第60話「声」
日下部が笑った日から二日後の夜だった。
足裏がずきんと脈打って目が覚めた。転移の兆候ではなかった。別の種類の振動だった。あの世界ではなく、この施設の中で何かが変わった。足裏の共生体が、近くにいるもう一つのあちら側の痕跡——日下部の首の痕——に反応していた。
同時に、廊下の向こうでアラーム音が鳴った。
心拍モニター。
走った。裸足で。靴を履く時間が惜しかった。廊下の蛍光灯がちかちかしていた。町田がいなくなった部屋の前を通って、日下部の病室の扉を開けた。
園田が先にいた。白衣を羽織っただけの姿。研究室で仮眠していたのだろう。ここ数日、園田は研究室で寝ていた。自分の部屋に戻っていなかった。日下部の傍にいるために。
日下部の心拍数が急上昇していた。モニターの数字。百二十。百三十。百四十。安静時の日下部は六十前後だった。倍以上に跳ね上がっている。
日下部が目を開けていた。
天井を見ていなかった。天井の向こうを見ていた。目の焦点が合っていないのに、何かを見ている目だった。瞳孔が開いていた。その奥に、微かな赤い光が灯っていた。あの管理区域で見た魔族の凹みの奥の光と同じ色。日下部の目の奥に、あの世界が映っている。
二日前に笑った目ではなかった。「ひかり、きれい」と言った目ではなかった。「おかあさんに、あいたい」と言った目ではなかった。どこか遠くに行こうとしている目だった。
「日下部さん」
反応がなかった。目は開いている。呼吸はしている。心拍は百四十で安定している。でも日下部はここにいなかった。体はベッドの上にあるが、何かがどこか別の場所に触れている。
首の痕が脈打っていた。今まで見たどの脈動よりも速く、強く。暗い赤紫の模様が心拍に合わせて明滅していた。胸まで広がった痕の全体が、一つの器官のように同期して光っていた。二日前には止まっていたはずの進行が、再び始まっていた。蝋燭の最後の明滅が終わって、炎が本当に消えようとしている。
園田がモニターを見ていた。脳波計の画面が異常なパターンを描いていた。
「受信しています」と園田が言った。声が震えていた。「日下部さんの脳があちら側の何かに反応している。制御できません。日下部さん自身にも」
日下部の唇が動いた。
声は出なかった。二日前には出ていた声が、もう出なかった。あの声は最後の灯火だった。今はもう。でも唇が動いていた。何かを言おうとしている。何かを伝えようとしている。壊れかけた体の最後の力で。
メモ帳。枕元にあった。二日前に「みんな、だいすき」と書いたメモ帳。園田が手を伸ばして、日下部の手の近くに置いた。ペンも。
日下部の指が動いた。ペンを握った。二日前より震えがひどかった。指の先端が紫色に変わっていた。あの世界の色に。爪の下まで暗い赤紫が滲んでいた。
書いた。
ゆっくり。一文字ずつ。ペンの先がメモ帳の上で震えながら動いた。ひらがな。
一文字目。「ま」。
園田が息を止めた。
二文字目。「か」。
三文字目。「い」。
園田が俺を見た。俺も園田を見た。まかい。魔界。
四文字目。「せ」。
五文字目。「か」。
六文字目。「い」。
ペンが止まった。日下部の手が落ちた。メモ帳の上にペンが転がった。
「まかいせかい」
六文字。ひらがなで。震える字で。最後の「い」の最後の画が途中で途切れていた。書き切る前に力が尽きた。
この六文字が何を意味するのか、俺にはわからなかった。園田にもわからなかった。森塚先生の「差し詰め魔界」の記憶なのか。壊れた脳が拾った断片なのか。それとも——日下部の壊れかけた感覚が、あちら側の何かに触れて、俺たちがまだ知らない何かの名前を掴んだのか。
森塚先生が最初にあの世界を呼んだ言葉だった。あの研究室で、未知の菌のサンプルを前にして、「差し詰め魔界ですな」と笑った。日下部は森塚先生に会ったことがない。この言葉を知っているはずがなかった。知らないはずの言葉を、最期に書いた。
日下部の心拍が下がり始めた。
百四十。百二十。百。
目がゆっくり閉じていった。瞳孔の奥の赤い光が薄れていく。あちら側との接続が切れていく。
八十。七十。六十。
首の痕の明滅が遅くなった。脈動が弱くなった。二日前に止まっていた痕が、再び動き出して、そして本当に止まろうとしている。
五十。四十。
「日下部さん」
園田が呼んだ。返事はなかった。
三十。二十。
園田が日下部の手を握った。メモ帳を握っていた手。「みんな、だいすき」と書いた手。「まかいせかい」と書いた手。「おかあさんに、あいたい」と言った人間の手。
科学者の手が、壊れた体の手を握っていた。データを取る手ではなかった。新しい服を一緒に買いに行くと約束した手だった。
十。
フラットライン。
アラーム音が鳴った。長い、途切れない電子音。
園田が日下部の手を離さなかった。
「日下部さん」
園田の声がかすれていた。
「——お疲れ様でした」
メガネをかけていなかった。いつ外したのかわからなかった。目が赤かった。頬が濡れていた。二日前に部屋の隅で背中を向けて泣いた人間が、今度は日下部の顔を見ながら泣いていた。
俺はベッドの反対側に立っていた。日下部の顔を見ていた。穏やかだった。二日前の笑顔の名残があった。光がきれいだと言った顔。おしゃれしたいと言った顔。おかあさんに会いたいと言った顔。その全部が、静かに消えていた。
あるいは——最後の瞬間に、日下部はあの世界の何かを見ていたのかもしれない。発光する木を。温かい地面を。皮膚の色が変わる異形の存在を。俺たちには見えなかった何かを、日下部だけが見ていたのかもしれない。そしてそれを、六文字で俺に残した。
日下部の手袋をベッドの横のテーブルから取った。
あの日、帰還に失敗して日下部があちら側に取り残されたとき、俺の手に残った手袋。あの日からずっとテーブルの上にあった。
棺に入れた。日下部の手の上に。冷たい手の上に。日下部の手はいつも温かかった。二日前も温かかった。今は冷たかった。
テーブルの上を見た。
三つになっていた。
拓海の財布。森塚の手袋の切れ端。真鍋の靴。
日下部の手袋はもうない。
葬儀は三日後だった。
高梨が来た。制服。三人目の部下の葬儀だった。楠木、町田、日下部。高梨の顔に表情がなかった。もう表情を作る余裕がないのだと思った。それでも立っていた。直立。崩れない。三人分の重さを背負って、立っていた。
赤城が来た。日下部の髪を最後にもう一度整えていた。棺の中で。二日前に病室で整えたのと同じ手つきで。
岸本が花を持ってきた。白い花。二日前にベッドの横に置いたのと同じ花。今度は棺の横に置いた。
コールが来た。軍服。正装。ミラーも一緒だった。外国の軍人が日本の自衛官の葬儀に正装で来た。
コールが棺の前に立った。敬礼した。アメリカ式。右手を帽子の縁に当てて、三秒間止めた。
「She was a soldier.」
低い声だった。兵士。日下部は自衛官だった。でもコールは「兵士」と呼んだ。あの世界と戦い、体を蝕まれ、最後まで伝えようとした人間を。
ミラーが敬礼した。高梨が敬礼した。赤城が敬礼した。岸本が敬礼した。俺も敬礼した。
園田は敬礼しなかった。自衛官ではなかったから。代わりに深く頭を下げた。長い間。頭を上げたとき、メガネのレンズが曇っていた。買い物に行く約束を守れなかった人間の顔だった。
葬儀の後、コールが俺の横に来た。
「佐倉。あの人が最後に書いた言葉は何だった」
「まかいせかい。ひらがなで六文字です」
「意味は」
「わかりません。森塚先生が最初にあの世界を呼んだ名前です。魔界。日下部さんがそれを知っていたかどうかもわからない」
コールが腕を組んだ。
「知らなかったとしたら」
「知らなかったとしたら——日下部さんの脳が、あちら側から受け取ったということになります。あちら側の何かが、この六文字の形で日下部さんの中に入ってきた」
「あちら側がこの言葉を知っている、ということか」
答えられなかった。魔族が「まかいせかい」という日本語を知っているはずがない。でも日下部が知らないはずの言葉を書いた。どちらかが嘘だ。どちらも嘘ではないとしたら、俺たちが理解していない何かがこの六文字の中にある。
コールが俺を見た。
「この六文字を解くのは、お前の仕事だな」
「はい」
コールが頷いて、歩いていった。
施設に戻った。テーブルの前に座った。
三つの遺品。拓海の財布。森塚の手袋の切れ端。真鍋の靴。
日下部の手袋があった場所に、メモ帳を置いた。あの六文字が書かれたメモ帳。震える字。途切れた「い」。
遺品ではなかった。問いだった。日下部が命と引き換えに残した問い。なぜこの六文字なのか。なぜ森塚先生があの世界を呼んだ名前と同じなのか。偶然なのか。必然なのか。あちら側にとって「まかいせかい」が何を意味するのか。
「まかいせかい」
声に出して読んだ。園田が隣にいた。いつの間にか来ていた。
「園田さん。この六文字の意味を、いつか必ず解きます」
園田がメガネを外した。拭いた。時間をかけて拭いた。かけ直した。
「……ええ。解きましょう」
窓の外は暗かった。月が出ていた。二日前にベッドから見た月と同じ月。あの世界にも月はあるのだろうか。日下部はあの世界の月を見たことがあったのだろうか。
足首がじんじんしていた。あの世界が呼んでいる。
次に行くとき、俺はこの六文字を持っていく。日下部が残した問い。答えを探しに。
メモ帳に触れた。紙の感触。インクの跡。日下部の指が最後に動いた軌跡。
行ってくるよ。日下部さん。




