第57話「消」
翌朝、園田が廊下で俺を待っていた。
メガネをかけていなかった。研究室に置いてきた顔だった。
「佐倉さん。町田さんが、今朝——」
園田の声が途切れた。途切れたまま、続かなかった。
「亡くなりました」
廊下の蛍光灯がちかちかしていた。いつもの光だった。
高梨が先に病室にいた。
杖なしで立っていた。ベッドの横に。直立。背筋が伸びている。軍人の立ち方だった。部下の前で崩れない立ち方。
ベッドの上に町田がいた。目を閉じていた。顔が穏やかだった。痛みの表情はなく、苦しんだ跡もなく、眠っているようにしか見えなかった。二十代の男の寝顔だった。角張った顔が、この数週間で痩せてさらに角張っていたが、死の表情は穏やかだった。
「今朝六時の巡回で看護師が確認しました」と園田が言った。「心停止。推定死亡時刻は午前四時から五時の間です。苦しんだ形跡はありません」
高梨が動かなかった。町田のベッドの横に立ったまま、町田の顔を見ていた。
町田は高梨のチームの隊員だった。高梨が選んで、高梨が鍛えて、高梨がS案件に連れてきた。楠木や日下部と同じように。高梨の部下だった。
「高梨さん」
声をかけた。高梨が振り向かなかった。町田の顔を見たまま、口を開いた。
「町田は真面目な男でした。言われたことは必ずやる。自分からは何も言わない。でも必要なことは全部やる。岸本に似ていた。——岸本より不器用でしたが」
高梨の声は平坦だった。感情を消しているのではなかった。感情がまだ追いついていないのだと思った。楠木が死んだときもそうだったのかもしれない。日下部が行方不明になったときも。高梨は部下を何人も失ってきた指揮官だった。失うたびに、感情が追いつくまで時間がかかるのだろう。その間、体だけが軍人の姿勢を保っている。
赤城が入ってきた。ドアを開ける音がしなかった。赤城はいつも音を立てない。
赤城はベッドの横に立って、町田の足元のシーツを少しだけめくった。足裏を見た。痕があった。あの赤黒い模様。ただし前に見たときより薄くなっていた。色が褪せて、輪郭がぼやけている。
赤城がシーツを戻した。丁寧に。足の形に沿わせるように。
「赤城さん。知ってたんですか。町田さんの状態を」
「園田さんから聞いていました。足裏の痕が薄くなっているから回復しているかもしれないと。——違いました」
赤城の声に怒りはなかった。自分を責める響きもなかった。ただ、事実を認めている声だった。赤城は事実をそのまま受け止める人間だった。受け止めた上で、次に何をすべきかを考える。教育隊の教官とはそういう人間なのかもしれなかった。
園田が説明した。
「拒絶反応です。町田さんの体はあちら側の力を受け入れなかった。佐倉さんのように共生にもならず、日下部さんのように侵食もされなかった。ただ拒絶した。体が異物を追い出そうとして、免疫系が暴走して、臓器を傷つけていた。足裏の痕が薄くなっていたのは回復ではなく、体があの世界の力を追い出す過程でした。追い出すことには成功したが、その過程で体の内側が壊れた」
「気づけなかったのか」と高梨が聞いた。初めて園田の方を見た。
「炎症マーカーの上昇は把握していました。ただ、この種の反応は前例がありません。どこまでが許容範囲でどこからが致命的なのか、判断する基準がなかった。——私の責任です」
「あなたの責任ではない」
高梨が言い切った。短く。
「町田をあちら側に送ったのは私の判断です。あの作戦を立案したのは私です。町田を選んだのも私です。——園田さんの責任ではありません」
高梨が町田の顔に目を戻した。
「町田。ご苦労だった」
声が小さかった。部下に向ける声だった。叱る声でも褒める声でもない。送る声だった。
病室を出ると、岸本が廊下にいた。
壁に背中を預けて立っていた。本を持っていなかった。岸本が本を持っていないのは珍しかった。
「岸本さん。町田さんが」
「聞きました」
岸本の声がいつもより低かった。
「町田さんと一緒に訓練したことがあります。ロープワーク。町田さんは結び方を覚えるのが遅かった。でも一度覚えたら忘れなかった。——あの世界で真鍋さんのテントを張ったのも、町田さんだったと思います」
岸本が町田のことを語ったのは初めてだった。岸本は聞かれないと言わない人間だった。でも今、聞かれていないのに言った。
「あちら側で十二日間、真鍋さんと二人で生き延びた人間です。町田さんは強い人でした」
岸本がそう言って、黙った。それ以上は何も言わなかった。
俺は何も返せなかった。岸本の横に並んで、廊下の壁に背中を預けた。二人で蛍光灯の光の下に立っていた。
町田は真鍋が守った人間だった。真鍋が命をかけて、発煙筒を焚いて、群れの魔物と戦って、血痕と靴だけを残して死んだ。町田を生かすために。町田が情報を持ち帰るために。
町田は持ち帰った。真鍋の遺言を。「悠を自衛隊に入れろ」。あの言葉が町田の口から俺に届いて、俺は制服を着て、訓練を受けて、今ここにいる。全部、町田が生きて持ち帰ったものから始まった。
町田は届けるために生き延びたのだと思った。情報を届けて、遺言を届けて、役目を終えて、静かに止まった。ドラマチックなことは何もなかった。最期の言葉もなかった。メモも残さなかった。ある朝、目を閉じていた。それだけだった。
それが一番残酷だった。
午後。高梨が電話をしていた。町田の家族への連絡。防衛省の人事部門との調整。死亡届の処理。自衛官が死んだとき、やらなければならないことが山ほどある。高梨はそれを一つずつ片付けていた。感情が追いつく前に、手続きが来る。軍人の死はそうやって処理される。
赤城が施設の中庭に出ていた。一人で。走っていなかった。ベンチに座って、空を見上げていた。赤城がベンチに座っているのを見たのは初めてだった。この人はいつも動いている人間だった。走っているか、指導しているか、装備を確認しているか。止まっている赤城を見て、俺は何も声をかけられなかった。
テーブルの前を通った。
四つの遺品。拓海の財布。森塚の手袋の切れ端。真鍋の靴。日下部の手袋。
町田のものはなかった。
町田は何も残さなかった。あちら側に持っていったものは全てあちら側に置いてきた。帰ってきたとき、町田の手には何もなかった。声だけ持って帰ってきた。真鍋の声を。
テーブルの上に町田のものを置くことはできなかった。置くものがなかった。
でも町田は死んだ。五人目だった。
遺品はなくても、数は増えた。
窓の外を見た。普通の空。普通の午後。施設の中庭に日が差していた。赤城がベンチに座っていた。さっきと同じ姿勢で。空を見上げたまま。
日下部はまだ生きている。隣の部屋で。壊れながら。
園田が廊下を通りかかった。足が止まった。俺がテーブルの前に立っているのを見た。
「佐倉さん。あなたに確認しておきたいことがあります」
「何ですか」
「あの世界の力に触れた人間は四人います。あなたは共生。日下部さんは侵食。町田さんは拒絶で亡くなった。高梨さんも拒絶ですが、曝露時間が短かったから体が持った。——四人が四人とも違う方向に進んでいます。なぜあなただけが共生なのか、私にはわかりません」
「俺にもわかりません」
「わからないまま、あなたはあの世界に行き続けている。変容は進行しています。——町田さんの拒絶反応は、外からは見えなかった。あなたの共生が、いつ侵食に変わるのかも、外からは見えないかもしれない」
「園田さん。俺を止めますか」
園田がメガネを——持っていなかった。研究室に置いてきたまま。メガネのない目が俺を見ていた。
「……まだ止めません。でも約束してください。体に異変を感じたら、足裏以外の場所に何かが出たら、すぐに言ってください」
「約束します」
園田が頷いて、研究室に戻っていった。
俺は自分の左手を見た。普通の手だった。普通の皮膚。普通の色。町田の足裏の痕は薄くなって消えかけていた。回復に見えた。違った。
俺の足裏の痕は消えていない。濃くなっている。共生が進んでいる。それは良いことなのか。それとも、見えない場所で何かが壊れ始めているのか。
まだわからなかった。
まだ。




