第55話「恩」
総理面会の翌日、椎名を通じて日本政府がアメリカに正式な通達を出した。「佐倉悠三等陸尉は日本国自衛隊の管轄下にあり、身柄の引き渡しには応じない。S案件に関する情報共有は日米合意の枠内で継続するが、佐倉三等陸尉へのアクセスは日本側の許可を要する」。
外交文書としては丁寧だったが、中身は明確だった。悠は渡さない。来るなら日本のルールで来い。
これがワシントンを刺激した。
三日間は何も起きなかった。
園田の研究室で日下部のデータを見たり、岸本とロープの結び方を復習したり、赤城と走ったり。日常に近い時間が流れた。ただし施設の外には出られなくなっていた。悠の顔写真がネットに出回っていて、近所のコンビニに行くだけでカメラを向けられる可能性があった。
テレビは見なかった。自分の名前が流れているチャンネルを見る気にはなれなかった。園田が「見ない方がいいですよ」と言った。「ネットのコメントは特に」。園田の声に、見た人間の経験が滲んでいた。園田も検索したのだろう。俺の名前を。
四日目の夜に、電話が来た。
コールからだった。
「佐倉」
声が違った。いつものコールではなかった。あの鋭い目を持った男の声ではなく、何かを飲み込んで、飲み込んだものが喉に引っかかったままの声だった。感情を消そうとして、消しきれていなかった。椎名が最悪の事態のときに感情を消すのと同じやり方だったが、コールの方が下手だった。軍人は感情を隠す訓練を受けるが、椎名ほどの精度にはならない。
「コール大佐。どうしましたか」
「明日、俺は解任される可能性がある」
部屋の空気が変わった。岸本がベッドの上で本を読んでいたが、俺の表情を見て本を閉じた。
「解任。誰が」
「国防総省の監察部門。DCSが報告書を上げた。十二名の死亡は現場指揮権の不適切な委譲が原因であり、コール大佐の判断ミスであると。——現場指揮権を日本人に渡したことが、十二名を殺したと書かれている」
現場指揮権を日本人に渡した。俺に渡した。あの交渉で、コールが俺の条件を受け入れた。それが「判断ミス」と書かれている。
「それは——」
「事実と異なる。指揮権を渡したことと殲滅戦は無関係だ。殲滅戦の原因は火器の振動による生態系の連鎖反応であり、指揮権の所在とは関係がない。AIの分析もそう結論している。——だがDCSは因果関係ではなく、責任の所在を求めている。誰かの首が必要なんだ。俺の首が」
コールの声に苦味が滲んでいた。長い軍歴の中で、おそらく何度も見てきた光景なのだろう。現場で人が死んだとき、本当の原因ではなく政治的に都合のいい原因が採用される。コールはそれを知っていて、それでも今回は自分の番だということに怒りを感じている。
「コール大佐。あなたが解任されたら、プロジェクトはどうなるんですか」
「DCSが引き継ぐ。指揮権がDCSに移る。——そうなったら、あなたの身柄は間違いなく確保対象になる。日本政府の通達があっても、DCSは別のルートで動く。今朝のヘリと同じことが、もっと大きな規模で起きる」
コールが解任されたら、俺を守る壁がアメリカ側から消える。椎名と総理がこちら側で守っていても、アメリカの内部にコールがいなければ、DCSを内側から止める人間がいなくなる。
「わかりました。——少し時間をください」
電話を切った。
岸本が俺を見ていた。
「岸本さん。椎名さんに電話します」
岸本が頷いた。何も聞かなかった。この人はいつもそうだった。必要なことだけを見て、余計なことを聞かない。
椎名は三コールで出た。夜の十一時だったが、声に眠気がなかった。この人は寝ていないのかもしれない。
「コール大佐が解任されそうです」
椎名に経緯を話した。DCSの報告書。十二名の死亡の責任をコールに押しつける動き。解任後はDCSがプロジェクトを引き継ぎ、悠の確保に動く可能性。
椎名が黙って聞いていた。聞き終わったとき、一つだけ聞いた。
「佐倉さん。あなたはコール大佐を守りたいんですか」
守りたい。それは感情だった。コールは俺を守った。確保派のヘリを止めた。自分の立場を悪くしてまで。あの交渉の後、カブールで死んだ部下の話をしてくれた。九人の名前を一人ずつ読み上げた。ミラーを送り出すとき「名前を増やしたくない」と言った。この人間を失うわけにはいかない。
でも感情だけではなかった。
「守りたい。——でもそれだけじゃない。コール大佐がいなくなったら、アメリカとの共同作戦は成り立ちません。DCSはあの世界を理解しようとしていない。データを取って、AIに食わせて、管理したいだけです。コール大佐だけが、あの世界を理解しようとしている」
椎名が五秒黙った。長い五秒だった。
「守る方法はあります。ただし——」
「ただし」
「総理の判断が必要です。日本政府がアメリカの軍人事に介入することになる。外交的に非常に繊細な行為です」
「総理に伝えてください。コール大佐が解任されたら、俺はアメリカとの共同作戦を拒否します」
椎名が息を吸った。微かに。でも聞こえた。
「佐倉さん。それは事実上、日本がアメリカを脅迫することになります」
「脅迫じゃないです。事実です。コール大佐以外のアメリカの人間を、俺は信用していません。DCSの管理下で転移する気はない。あの世界に行くのは俺の体です。俺が行かなければ、誰も行けない」
電話の向こうで椎名が何かを考えていた。長い沈黙の中に、椎名の頭の中で外交の手順が組み立てられていく音が聞こえるような気がした。
「……わかりました。総理に上げます。明朝までに判断が降ります」
「お願いします」
「佐倉さん」
「はい」
「あなたは変わりましたね」
また言われた。
「変わったんじゃなくて、必要なことをやってるだけです」
「そうですね。——おやすみなさい」
椎名がおやすみなさいと言ったのは初めてだった。
翌朝、椎名から連絡が来た。
「総理の判断が降りました。日本政府として、アメリカ政府にコール大佐の継続を強く要請します。外交ルートで本日中に伝達されます」
「理由は」
「日米共同作戦の継続には、現場の信頼関係が不可欠であり、コール大佐の交代は作戦遂行に重大な支障をきたす。——という建前です。本音は、佐倉さんが動かないならアメリカも動けない。それを丁寧に包んで渡しました」
椎名の仕事だった。本音を建前で包む。刃を絹で巻く。
その日の夕方、コールから電話が来た。
「佐倉。解任は撤回された」
コールの声が戻っていた。昨夜の喉に何かが引っかかった声ではなかった。いつもの鋭い声。ただし、その鋭さの下に、何かが一つ増えていた。
「日本政府から要請が来た。俺の継続を求める要請が。——お前がやったのか」
「椎名さんと総理です。俺は——」
「お前だ。椎名は動かない。総理も動かない。お前が言わなければ、誰も動かなかった」
そうかもしれなかった。椎名は自分からはコールを守る理由がない。総理もコールの名前すら知らなかっただろう。俺が言ったから動いた。門を開ける人間が「コールがいなければ行かない」と言ったから、国が動いた。
俺の体が、外交カードになっている。
「コール大佐。借りを返しただけです」
「借りを返すな。お前に借りを作りたくない」
コールの声に、怒りに似た何かがあった。でも怒りではなかった。もっと複雑で、もっと人間的な何かだった。借りを返されることへの反発ではなく、借りを返す必要がないほどの関係を求めている声だった。
「もう遅いですよ、コール大佐」
コールが黙った。三秒。
「……ああ。もう遅いな」
電話が切れた。
岸本がベッドの上から俺を見ていた。
「うまくいったんですか」
「うまくいきました」
岸本が小さく頷いた。そしてまた本を開いた。
窓の外は暗かった。東京の夜。星は見えない。
コールが残った。アメリカの内側に、俺を理解しようとする人間がまだいる。ミラーも、リーも、パクも。九人を失ったが、残った三人と一人の大佐が、あちら側にいる。
足裏がじんじんしていた。
あの世界のことは何も進んでいなかった。魔族との接触はあの検査から止まっている。日下部の体は壊れ続けている。
でも今日は、こちら側で一つ守った。
テーブルの上の遺品を見た。四つ。まだ四つ。増えていない。
増やさない。




