第59話「灯」
翌朝、園田から呼ばれた。研究室ではなく、日下部の病室だった。
何が起きたのかと思って廊下を走った。町田がいなくなった部屋の前を通って、日下部の病室の扉を開けた。
日下部が座っていた。
ベッドの上に、上半身を起こして、自分の力で座っていた。枕に寄りかかっているのではなく、背中をまっすぐにして。
園田が横にいた。メガネをかけていた。メガネをかけている園田は落ち着いている園田だった。
「佐倉さん。今朝から日下部さんの状態が変わりました」
日下部が俺を見た。目が違っていた。前回会ったとき、焦点が合っていなかった目が、今日ははっきり俺を見ていた。
日下部が口を開いた。
声が出た。
「さくら、さん」
かすれていた。ほとんど息だった。でも声だった。何週間ぶりの声だった。
「日下部さん——声が」
日下部が笑った。前よりずっと笑顔に力があった。頬が動いていた。唇だけの笑顔ではなかった。
「すこし、いい、みたい」
園田が小声で説明した。「首の痕の進行が一時的に止まっています。脳波も安定。炎症マーカーが下がっている。理由はわかりません。体が一時的に持ち直しています」
日下部が手を伸ばした。俺の手に触れた。温かかった。日下部の手はいつも温かかった。壊れていく間も。今日も。
「みんな、きて」
みんなが来た。
高梨が来た。杖なしで。日下部の顔を見て、高梨の目が一瞬だけ揺れた。すぐに戻した。「調子がいいようだな」と短く言った。
赤城が来た。中庭のベンチから。町田の死から初めてベンチを離れた。日下部のベッドの横に立って、日下部の髪に触れた。乱れていた髪を、指で整えた。何も言わなかった。
岸本が来た。花を持っていた。中庭に咲いていた小さな白い花。名前はわからない。ベッドの横のテーブルに置いた。「聞かれなかったので、勝手に持ってきました」。
園田がコーヒーを持ってきた。冷めたコーヒー。紙コップが五つ。全員分。日下部には飲ませられないが、俺たちの分。
病室に全員がいた。日下部のベッドを囲んで。小さな部屋に、高梨と赤城と岸本と園田と俺。
日下部がみんなの顔を見ていた。一人ずつ。ゆっくり。目で挨拶するように。
「ありがとう、ございます」
声がかすれていたが、全員に聞こえた。
高梨が口を開いた。
「礼を言うのはこっちだ。——日下部。お前はよくやった。あちら側で取り残されて、首に痣が出て、声が出なくなって、体が壊れていって。それでもずっとメモを書いて、伝えようとしていた。お前は——」
高梨の声が詰まった。この人の声が詰まるのを聞いたのは初めてだった。
「——お前は、俺の自慢の部下だ」
日下部の目に涙が溜まった。流れなかった。溜まったまま、笑っていた。
赤城が日下部の手を握った。
岸本が窓のカーテンを開けた。午後の光が病室に入ってきた。何週間も暗い部屋にいた日下部の顔に、柔らかい光が当たった。
「ひかり」と日下部が言った。息で。
「ひかり、きれい」
日下部がメモ帳を取った。ペンを持った。今日は震えが少なかった。
書いた。
「みんな、だいすき」
高梨が目を伏せた。赤城が日下部の手を握る力を強くした。岸本が窓の方を向いた。園田がメガネを外した。
俺は日下部のメモを見て、やっと言葉が出た。
「俺たちもです。日下部さん」
しばらく誰も動かなかった。午後の光が病室を満たしていた。岸本が持ってきた白い花がテーブルの上で光を受けていた。
日下部が窓の外を見ていた。中庭の芝生。空。光。
「ねえ」
日下部が声を出した。さっきより少し強かった。
「わたし、あたらしい、ふくが、きたい」
新しい服が着たい。
日下部はずっと病衣だった。白い病衣。何週間も。その前は防護服。その前は迷彩服。日下部が最後に自分で選んだ服を着たのはいつだったのか。誰も覚えていなかった。日下部自身も覚えていないかもしれなかった。
「おしゃれ、したい。かみも、のびちゃった」
日下部が自分の髪に触れた。短髪だったはずの髪が肩にかかるくらいまで伸びていた。何ヶ月も切っていない。病室に鏡はなかった。でも触ればわかる。髪が伸びたこと。爪が伸びたこと。
「なおったら、かいものいきたい。ふつうの、おみせで。ふつうの、ふくを」
治ったら。
その言葉が部屋の空気を変えた。
全員がわかっていた。園田が言った「一時的」の意味を。高梨がわかっていた。赤城がわかっていた。岸本がわかっていた。俺もわかっていた。治らない。日下部もわかっているのかもしれない。わかっていて、それでも声が出る今日だけ、言いたかったのだろう。この光の中で。
「ぼうし、かわいいの、ほしい」
日下部がそう言って、少し黙った。目が遠くなった。どこか別の場所を見ていた。
「くすのきさんに、みせたかったな」
楠木。蟲の魔物に刺されて死んだ、猫みたいなばねのある体の人。怖がれる人間は生きて帰れると言った人。日下部と長い付き合いだった。コンビだった。一緒に笑って、一緒に訓練して、一緒にあの世界に行った。
楠木に、かわいい帽子を見せたかった。
部屋が静かだった。光の中で、誰も動かなかった。
日下部がまた口を開いた。声が小さくなっていた。力が少しずつ抜けていくように。でもまだ出ていた。まだ。
「だれかと、てをつないで、あるきたかった」
手をつないで歩く。それだけのことだった。普通の道を、普通の速度で、誰かと手をつないで歩く。デートかもしれない。友達とかもしれない。どちらでもよかった。日下部が欲しかったのは、手をつないで歩くという、ただそれだけのことだった。
俺は手を繋ぐことの意味を知っていた。転移のたびに誰かの手を握った。帰還のたびに誰かの手を握った。手を離せば、その人間はあちら側に残される。手を握ることが生と死を分ける世界にいた。日下部の手が滑って離れたあの瞬間から、日下部の全てが変わった。
日下部が言っている「手をつないで歩く」は、そういう意味ではなかった。生き死にとは関係のない手。ただ温かいだけの手。隣にいるだけの手。それが日下部が欲しかったものだった。
高梨が目を閉じた。赤城が日下部の手を両手で包んだ。
日下部の目から涙が一つ落ちた。さっきは溜まったまま流れなかった涙が、今度は落ちた。頬を伝って、枕に染みた。
「おかあさんに、あいたい」
五文字だった。ひらがなで。息で。
それだけだった。それ以上何も言わなかった。
部屋の中の全員が、それぞれの場所で、それぞれの姿勢で、止まった。高梨が天井を見上げた。赤城が日下部の髪をもう一度撫でた。岸本が白い花を見ていた。俺は日下部の顔を見ていた。涙の跡が光っていた。
園田が立ち上がった。
部屋の隅に行った。背中を向けた。
肩が震えていた。
メガネを外す動作が見えた。メガネを片手に持ったまま、もう片方の手で顔を覆った。声は出さなかった。園田は声を出して泣く人間ではなかった。でも肩が震えていた。日下部のデータをずっと数字で見てきた人間の肩が。曲線の傾きと炎症マーカーの数値で日下部の崩壊を追い続けた人間の肩が。
日下部が園田の背中を見ていた。
「そのだ、せんせい。なかないで」
園田の肩の震えが止まらなかった。
「わたし、いま、しあわせ。みんな、いるから」
園田が振り向いた。メガネをかけていなかった。目が赤かった。顔が濡れていた。
「日下部さん」
園田の声がかすれていた。日下部の声と同じくらいかすれていた。
「——新しい服、一緒に買いに行きましょう」
嘘だった。
園田にとって初めての嘘だった。この人は嘘をつかない人だった。データに対しても、悠に対しても、日下部に対しても。「わかりません」と言う人だった。「前例がない」と言う人だった。わからないことをわからないと言える人間が、今、わかっていることについて嘘をついた。
日下部が笑った。今日一番の笑顔だった。
「やくそく」
園田が頷いた。メガネのない目で。涙が顎から落ちた。
「約束します」
守れない約束だった。園田はそれを知っていた。日下部も知っていたのかもしれない。知っていて、二人とも約束した。嘘だとわかっている約束を、二人で交わした。それが優しさだった。それ以外に、今この場所でできる優しさがなかった。
夕方。全員が病室を出た後、園田が俺を呼び止めた。
廊下。二人。園田はメガネをかけ直していたが、目がまだ赤かった。
「佐倉さん。あの状態は——」
「一時的、ですよね」
園田が頷いた。
「末期の患者に見られる現象です。一時的に意識が清明になる。痛みが消える。声が出る。笑える。——でもそれは回復ではありません」
命の灯火。蝋燭が消える前の最後の明滅。
「どれくらい持ちますか」
「わかりません。数日かもしれない。数時間かもしれない」
「園田さん。今日の日下部さん——きれいでしたね」
園田がメガネを押し上げた。レンズの奥の目が、まだ赤かった。
「ええ。きれいでした。——約束、守れませんね」
「園田さん」
「はい」
「あれは嘘じゃないです。園田さんが行きたかったんでしょう。日下部さんと。買い物に」
園田が三秒黙った。
「……ええ。行きたかった。日下部さんが帽子を選んでいるところを、見たかった」
園田の声が静かだった。科学者ではない声だった。一人の人間の声だった。
廊下の蛍光灯がちかちかしていた。いつもの光。
日下部がまだ生きている。隣の部屋で。今日は笑った。声が出た。光がきれいだと言った。新しい服が着たいと言った。楠木に帽子を見せたかったと言った。
あの笑顔が最後にならないでほしいと思った。思っただけで、祈り方を知らなかった。




