第53話「露」
魔族の検査から三日後、全部が壊れた。
朝六時。園田の研究室でマーキングの分析データを見ていたとき、椎名から電話が来た。
「佐倉さん。テレビをつけてください。どのチャンネルでもいい」
声が平坦だった。平坦すぎた。この人が感情を完全に消すのは、最悪の事態のときだけだった。
研究室のモニターをつけた。園田が横にいた。
CNNだった。画面の下にテロップが流れていた。英語。読めた。椎名の教材で覚えた英語だった。
「JAPAN REPORTEDLY POSSESSES ACCESS TO PARALLEL DIMENSION — UNNAMED SOURCE CONFIRMS CONTACT WITH NON-HUMAN INTELLIGENCE」
日本が異次元へのアクセスを保有。匿名の情報源が非人間的知性体との接触を確認。
園田がメガネを外した。
「……佐倉さん」
「はい」
「始まりましたね」
一時間で状況が変わった。
CNN、BBC、アルジャジーラ、NHK。全部が同じ情報を流していた。断片的だったが、核心を突いていた。「日本政府がS案件として秘匿していた異世界へのアクセス」「門を開けられる人間が一人存在する」「その人間が異世界の知的存在と接触した」。
悠の名前はまだ出ていなかった。「二十代の日本人男性」とだけ。でも時間の問題だった。
椎名が施設に来た。走ってきたのだろう。髪が乱れていた。この人の髪が乱れているのを見たのは初めてだった。
「経緯を説明します」
会議室。高梨、赤城、園田、悠。椎名がモニターではなく、直接椅子に座っていた。
「DCSが独自に動きました。佐倉さんのマーキングのサンプルを——どのルートかは不明ですが——入手し、分析結果をワシントンに送りました。それが国防総省から議会の情報委員会に報告された。委員会は秘密会ですが、委員の一人が記者にリークした」
「コール大佐は」
「知りませんでした。コール大佐もDCSの動きを把握していなかった。今朝コール大佐と話しました。激怒していました。二度目です」
二度目。一度目は確保派のヘリ。二度目はこれ。コールの管理が及ばない場所で、コールの頭越しに動く人間がいる。
「悠の名前は」
椎名が俺を見た。
「まだ出ていません。ただし——」
椎名がタブレットを出した。画面にSNSの投稿が並んでいた。英語。日本語。中国語。アラビア語。
「ネット上で特定が始まっています。防衛省の人事異動記録から、異例の民間人の特別職任官を見つけた人間がいる。佐倉悠。二十三歳。元会社員。——今日中に出ます」
今日中。
「出たらどうなるんですか」
「あなたの顔写真がテレビに映ります。あなたの実家が特定されます。あなたの母親にメディアが押しかけます。あなたの元の会社の同僚がインタビューを受けます。あなたの人生の全てが、世界中の人間に見られます」
母さん。
拓海が死んだとき、嘘をついた。出張中だと。母さんは信じた。今も信じている。拓海は出張先で事故に遭ったと。
その嘘が、全部バレる。
「母を守れますか」
椎名が三秒黙った。
「守ります。既に手配しています。佐倉さんのお母様は今朝、椎名の部下が安全な場所に移動させました」
「母に何と説明したんですか」
「『息子さんが国の重要な仕事をしていて、しばらく避難が必要です』と。——嘘ではありません」
嘘ではない。でも全部でもない。母さんはまだ拓海が死んだことを知らない。
高梨が口を開いた。
「佐倉さん。状況を整理します。あなたの名前が出れば、アメリカだけでなく全ての国が動きます。門を開けられる人間は一人しかいない。全員があなたを欲しがる」
「俺を渡すんですか」
「渡しません。——ただし、日本政府として公式な立場を表明する必要がある。今のままではメディアが勝手に物語を作ります。日本が異世界を独占している。日本が宇宙人と密約を結んでいる。日本が軍事兵器を開発している。——全部嘘ですが、否定しなければ真実になる」
赤城が言った。
「先手を打つ必要があります」
椎名が頷いた。
「アメリカが国連に持ち込む前に、日本が自ら公表する。コントロールされた形で。——そのためには、総理の判断が必要です」
「総理」
「佐倉さん。あなたを総理に会わせます」
部屋が静かになった。
「……俺が、総理に」
「あなたがS案件の中心です。あなたの口から総理に報告する必要がある。椎名や高梨からの書面ではなく、あなた自身が総理の前に立って、何が起きているかを話す。——総理はそれを聞いて判断します。公表するか、しないか。アメリカとどう交渉するか。あなたをどう守るか」
半年前の俺なら、この状況で何を感じただろう。パニックか。逃げたいと思っただろうか。
今は違った。怖かった。でも逃げたいとは思わなかった。
「いつですか」
「明日。官邸の地下。私が同行します」
椎名が立ち上がりかけて、止まった。
「佐倉さん。一つだけ」
「はい」
「総理の前では、あなたはあなたのままでいてください。階級も肩書きも関係ない。あの世界を知っているのはあなただけです。あなたの言葉で話してください」
俺の言葉で。
椎名が出ていった。
園田が隣にいた。メガネをかけ直していた。
「佐倉さん。あなたの名前が世界に出たら、もう元には戻れません」
「わかっています」
「怖いですか」
「怖いです。——でもあの世界の方が怖い」
園田が微かに笑った。
「岸本さんと同じことを言いますね」
岸本の「あの世界の魔物の方が怖いです」。あのとき笑った。今も笑えた。少しだけ。
夜。ベッドの中。
携帯を見た。ニュースサイト。SNS。「日本の異世界アクセス」がトレンドの一位だった。
まだ俺の名前は出ていなかった。でもネットの特定班が防衛省の人事記録を掘っている。元会社員。二十三歳。特別職。異例の任官。——パズルのピースが揃いつつあった。
明日には出る。
明日、俺は総理に会う。そして俺の名前が世界に出る。
ポケットの中の拓海の財布に手を触れた。薄い革。色褪せた革。
拓海。俺の名前が出たら、あんたの名前も出るかもしれない。「門を開ける人間の兄。異世界で死亡」。あんたの死が、世界中のニュースになる。
母さんに嘘をついた。あの嘘が終わる。
テーブルの上の遺品を見た。三つ。拓海の財布。森塚の手袋の切れ端。真鍋の靴。日下部の手袋は——日下部はまだ生きている。隣の部屋で。壊れかけた体で。
明日、俺は総理に会う。
足裏がじんじんしていた。あの世界は何も変わっていない。変わったのはこちら側だけだった。




