった。もっと鋭い。もっと深い。肉の匂いとは違う。肉を喰うものの匂い。
鼻の奥が痺れた。肌が粟立った。腕の産毛が逆立っている。マスクの中なのに、肺の奥に何かが触れている。五感の全部が同時に反応していた。目にはまだ何も見えていないのに。体の全部が、何かが近づいてきていると叫んでいた。
木々の間から。
影が動いた。赤い光の中で、さらに暗い影。大きい。俺より頭二つ分は大きい。
出てきた。
二本の脚で立っている。体が細長い。人間みたいな形をしている。人間みたいだから余計に怖い。人間みたいなのに、全部が違う。
顔がない。
顔があるべき場所に、穴が並んでいた。三つか四つ。小さな、暗い穴。目じゃない。何のための穴かわからない。でもこっちを向いている。見られている。何で見ているかわからないが、全部見られている。俺の体温を。俺の匂いを。俺が吐いた息を。全部読まれている。
頭の横から何かが張り出している。扁平で、扇みたいに広がっていて、微かに動いている。空気の中の何かを嗅いでいる。
口がない——と思ったら、頭の下全体がそうだった。顎の下から首にかけて、横に長い裂け目。閉じている。開いたら——吊るされたあの魔物を丸呑みにできる。人間なんか、ひと飲みだ。
皮膚の色が動いていた。灰色から褐色に。褐色から灰色に。体の中で何かが動いている。それが色になっている。何を考えているかわからない。怒っているのか。興味を持っているのか。腹が減っているのか。何もわからない。
手が三本指だった。長い。関節が人間より一つ多い。指の表面が濡れていた。何か出ている。
こいつらが日下部にやったことを知っている。首に触れた。何かを入れた。それが脳まで行って、日下部を壊した。調べただけだ。こいつらにとっては。壊すつもりはなかっただろう。壊れたのは結果であって目的じゃない。人間が虫を潰すのと同じだ。悪意はない。ただ壊れた。
そのこいつが、今、俺の前にいる。吊るされた肉の匂いの中に立っている。あの裂け目で肉を丸呑みにするこいつが。
逃げたかった。
体の全部が逃げろと言っていた。匂いが。肌が。産毛が。肺の奥が。こいつの近くにいてはいけない。人間の全部が拒絶している。
足裏だけが違った。
足裏だけが共鳴していた。地面を通じて、こいつの振動が来ている。何を言っているかはわからない。でも振動がある。こいつが発している振動と、俺の足裏の網目が、同じリズムで脈打っている。体の中で、人間の部分とあちら側の部分が引き裂かれていた。逃げたい俺と、聞きたい足裏。
隣でミラーの呼吸が止まった。一瞬だけ。それから浅く速い呼吸に変わった。銃に手がかかっている。
「撃つな」
声に出した。ミラーに向けて。ミラーの手が銃から離れた。
魔族が動いた。
動く前に、地面の振動が変わった。足裏が先に知った。来る、と。それから体が動いた。足音はしない。あの体でなぜ足音がしない。地面を踏む振動だけが足裏に伝わってくる。吊るされた肉の横を通り過ぎた。匂いの層が揺れた。こいつの匂いと肉の腐った匂いが混じった。
俺の前で止まった。近い。腕を伸ばせば届く。こいつの腕なら、俺の頭を掴める距離。匂いが顔の前を覆った。こいつの体から出ている匂いが俺を包んでいる。穴がこっちを向いている。頭の横の器官が微かに動いている。全部で俺を読んでいる。品定めされている。
三本指の手が伸びてきた。
俺の足元に。
日下部の首に触れたのと同じ手だ。この指から何かが出て、日下部の中に入って、脳を壊した。
三本指が俺のふくらはぎに触れた。防護服の裾をめくるように。痣の上に。
冷たかった。人間の温度じゃなかった。乾いているのに、指の表面から何かが滲み出ていた。触れた場所が変わった。温かくなったのではない。何かが皮膚の下に入ろうとしている。浸透している。日下部の首に入ったものと同じものが。
足裏が爆発した。
共鳴。足裏の網目が一斉に脈打った。痣全体が振動した。痛みではない。痛みではないが、体の中を何かが走り抜けた。足裏からふくらはぎへ。ふくらはぎから膝へ。膝から——止まった。そこで止まった。入ろうとしていたものを、足裏が止めた。
魔族の三本指がまだふくらはぎにあった。皮膚の色が速く変わっていた。灰色、褐色、灰色、もっと暗い色、また灰色。速い。前に検査されたときはこんなに速く変わらなかった。
何かを感じている。俺の痣から何かを感じている。興味を持っている。
日下部にも興味を持った。調べた。壊した。
俺は壊れなかった。足裏に同じものがあるから。共鳴が侵入を止めたから。でもそれは結果論だ。こいつが「壊れないから触ろう」と判断したのか、「触ってみたら壊れなかった」だけなのか。壊れていたら日下部と同じだった。あの濁った目で吊るされていたかもしれない。
怖い。怖いのに、足裏が共鳴している。怖いのに、もっと知りたいと思っている自分がいる。その自分が一番怖い。
三本指が離れた。触れていた場所に匂いが残った。こいつの匂い。指が離れたのに、匂いが俺の肌に染みついている。
魔族が体を奥に向けた。歩き始めた。来い、とは言わない。ただ歩く。吊るされた肉の間を通って。
だが頭の横の器官がまだ俺の方を向いていた。体は遠ざかっているのに、俺を読むのをやめていない。行ったのか。本当に行ったのか。
追うか。
ミラーを見た。ミラーの顔は白かった。マスクの中で唇が動いていた。何か言おうとして、やめて、俺を見た。
「判断はあなたです」
追う。
一歩を踏み出した。足裏が飼い慣らされた地面を踏んだ。共鳴の余韻がまだ残っていた。吊るされた肉の横を通った。濁った目が見ていた。学ぶやつらの死んだ目。真鍋を殺した魔物の目。
二歩目を踏んだ。
足裏が鳴った。帰還の合図。ずん。体の芯を引き戻す振動。行きとは違う。帰れ、という振動。
「——来る」
ミラーの手を掴んだ。
世界が裏返った。帰還。
部屋のフローリングに立っていた。ミラーがまだ俺の手を握っていた。
防護服を脱いだ。足を見た。
痣がふくらはぎの中段まで広がっていた。出発前より確実に上に来ている。あいつに触れられた場所から広がった。
ミラーが俺の足を見ていた。何も言わなかった。
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報告書に何を書けばいい。
ミラーは端末の前に座っていた。ウィークリーマンションの狭い机。壁にコールからの作戦概要が貼ってある。殲滅戦の教訓を二十項目にまとめたもの。第一項、「振動を出すな」。第二項、「管理区域に入るな」。今日、二つとも破った。
あいつらの縄張りに入ったのは二度目だった。一度目は殲滅戦の前。偵察で境界の近くまで行った。あのとき地面が変わった場所を覚えている。弾力のある地面が消えて、硬くなった場所。佐倉が「あいつらの場所です」と言った場所と同じだった。
同じ場所に、今度は二人で入った。
匂いがだめだった。
マスクを通しても入ってくる。甘くて、酸っぱくて、腐っていて、でもどれでもない。アフガンの市場で腐った羊肉の山を見たことがある。イラクの夏に水道管が破裂して汚水が街路に溢れたことがある。あれは酷かったが、人間にわかる匂いだった。脳が処理できた。ここの匂いは処理できない。鼻が受信して、脳が分類を拒否する。名前のない匂い。マスク越しでこれだ。殲滅戦のとき、ベースキャンプに残った連中はこの匂いの中で四日間過ごしていた。
そして肉だった。
木の間にぶら下がっていた。吊るされて、腹を裂かれて、腐りかけている。あの魔物。殲滅戦の夜、バリケードの死角から入ってきたやつら。銃の射界を覚えて回り込んできたやつら。仲間を三人、あの鉤爪で殺された。
そいつらが、肉になっていた。
七体。等間隔で。新しいのと古いのがある。計画的に。
あの夜、ミラーはあの魔物が怖かった。学習して回り込んでくる。暗闘の中から鉤爪が来る。殲滅戦で一番怖い相手だった。
そいつらを捕まえて、吊るして、腐らせて、喰うものがいる。
木の間から出てきた。
立っていた。二本の脚で。人間と同じ格好で。人間と同じだから怖い。人間に似ているのに、全部が違うから怖い。顔がない。顔があるべき場所に穴が並んでいる。穴がこっちを向いている。何で見ているかわからないが、見られているのはわかる。皮膚の色がゆっくり動いている。口は頭の下全体。閉じていた。開いたらあの魔物を丸呑みにできるサイズだった。人間なら、噛まなくていい。
アフガンでもイラクでも、相手は人間だった。目を見れば何を考えているかわかった。殺意がある目。恐怖がある目。取引をしたい目。全部読めた。こいつには目がない。殺意があるのかないのかわからない。敵意があるのかないのかわからない。友好的なのかもわからない。何もわからない。穴だけがこっちを向いている。
何もわからないものが佐倉の足に触った。
銃に手をかけた。佐倉が「撃つな」と言った。撃たなかった。手を離した。佐倉の顔を見た。
恐怖ではなかった。
佐倉は怖がっていたはずだ。前にあいつらの縄張りに入ったときも怖がっていた。怖がっているのに行く。でも今日の佐倉の顔は、恐怖ではなかった。かといって平気でもなかった。見たことのない顔だった。ミラーが人間の顔として見てきた表情の、どれにも当てはまらない顔。
日下部のことが頭をよぎった。あの女性兵士。首に痕をつけられた。あいつらに。調べられて、壊された。同じ三本指が、今度は佐倉の足に触っていた。佐倉は壊れなかった。だが佐倉はあいつの後を追おうとしていた。吊るされた肉の間を通って。あの濁った目の下を歩いて。
正気じゃない。
でも「判断はあなたです」と言った。言うしかなかった。佐倉にしか聞こえないものがある。ミラーには聞こえない。聞こえない人間が、聞こえる人間の判断を止める権利はない。
帰還が来た。あと二歩遅かったら、佐倉はあの肉の間を歩いていた。
報告書に打ち込んだ。
「対象領域に進入。知的生命体一体と接触。対象は佐倉の下肢に触れた後、体色変化を加速。領域内に大型魔物の死骸複数を確認。敵意の有無:不明。目的:不明。行動原理:不明」
不明しか書けない。
殲滅戦の後を思い出した。朝になって、ベースキャンプに戻った。九人の遺体がなかった。報告書には「数日で分解される」と書いた。あのときはそう思っていた。
今日、あいつらの縄張りの中に肉がぶら下がっているのを見た。
それ以上は考えなかった。
端末を閉じかけて、止まった。
一つだけわかったことがある。報告書に書けないことが。
あの縄張りの中で、佐倉は何かを聞いていた。地面から。あの生き物から。ミラーには何も聞こえなかった。地面はただの地面で、振動はただの振動で、匂いはただの吐き気だった。でも佐倉はあの中で、ミラーには聞こえないものを聞いていた。
ミラーの仕事は、佐倉が聞いている間、佐倉の横に立っていることだ。
それだけだ。
それだけでいい。




