第52話「検」
転移が来た。
ミラーの手を握った。大きくて硬い手。MP7のスリングが肩から下がっている。サプレッサー付き。使わないことを祈る、とコールが言った。
足元がぶよぶよした。
森だった。管理区域の近く。引力がある。強い。前より強い。
靴を脱いだ。裸足を地面につけた。方向を確認した。
「あっちです」
歩き始めた。ミラーが横を歩いた。ミラーの歩き方が変わっていた。足音を殺している。爪先から着地して、体重をゆっくり移す。特殊部隊の歩き方。
三百メートルで境界が来た。木の間隔が変わった。不規則から等間隔に。地面の色が変わった。蟲が消えた。
ミラーが止まった。
「何かが変わった」
軍人の勘だった。ミラーには足裏の感覚がない。でも体が感じている。空気が違う。匂いが違う。音が消えた。
「管理区域に入りました。ここから先は魔族の領域です」
ミラーが周囲を見回した。MP7のグリップに手がかかっていた。
「蟲がいない」
「ここには何もいません。魔族以外は。全ての魔物が追い出されてる」
さらに奥に進んだ。発光する木が現れた。幹の表面がかすかに光っている。地面が土から変わった。硬くて、滑らかで、微かに温かい。
そのとき、木の発光が変わった。
さっきまで淡く均一に光っていた幹が、突然明るくなった。俺たちの前方の木だけ。五本。十本。光が強くなって、暗い森の中に道ができたように見えた。
「佐倉。木が——」
「はい。向こうが来ます」
光の道の奥から、振動が来た。重い足音。二本足。一歩一歩が深い。人間よりずっと重い。
空気が変わった。瘴気の甘い匂いの中に、別の匂いが混じり始めた。鋭くて苦い。鼻の奥がひりひりした。目が痛くなった。涙が出た。
あいつらが近づくと、空気そのものが変わる。
地面の温度が上がった。裸足の足裏で感じた。さっきまで微温だった地面が、明確に温かくなった。歩いているだけで地面が反応している。
木の枝が動いた。風ではなかった。木が自分から枝を持ち上げて、何かが通れる高さに道を開けた。森が道を空けている。この森全体があいつらに従っている。
見えた。
光の道の奥から、影が近づいてきた。
大きかった。前回見たのと同じ異形。だが今回は近い。二十メートル先。十五メートル。十メートル。
体高が三メートル近かった。ミラーが百九十センチある。その頭ひとつ分以上、上にいた。見上げなければ全体が見えなかった。首が痛くなるほど見上げた。
体が太かった。肩幅が人間の倍以上。胴体が厚い。腕が二本あるが、人間の腕より長く、関節が一つ多かった。三本の指。指の一本一本が太く、先端が微かに光っていた。何かが滲み出ている。
頭の横から扁平な器官が張り出していた。きのこの傘のような形。器官の表面が微かに動いていた。脈打っている。あの器官で俺たちを嗅いでいる。
目がなかった。凹みが顔の前面に四つ並んでいた。凹みの奥が微かに赤く光っている。あれで俺たちを見ている。目ではない何かで。
皮膚の色が変わっていた。灰色から、緑がかった茶色に。ゆっくり。呼吸のように。
傷がなかった。
体の表面に傷が一つもなかった。あのマントの魔物の爪痕も、群れの魔物の刃の跡も、竜の炎の焦げも、何もない。この世界のあらゆる魔物を超えている存在の体。全てを管理し、全てを従え、何にも脅かされたことがない体。
二体目が来た。最初の一体の横に並んだ。三体目が木の後ろにいた。動かない。観察している。
最初の一体が歩いてきた。五メートル。三メートル。
匂いがさらに強くなった。鋭い。苦い。息を吸うだけで喉が焼けた。あいつが近づくだけで空気が変わる。あいつの体から出ている何かが、周囲を塗り替えていく。
ミラーの呼吸が変わった。速くなっていた。MP7のグリップを握る手が白くなっていた。
二メートル先で止まった。
俺は振動を送ろうとした。足裏に力を込めて、「敵ではない」を——
無視された。
反応がなかった。前回は応答があった。今回はなかった。俺が何か送ったことに気づいた上で、無視している。話しに来たのではない。
魔族が動いた。
俺の体の周囲を歩き始めた。ゆっくり。一周。二メートルの距離を保ったまま。頭の横の扁平な器官を俺の方に向けていた。器官の脈動が速くなった。
嗅いでいる。
俺の全部を読み取っている。汗。皮膚。息。体温。足裏の痕から出ている何か。人間一人の全てを、あの器官が吸い取るように読んでいる。
一周が終わった。魔族が止まった。
次にミラーの方に行った。
ミラーが動かなかった。百九十センチの特殊部隊員が、三メートルの異形に見下ろされて、石のように動かなかった。MP7を握る手が震えていた。
魔族がミラーの周囲を歩いた。同じように。一周。あの器官を向けて。ミラーの防護服の表面に、器官がほとんど触れるほど近づいた。
ミラーの目が動いた。魔族を追っている。目だけが動いて、体は動かなかった。
「佐倉」
ミラーの声がかすれていた。
「何をしている。こいつは」
「調べてます。俺たちを。匂いで全部読み取ってる」
「対話じゃないのか」
「対話じゃない。検査です」
魔族がミラーの周回を終えた。二体目の方に向き直った。
二体の間で振動が始まった。足踏みのリズム。交互に。速い。複雑。俺の足裏が拾ったが、意味が一つもわからなかった。密度が桁違いだった。三日分の会議を三十秒に叩き込んだような速さで、何かをやりとりしている。
俺たちについて報告している。嗅いだ結果を。
そして最初の一体が戻ってきた。
右手の三本指が俺の前に伸びてきた。指先が光っていた。粘い液が指の先端に滴っていた。
俺の左腕に触れた。
防護服の上からだった。指が防護服の表面に触れて、液が塗りつけられた。冷たかった。繊維に染み込んでいくのがわかった。
印をつけられた。
同じことをミラーにもした。MP7のスリングに。防護服の胸元に。ミラーの手袋に。ミラーは動かなかった。動けなかった。
終わると、魔族は向きを変えた。光の道の奥に歩き始めた。二体目が続いた。三体目が木の後ろから姿を消した。
木の枝が元に戻った。光が淡く戻った。匂いが薄れていった。
地面の温度が下がった。
あいつらがいなくなったから、環境が元に戻った。あいつらがいるだけで世界が変わり、いなくなれば戻る。この森は、あいつらの体の延長だった。
二分間くらいの出来事だった。
ミラーがMP7から手を離した。指が固まっていた。開くのに数秒かかった。
「佐倉」
「はい」
「あいつらは——俺たちを、何だと思っている」
答えられなかった。対話しに来た。話しに来た。でも向こうは話さなかった。調べて、報告して、印をつけて、帰った。
「わかりません」
足裏がずきんと痛んだ。帰還の兆候。
ミラーの手を握った。足元がぶよぶよした。
部屋の床。二人。
ミラーが床に座り込んだ。大きな体が小さく見えた。
園田が来た。ミラーの防護服に塗りつけられた液をサンプルとして採取した。MP7のスリングからも。悠の左腕からも。
園田が分析に三十分かけた。戻ってきたとき、メガネを持っていなかった。研究室に置いてきたのだろう。
「化学組成が日下部さんの首の痕と一致しました。ベースキャンプの建材に残っていた印とも一致。同じ物質です」
「意味は」
「分類です。日下部さんにも、ベースキャンプにも、今日のあなたたちにも、同じラベルが貼られた。魔族はあなたたちを——何かのカテゴリに分類しました」
「何のカテゴリですか」
「わかりません。ただ——」
園田がメガネのない目で俺を見た。
「これは対話の結果ではありません。検体にラベルを貼る行為です。あなたたちは話しに行った。向こうは調べに来た。動機がまるで噛み合っていない」
ミラーが立ち上がった。
「佐倉。はっきり言っていいか」
「はい」
「あいつらは俺たちを人間だと思っていない」
ミラーの声は落ち着いていた。震えは止まっていた。
「標本だと思っている。研究室に迷い込んだ虫を、ピンセットで摘んで、ルーペで見て、瓶に入れてラベルを貼る。——あれと同じことを、俺たちにしたんだ」
ミラーが正しかった。あの二分間で起きたことは、対話ではなかった。俺たちは話しに行って、向こうに調べられて、印を貼られて、帰された。
拒絶でも受容でもなかった。もっと恐ろしいことだった。
無関心だった。
怒りも、恐怖も、好奇心すらもなかった。ただ手順通りに処理しただけだった。この世界を途方もなく長い間統べてきた存在にとって、人間二人は手順の一つにすぎなかった。
「園田さん」
「はい」
「俺たちは、どうやってあいつらと話せばいいんですか」
園田が長い間黙った。
「わかりません。——でも、ラベルを貼られたということは、分類されたということです。分類されたなら、カテゴリの中に入った。少なくとも『存在しない』ではなくなった。前よりは一歩進んでいます」
一歩。対話からは程遠い。でも、無から分類へ。存在しないものから、印のついた検体へ。
それが一歩だと言うなら、次は何だ。
検体から、対話の相手になるには、何が必要だ。
答えはまだなかった。




