第58話「痕」
町田が死んだ翌朝、風呂場で自分の足を見た。
足裏の痕はいつも通りだった。あの赤黒い網目模様。半年以上前からある。でもその周囲を見たとき、息が止まった。
足の甲の端から、くるぶしの下にかけて、皮膚の色が変わっていた。暗い。微かに。まだ模様にはなっていなかった。ただ色が沈んでいるだけ。日焼けのようにも見えたが、日焼けではないことは自分でわかっていた。昨日まで普通の色だった場所が、今朝は違う。
足首まで来ている。
日下部の首の痕は、最初は小さかった。首の左側だけだった。それが鎖骨を超えて胸まで広がり、体を壊した。町田の足裏の痕は逆に薄くなっていった。薄くなるのは回復ではなく、拒絶反応が体を内側から壊していた。町田は昨日死んだ。目を閉じていた。穏やかだった。
俺はどっちになるんだ。広がって壊れるのか。消えながら壊れるのか。
しばらく風呂場のタイルの上に裸足で立っていた。足裏のじんじんが足首まで上がっている。脈打つように。あの世界のリズムで。俺の体の中であの世界が広がっている。
靴下を履いた。靴を履いた。見えなくなった。見えなければないのと同じだと、自分に嘘をついた。
走りに出た。岸本が横にいた。赤城は来なかった。町田の死から赤城は中庭のベンチに座っている。毎朝。あの人なりの弔い方なのだと思って、俺は何も言わなかった。
七キロ。いつものコース。施設の周囲を二周半。岸本が俺のペースに合わせてくれていた。赤城がいた頃と同じように。
走りながら、足首が気になった。着地のたびにじんじんが響く。足裏だけだった振動が、足首を通って脛の方に伝わっていくような感覚があった。走り方が変わっている自覚があった。無意識に足首をかばっている。
五キロ地点で岸本が言った。
「佐倉さん。足、大丈夫ですか」
岸本は走っているときに喋らない人間だった。喋ったということは、見ていたということだった。足首をかばう動きが、この人の目には見えていた。
「大丈夫です」
嘘だった。今日二つ目の嘘。朝の風呂場で自分についた嘘が一つ目。岸本についた嘘が二つ目。
岸本は何も言わなかった。ただ隣を走り続けた。残りの二キロを、同じペースで。聞くだけ聞いて、嘘を受け取って、何も追及しない。この人はいつもそうだった。
走り終わって、シャワーを浴びて、園田の研究室に行った。自分から。
嘘をつき続けることに耐えられなくなったのではなかった。園田に言わなければ、このまま進めないと思ったからだった。園田はデータを見ている。俺の体のデータを。足裏の面積、皮膚の変質率、血液中の未知物質の濃度。でも足首のことは計測の範囲外だった。俺が言わない限り、園田には見えない。
「園田さん。見てほしいものがあります」
靴を脱いだ。靴下を脱いだ。
園田がしゃがみ込んだ。足裏を見て、それからその周囲を見た。くるぶしの下の、色が沈んでいる場所。指で触れた。冷たい指だった。科学者の指。でも丁寧だった。岸本が装備を確認するときと同じ種類の丁寧さ。
「いつからですか」
「はっきりとはわかりません。町田さんが亡くなる少し前から、足首がじんじんするようになって。今朝見たら色が変わっていました」
「約束を破りましたね」
「すみません」
「謝らなくていいです。言ってくれたから」
園田が計測を始めた。皮膚の温度。分光分析。サンプル採取。感情と手順を同時に動かせる人間だった。泣きながらでもデータを取る人間だった。今は泣いていなかったが。
「痛みはありますか」
「痛みはないです。じんじんします。脈打つみたいに」
「日下部さんの首の痕も脈打っていました。ただし日下部さんの場合は痛みがあった。あなたは痛みがない。共生と侵食の差がここにも出ています」
園田が立ち上がった。椅子に座って、モニターを開いた。悠のデータと日下部のデータを並べた。二つの曲線。日下部は崖。悠は坂道。同じ方向に向かっているが、速度が全く違う。
「止めますか」
園田がメガネを外した。テーブルに置いた。拭かなかった。
「……止めません。まだ先です。日下部さんの変容は三週間で崩壊に至った。あなたは半年以上かけてここまで来ている。速度が全く違います。——ただし膝まで来たら止めます。膝関節を超えたら歩行に影響する」
「わかりました」
「約束してください。今度は破らないで」
「約束します」
園田がメガネをかけ直した。
「佐倉さん。あなたの体はあの世界に近づいています。それは危険でもあり、同時に——あの世界を理解する唯一の道でもある。日下部さんは壊れた。でもあなたが壊れずにそこまで到達できるなら」
園田が言葉を切った。
「——見届けたい。科学者として」
「見届けさせます。壊れずに」
三つ目の嘘かもしれなかった。壊れないという保証は誰にもできない。でも園田の前では、嘘ではなく約束として言いたかった。
夕方、コールからメールが来た。日米共同作戦の再編草案。殲滅戦の後の新しい計画。小規模チーム、最大四名、サプレッサー付き武器のみ、四十八時間以内。振動を出さない。銃は最終手段。
草案の最後にコールの手書きの付記があった。
「佐倉。お前のペースでやれ。急がない。名前を増やすな」
コールもまた、名前のリストを持っている人間だった。九人のアメリカ兵。日下部。町田。コールのリストと俺のテーブルは、同じものを数えている。
夜。母に電話した。
「悠? 元気?」
母の声は落ち着いていた。前に電話したときより落ち着いていた。泣き終わった後の声だった。何日も泣いて、泣き終わった人間の声。
「元気だよ。母さんは」
「元気よ。テレビは見ないようにしてる。あなたの名前が出てるんでしょう。見たら心配するから」
見ないことで守る人。拓海のときと同じ。知っていても知らないふりをして、見ないことで自分と俺を守っている。
「母さん、ありがと——」
「ねえ悠」
母が俺の言葉を遮った。声のトーンが変わっていた。
「あなたの足、大丈夫なの」
心臓が止まるかと思った。
「テレビ見ないようにしてたんだけど、一回だけ見ちゃって。あなたの足に何か印がついてるって。あの世界と繋がってるって。——大丈夫なの」
足裏の痕がテレビで報道されている。俺の体の情報が世界に出回っている。誰が流したのか。DCSか。メディアの独自取材か。母がテレビで俺の足裏を見た。
「大丈夫だよ」
四つ目の嘘。自分に、岸本に、園田に(壊れないと言った)、母に。一日で四つ。
「本当に?」
「本当に」
母が黙った。長い沈黙。電話越しに母の呼吸が聞こえた。
「……嘘でもいいわ。あなたが大丈夫って言うなら、信じる。前と同じよ。あなたが嘘をつくなら、理由があるんでしょう」
母は知っている。俺が嘘をついていることを。知っていて信じるふりをしてくれている。拓海のときと同じ構造が、また始まっている。俺が嘘をつき、母がそれを受け入れる。守るための嘘を、守るために受け取る。
「母さん。生きてるよ」
「わかってる。——生きてて」
電話を切った。
ベッドに横になった。天井を見ていた。足首がじんじんしている。
今日一日で四つの嘘をついた。自分に、岸本に、園田に、母に。全部「大丈夫」という嘘。大丈夫じゃない。足首まで来ている。どこまで広がるかわからない。膝まで来たら園田が止める。膝まで来なくても、体の中で何が起きているかは誰にもわからない。町田は外から見えない場所で壊れた。俺も同じかもしれない。
寝返りを打った。窓の外に月が出ていた。
丸い月だった。施設の窓から見える、普通の月。東京の夜空は明るくて星は見えないが、月だけは見えた。白くて、静かで、何も知らない顔をして浮かんでいた。
ふと思った。あの世界にも月はあるのだろうか。
考えたことがなかった。あの世界に行くたびに、地面ばかり見ていた。足裏で感じ取ることに集中していた。空を見上げる余裕がなかった。灰色の空と紫の筋が脈打っている空を見上げたことはあるが、あれは昼間だった。あの世界の夜を、俺は見たことがない。転移はいつも短くて、夜まで滞在したことがなかった。
あの世界にも月は出るのだろう。同じ地球なのだから——いや、同じかどうかもわからない。でもあの赤黒い大地の上で、発光する木々の間から空を見上げたら、月が見えるのだろうか。その月はこちら側と同じ形をしているのだろうか。
行きたいと思った。あの世界に。
怖いからではなかった。義務でもなかった。ただ、あの世界の月が見たかった。
園田みたいだと思った。知りたい。それだけ。森塚先生から園田に、園田から俺に伝わった何か。知りたいという、一番単純な動機。
テーブルの上の四つの遺品が暗がりの中で見えた。拓海の財布。森塚の手袋の切れ端。真鍋の靴。日下部の手袋。
拓海の財布に手を伸ばした。暗がりの中で、薄い革の感触を指で辿った。
「拓海。俺、また嘘ついてるよ。母さんにも、園田さんにも、岸本さんにも。みんなに大丈夫って言って。——あんたに似てきたのかな。守るために嘘をつく人間に」
拓海は何も答えなかった。
足首がじんじんしていた。あの世界が呼んでいる。膝まではまだ遠い。まだ行ける。
日下部がまだ生きている。隣の部屋で。壊れながら。
明日も日下部は生きているだろうか。明後日は。
眠れなかった。




