第54話「守」
官邸の地下に降りていくエレベーターの中で、椎名が俺の制服の襟を直した。何も言わずに、指先だけで布の折り目を整えて、一歩下がった。母親みたいだった。この人にそう言ったら怒られるだろうが、手つきが母さんに似ていた。
廊下が長かった。白い壁と蛍光灯が続いていて、あの施設の廊下と似ていた。蛍光灯というのはどこで点いても同じ色の光を出す。官邸だろうが自衛隊の施設だろうが、蛍光灯の下にいる人間の顔は同じように白く見える。
ドアの前で椎名が止まった。
「佐倉さん。一つだけ」
「はい」
「総理は長く話しません。短い言葉で判断します。あなたも短く話してください。——ただし、嘘はつかないでください。この人は嘘がわかります」
ドアが開いた。
想像していたよりずっと小さな部屋だった。窓がない。テーブルが一つと椅子が三つ。それだけ。お茶が二つ置いてあって、湯気が静かに立ち上っていた。
総理が座っていた。
テレビで見たことがある顔だったが、テレビの印象とは別人のようだった。もっと小さかった。背が高くなく、肩幅も広くなく、スーツが少し大きく見えた。テレビカメラの前に立つとき、この人はもっと大きく見えるのだろう。でもこの小さな部屋では、普通の六十代の男だった。
目だけが違った。穏やかだったが、奥に長い時間が沈んでいた。人の話を何千時間と聞いてきた目。判断を何百回と下してきた目。その判断のたびに誰かの人生が変わることを、この目は知っていた。
「佐倉さんですか」
声がテレビで聞くよりずっと静かだった。演壇の声ではなく、この小さな部屋に合わせた声だった。
「はい。佐倉悠です」
「座ってください」
座った。椎名が隣に座った。テーブルの上のお茶から湯気が立っている。総理の前のお茶にも、俺の前のお茶にも、まだ誰も手をつけていなかった。
「報告をお聞きします。あなたの言葉で」
俺の言葉で。椎名がそう言っていた。階級も肩書きも関係ない。あの世界を知っているのは俺だけだと。
話し始めた。
最初の夜のことから話した。半年前、深夜に足裏が脈打って、数十秒だけあの世界に飛ばされたこと。甘い空気、脈打つ木、蟲、赤い光。何が起きたのかわからなかったこと。二回目に泥に沈んだこと。靴が溶けたこと。足裏に消えない痕が残ったこと。
兄のことを話した。拓海に打ち明けて、一緒に行って、拓海が地面に飲まれたこと。俺を守るために自分から手を離したこと。拓海の手が俺の手から滑り落ちていく感触が、半年経った今でも右手に残っていること。
森塚先生のことを話した。空の魔物に持ち去られたこと。死の直前までメモを取っていたこと。
楠木三曹のことを話した。蟲の魔物に刺されたこと。「怖がれる人間は生きて帰れる」と言ったこと。そして自分から手を離して俺を守ったこと。
日下部三曹のことを話した。帰還するとき手が滑って取り残されたこと。首に痕が現れて、声が出なくなって、体が壊れていっていること。今も施設の医務室で、ひらがなのメモでしか意思を伝えられないこと。
真鍋のことを話した。ベースキャンプ作戦のこと。十二日間あちら側にいて、発煙筒が三本になって、学習する魔物の群れに囲まれて、「おもしろかね、この世界」と笑っていたこと。俺を自衛隊に入れろと遺言を残したこと。血痕と靴が片方だけ残っていたこと。
訓練のことを話した。入隊して、走って、撃って、結んで、学んで、体が変わっていったこと。
魔族のことを話した。管理区域に入ったこと。暗い森の中で皮膚の色が変わる異形の存在を見たこと。対話しに行って検査されたこと。標本のように扱われたこと。分かり合える気配がなかったこと。
アメリカのことを話した。コール大佐のこと。一個小隊十二名の殲滅戦のこと。竜のこと。火が降ったこと。影の壁が全てを踏み潰したこと。九名が死んだこと。
話しながら、どこかの時点で手が震え始めていた。拓海の名前を言ったときか、真鍋の名前を言ったときか、それとも最初から震えていたのか、自分ではわからなかった。
全部話した。何も隠さなかった。嘘はつかなかった。椎名が「嘘はつくな」と言った通りに。
総理は一度も口を挟まなかった。質問もしなかった。メモも取らなかった。ただ、あの長い時間が沈んだ目で、俺を見ていた。お茶には一度も手をつけなかった。
話が終わった。
沈黙が降りてきた。三十秒なのか一分なのか、時計を見なかったからわからない。総理が目を閉じていた。考えているのか、俺が話したことを自分の中で受け止めているのか、その両方なのか。
目が開いた。
「佐倉さん」
「はい」
「あなたはこの国の人間ですか」
変な質問だった。戸籍を見ればわかる。パスポートを見ればわかる。でもこの人はそういうことを聞いていないのだと、すぐにわかった。あの世界の地脈が足裏に共生している体。魔族に印をつけられた体。人間なのか。それとも、もう何か別のものになりかけているのか。この国の側に立つ人間なのか。
「はい」
他に言葉がなかった。俺は日本で生まれて、日本の学校に通って、日本の会社でエクセルを叩いて、日本の兄と手を繋いであの世界に行って、兄を失って、日本の自衛隊に入った。足裏にあの世界の何かが棲みついていても、俺が生まれ育った場所は変わらない。
総理が頷いた。小さく、一度だけ。
「なら、この国が守ります」
一拍の間があった。
「続けてください」
三つの文だった。疑問が一つと、肯定が二つ。
それだけで十分だった。この人がそう言えば、日本という国がそう動く。アメリカの確保派に対しても、国連に対しても、世界に対しても。この小柄な男の短い言葉が、これから先の全ての政治的判断の根拠になる。
椎名が隣で微かに息を吐いた。ほとんど聞こえないくらいの吐息だったが、俺には聞こえた。安堵の音だった。椎名が安堵する音を聞くのは初めてのことだった。
総理が立ち上がった。
「椎名さん。必要な措置を取ってください。アメリカに対しても、国際社会に対しても。佐倉さんは日本の自衛官であり、日本が責任を持つ人間です」
「承知しました」と椎名が立ち上がった。
総理が俺を見た。最後に。
「佐倉さん。あなたの兄上は立派な方だったんでしょう」
報告の中の全ての死に対して、総理は何も言わなかった。森塚先生にも、楠木にも、真鍋にも、九人の兵士にも。でも拓海にだけ、一言を向けた。弟を守るために手を離した兄に。
喉が詰まった。
「……はい」
「亡くなった方々のご冥福をお祈りします。——あなたは、生きてください」
総理が部屋を出ていった。小柄な背中が白い廊下に消えた。テーブルの上のお茶は二つとも冷めていた。湯気は消えていた。
官邸を出て地上に上がったとき、ポケットの中で携帯が震え続けていた。通知が止まらなかった。
画面を見た。
「佐倉悠」がトレンドの一位になっていた。
顔写真が出ていた。元の会社の社員証の写真だった。どこから流出したのかわからない。半年前の俺の顔がそこにあった。丸くて、柔らかくて、何も知らない顔。今の俺とは別人の顔だった。
記事が並んでいた。「異世界への門を開ける男、佐倉悠(23)」「防衛省特別職に異例の任官」「元会社員が世界を変える?」「兄・佐倉拓海も異世界で死亡か」
拓海の名前が出ていた。
母さんの家の前にメディアの車が来ているという投稿がSNSに上がっていた。椎名の部下が先に母を移動させていたから、家には誰もいないはずだった。でも近所の人間がカメラの前でインタビューを受けていた。「静かなお母さんでしたよ」「息子さんが二人いて」「お兄さんが急にいなくなったって聞きました」。
携帯をポケットに戻した。
椎名が横にいた。
「佐倉さん。これから先、あなたは普通の人間には戻れません」
「知ってます」
「後悔していますか」
空を見上げた。東京の空は灰色ではなかった。青かった。紫の筋は脈打っていなかった。普通の空だった。この空の下で、半年前まで俺はエクセルを叩いていた。満員電車に乗って、コンビニで弁当を買って、夜に拓海とビールを飲んでいた。あの日常はもう戻らない。あの日常が存在した世界と、今の世界は、同じ場所なのに全く違う場所になっていた。
「後悔してません。——ただ、母に電話していいですか」
椎名が頷いた。
携帯を取り出して母の番号を押した。呼び出し音が三回鳴って、出た。
「悠?」
母の声だった。少し震えていた。でも泣いてはいなかった。
「母さん。俺。——大丈夫。元気だよ」
「テレビで見たよ。あなたの名前が出てた。異世界って——悠、何をしてるの」
「……長くなる。全部話す。でも今は一つだけ」
「何」
「拓海のこと。母さんに嘘ついてた」
声が途切れた。出張だと言った。事故に遭ったと言った。半年間ずっとその嘘を守ってきた。母さんを守るためだと思っていた。でもそれは本当に母さんを守っていたのか、それとも自分が本当のことを言うのが怖かっただけなのか、もうわからなくなっていた。
「拓海は——死んだよ。あの世界で。俺を守って」
電話の向こうで、母が長い息を吸った。その息の音を聞いたとき、コールが九人の名前を聞いたときの息と同じだと思った。人を失った人間が吸う息には、同じ形がある。
「……知ってたよ」
「え」
「知ってた。拓海が出張なんかじゃないって。あの子の部屋に財布がなかったから。財布を持って出かけたきり帰ってこないなんて、出張じゃないでしょう」
財布。拓海の財布。今、俺のポケットの中にある。あの色褪せた革の財布。第一巻の最初から、ずっとテーブルの上にあった財布。官邸に行くとき、ポケットに入れて持ってきた財布。
母さんは最初からわかっていた。俺が嘘をついて、母さんがその嘘を受け入れた。俺が母さんを守るためについた嘘を、母さんは俺を守るために信じたふりをしていた。
「母さん——」
「悠。生きてて。それだけでいい。生きてて」
「生きてる。生きてるよ」
「なら、いい。——あとで全部聞かせて」
電話が切れた。
東京の街が目の前に広がっていた。人が歩いている。車が走っている。誰も俺を見ていなかった。まだ顔と名前が一致していないのか、それとも東京という街がもともとそういう場所なのか。
足裏がじんじんしていた。あの世界が呼んでいる。いつも通りに。
でも今日は、こちら側にも守るものができた。総理が「この国が守る」と言った。母が「生きてて」と言った。守られていて、守らなければいけないものがある。
椎名が隣を歩いていた。
「椎名さん」
「はい」
「母は——拓海が死んだこと、知ってました」
椎名が一瞬だけ足を止めた。すぐに歩き出したが、その一瞬の中に、この人の中にある何かが見えた気がした。
「……そうですか」
「財布がないから、って」
椎名は何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。二人で東京の街を歩いた。佐倉悠として。世界が知っている名前を持った人間として。ポケットの中に、母が気づいていた拓海の財布を入れて。




