第61話「解」
四つになった。
拓海の財布。森塚の手袋の切れ端。真鍋の靴。日下部のメモ帳。
テーブルの前に座っていた。どのくらい座っていたかわからない。窓の光が動いていたから、たぶん長い時間だった。
五日経っていた。日下部が死んでから。
葬儀をやった。コールが敬礼した。赤城が日下部の髪を整えた。岸本が花を持ってきた。園田は最後まで棺の横に立っていた。俺はその全部を見ていたはずなのに、記憶がぼんやりしている。ちゃんと見ていたのか。いたのか、あの場に。体はいた。頭はどこにあったかわからない。
部屋が静かだった。冷蔵庫の音がしていた。それだけ。
メモ帳を開いた。何度目だろう。日下部のひらがな。最初のページ。「こわい」。次のページ。「だいじょうぶ」。白紙が続いて、最後のページ。
「まかいせかい」
五日間、何度も開いた。何度開いても同じ五文字だった。答えが変わるわけがない。でも開いた。他にすることがなかった。
森塚が最初に言った言葉だった。差し詰め魔界。あの世界に名前をつけた人間は森塚で、その言葉を最後に書いた人間は日下部だった。二人とも死んだ。言葉だけが残っている。
メモ帳を閉じた。真鍋の靴の右に置いた。四つ。左から死んだ順に並んでいる。いつの間にかそうなっていた。
まともに食っていなかった。昨日の夜も食っていない。腹は減っていたが、何かを作る気にならなかった。シンクに洗い物が溜まっていた。拓海の部屋に入ったとき、シンクはきれいだった。拓海はきちんとした人間だった。俺はきちんとしていない。
足裏がじんじんしていた。転移の兆候ではない。もう常にじんじんしている。あの筋が動いている。眠っているときも、風呂に入っているときも、こうやって何もせずに座っているときも、足の裏の網目が微かに脈打っている。痣は足首を超えた。ふくらはぎの下端まで来ている。園田に見せた。園田は定規を当てて写真を撮った。「膝まで来たら止めると約束してください」。約束した。止められるかは別の話だ。
何をすればいい。
四つの遺品が並んでいる。全員、あの世界に触れて、死んだ。俺だけがここにいる。テーブルの前に。シンクに洗い物を溜めて。飯も食わずに。
チャイムが鳴った。
園田だった。トートバッグを肩にかけて、眼鏡の奥の目が赤かった。泣いた後の目。でも園田は泣きに来たのではなかった。
園田が部屋に入って、テーブルの上の四つを見た。何か言いかけて、やめた。俺も何も言わなかった。
「データ、まとまりました」
テーブルの上にノートパソコンを開いた。遺品を端に寄せて。園田は遺品に触れなかった。触れずに場所を空けた。
画面にグラフが表示された。横軸が時間、縦軸が周波数。二本の線が走っている。
「赤が日下部さんの脳波です。最後の四十八時間」
赤い線は序盤、ゆるやかに揺れていた。正常な脳波に近い。中盤から振幅が大きくなり、終盤は激しく振動していた。壊れていく脳の記録だった。
「青が何かわかりますか」
青い線は赤より細かく、規則的に脈打っていた。
「俺の——足裏ですか」
「はい。佐倉さんの足裏の振動記録です。同じ四十八時間を重ねました」
二本の線を見た。序盤はまったく別の動きをしている。中盤から、赤い線の振幅が大きくなるにつれて、青い線との間に部分的な一致が現れ始める。終盤——日下部が「まかいせかい」と書いた前後——二本の線がほとんど重なっていた。
「日下部さんの脳が、佐倉さんの足裏と同じものを受信していました」
園田の声は平坦だった。データを読むときの声。感情を消して事実だけを伝える声。森塚に似てきている。
「同じもの——あちら側の、あの筋の」
「はい。佐倉さんは足裏で受信しています。足裏に定着した共生体を通じて。日下部さんは——脳で直接受信していました。首から侵入した菌糸が脳に到達していた」
園田が画面をスクロールした。MRIの画像が出た。日下部の脳。白い筋が網目状に広がっている。
「これが死亡前日のMRIです。菌糸が大脳皮質全体に到達しています。佐倉さんの足裏の共生体と、遺伝的にほぼ同一です」
同じものが、俺の足裏と日下部の脳にあった。俺は足裏から少しずつ広がっている。日下部は首から一気に脳まで行った。俺は少しずつ馴染んでいる。日下部は一気に飲み込まれた。同じものなのに、結果が違った。
「なぜ俺は壊れなかったんですか」
「わかりません」
園田が正直に言った。
「仮説はあります。佐倉さんの場合、足裏から侵入して末梢神経に沿ってゆっくり広がっている。体が適応する時間がある。日下部さんは首から侵入して、中枢神経に直接到達した。適応する時間がなかった。——でも仮説です。検証できません。日下部さんはもういない」
もういない。
園田がパソコンを閉じかけて、止まった。
「もう一つ」
画面を切り替えた。別のグラフ。日下部の脳波の終盤を拡大したもの。「まかいせかい」を書いた時刻に赤い線を引いてある。
「ここです。日下部さんが最後にメモを書いた瞬間。脳波が——ここだけ、きれいなんです」
見た。確かに。終盤の脳波は激しく乱れているのに、赤い線の前後だけ波形が整っている。嵐の中の凪のように。
「壊れていく脳が、この瞬間だけ安定していた。何らかの信号が脳に入って、壊れる力を一瞬だけ押し返した。その隙に日下部さんは書いた。書けた」
日下部が、あの震える手で、ひらがなを五文字。壊れていく脳が一瞬だけ静まった、その隙間に。
「何が入ってきたんですか」
「わかりません。でも佐倉さんの足裏の記録と照合すると、この瞬間に佐倉さんの足裏も同じ波形を記録しています。あちら側から何かが来た。それが日下部さんの脳を一瞬だけ安定させた。そして日下部さんは書いた」
まかいせかい。
あちら側から何かが来て、日下部の壊れていく脳を一瞬だけ止めて、日下部はその隙間に書いた。
何を伝えたかったのか。
「園田さん」
「はい」
「日下部さんが最後に受信していたものを、俺なら——見に行ける」
園田が俺を見た。眼鏡の奥の赤い目。
「はい」
一言だった。園田は長い説明をしなかった。データを見せて、結論を俺に言わせた。結論を押しつけない。材料を並べて、相手に辿り着かせる。森塚がそうだった。
「あの管理区域にもう一度入ります。前は検査された。今度は俺から行く」
園田が頷いた。
「佐倉さん。一つだけ」
「はい」
「日下部さんの死を無駄にしないことと、佐倉さんが壊れることは、別です」
園田の声が震えた。データの声ではなかった。
「日下部さんに嘘の約束をしました。大丈夫だって。——佐倉さんにも嘘をつくつもりはありません。あなたの体は変わっていっています。足首を超えました。このまま進めば——」
「膝まで来たら止めます」
「約束ですよ」
「約束です」
園田がノートパソコンをトートバッグにしまった。遺品に触れずにテーブルを片づけた。帰り際に振り返った。
「日下部さんが見ていたものを、佐倉さんが見てきてください。——私はデータで待っています」
ドアが閉まった。
コールに電話した。暗号化回線。椎名が用意した専用の端末。
「佐倉」
コールは俺を姓で呼ぶ。ファーストネームではなく。軍人の呼び方。
「管理区域に入ります。あいつらの領域に。前回は向こうに検査された。今度は俺から行きます」
短い沈黙。
「同行者は」
「ミラーを借りたい」
「理由を聞いていいか」
「殲滅戦を生き延びた。あの区域に一度入っている。それと——ミラーは冷静です。俺が冷静でいられないとき、ミラーがいれば判断が保てる」
「お前一人で行くつもりだったか」
「最初はそう考えました」
「やめろ」
「だからミラーを借りたいと言ってます」
コールが低く笑った。笑い声を聞いたのは初めてだった。
「ミラーを信じろ。あいつは帰ってきた男だ。——九人死んで、あいつだけ帰ってきた。それには理由がある」
「理由は」
「運じゃない。判断だ。あいつは、逃げるタイミングを間違えない」
電話を切った。
高梨にも報告しなければ。椎名にも。赤城は高梨と次の作戦の骨子を詰めている。岸本は日下部の隔離施設の後片づけに行っている。みんな動いている。止まっていたのは俺だけだ。
日下部は、俺の隣にいた。同じ世界に触れていた。でも日下部が最後に見ていたものを、俺は見られなかった。隣にいたのに。
メモ帳をもう一度開いた。最後のページ。
「まかいせかい」
日下部が壊れながら書いた五文字。あちら側から何かが来て、壊れる脳を一瞬だけ止めて、その隙間に書かれた五文字。同じ言葉のはずだった。森塚が最初に言った、あの言葉と。でも日下部の字で書かれたそれは、何か違うものに見えた。日下部はこれを書いたとき、俺に向けて書いたのか。それとも——
お前が見ていたものを、俺が見に行く。
靴を脱いだ。足裏を見た。痣が広がっている。足首を超えて、ふくらはぎの下端に届いている。紫がかった網目状の模様。
見ていた。足裏が、俺を見ていた。網目の一つ一つが微かに収縮して、弛緩して、また収縮する。俺の脈とは違うリズムで。俺の体の中に、俺ではないものの脈がある。
膝まで来たら止める。園田と約束した。
止められるのか。止まるのか。俺の意志で止められるものなのか。
わからない。
わからないまま、行く。




