第63話「変」
足裏が熱い。
除染室のタイルを踏んだ瞬間にそう思った。防護服を脱ぐ。呼吸器を外す。シャワーを浴びる。園田さんが待っている検査室に行く。何十回と繰り返した帰還の流れ。なのに今回は、タイルが冷たくない。
正確に言えば、冷たいのは分かっている。足の甲は冷たいと感じている。足裏だけが、床の温度を拒んでいる。自分の中から出ている熱が、タイルの冷たさを押し返している。
シャワーの湯を出した。四十度に設定してある。いつもと同じ温度。のはずだった。湯が肩に当たる温度と、胸を流れる温度と、足裏に届く温度が全部違う。肩は四十度だった。胸を伝う頃には三十八度くらいになっている。足裏に届いた湯は、温かくない。俺の足裏のほうが熱い。
排水口に向かって湯が渦を描いていた。その振動が足裏に伝わってくる。排水管の中を水が落ちていく音。その先の配管が枝分かれしている感覚。意味のないパターン。ただの水の流れ。なのに脳が、そこに構造を読もうとする。
日下部さんもこうだったのか。意味のないものに意味を探して、脳が壊れたのか。
湯を止めた。タオルで体を拭きながら、自分の足裏を見た。痣は足首まで。それは変わっていない。色が違った。黒紫だった縁が、わずかに青みを帯びている。前はなかった色だ。暗い青。あの森の地面の色に似ている。
着替えて検査室に向かった。廊下の蛍光灯が白かった。白の中に微かな黄色が混じっているのが分かる。蛍光灯の劣化だろう。何年も使われた管は端から黄ばむ。前から黄ばんでいたはずだ。俺が気づかなかっただけだ。
そうだと思いたかった。
検査室のドアを開けた。園田さんが椅子に座っていた。白衣の襟元が少し曲がっている。眼鏡が鼻の上で微かにずれている。疲れている。それは見れば分かることで、前と変わらない。
変わったのは、園田さんの匂いだった。
消毒液の匂い。コーヒーの残り香。ここまではいつも通りだった。その下に、もう一つ。園田さん自身の匂い。汗ではない。体温が運んでくる、もっと深いところの匂い。説明できない。鋭くはなかった。むしろ穏やかな、少し古びた紙のような匂い。
「座ってください」
園田さんが言った。俺は椅子に座った。園田さんが手袋をはめて、俺の左足を取った。足裏を見ている。指先で痣の縁をなぞった。指が止まった。園田さんがモニターに目をやった。体温の数値を確認している。
「……熱を持っていますね」
「はい。帰ってきてからです。タイルが冷たくなかった」
「いつもの二度以上高い」
園田さんが足裏から手を離した。手袋の指先で痣の縁の辺りを示しながら、もう一度モニターを見た。
「あちらで、匂いを感じましたか。いつもと違う匂いを」
あいつらの縄張りに入ったとき。吊るされた学ぶやつらの肉。あの濁った目。血の匂いと腐敗の匂いの奥に、もう一つ別の匂いがあった。鋭くて甘い。人間の知っている甘さではなかった。果物でも花でもない。もっと根本的な、薬みたいな甘さ。あいつらの体から出ていた匂い。
「……はい。感じました」
園田さんがペンを置いた。
「佐倉さん。認知が拡張し始めています」
怖いと思うべきだったのかもしれない。蛍光灯の黄ばみ。排水の振動。園田さんの匂い。ああ、と思った。そういうことか。全部繋がった。納得が、恐怖より先に来てしまった。
「日下部さんと同じですか」
「違います」
園田さんの声はきっぱりしていた。
「日下部さんは侵食でした。あちら側から一方的に信号が流れ込んだ。佐倉さんは逆です。体があちら側と折り合いをつけている。共生です」
「折り合い」
「足裏の共生体が広がるにつれて、神経系がそれに適応しているんです。五感の閾値が下がっている。以前は意識に上がらなかった微弱な刺激を拾えるようになっている」
園田さんは眼鏡を外した。レンズを白衣の裾で拭いた。
「おそらくこの先、さらに下がります」
「どこまで」
園田さんは眼鏡をかけ直した。
「分かりません」
検査室の空調の音が耳についた。前はこんなに大きく聞こえなかった気がする。いや。もう確かめようがない。
「膝まで来たら止めましょう。それが約束です」
園田さんが言った。痣が膝まで来たら、転移をやめる。体を守る。人間でいる。園田さんと俺の間の約束。
俺は頷いた。
足裏の熱は、約束のことなど知らないみたいに、静かに燃えていた。
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検査を終えて施設の廊下を歩いた。午後の四時。窓の外に冬の日差し。低い光。影が長い。
赤城が向こうから歩いてきた。俺を見て立ち止まった。
「お帰りなさい」
「ただいま」
赤城の声を聞いたとき、声の中に混じった微かな震えが分かった。声帯の振動が通常よりわずかに不安定になっている。緊張しているのか、それとも。赤城の視線が一瞬、俺の足元に落ちた。すぐに顔に戻った。
町田が死んだのは拒絶反応だった。あちら側の何かに触れた体が、壊れた。赤城はそれを見ている。俺の足に広がっている痣も、同じ何かに触れた痕だ。赤城が俺の足を見るたびに何を思うか、考えたくなかった。
「大丈夫ですか」
赤城が聞いた。
「大丈夫」
嘘だった。
赤城が少し笑った。笑ったが目は笑っていなかった。それが分かる自分が嫌だった。前はそこまで見なかった。見えなかった。赤城は温かい人間で、いつも気にかけてくれる人で、それだけでよかった。
あの森で触れた、三本指の足の温度を思い出した。あいつらの体温は人間より十度は低い。冷たい足が俺の足裏に触れた。あの瞬間、「分類が変わった」と園田さんは言った。あいつらは俺を何だと思ったのか。
赤城が去っていった。俺はその背中を見ながら、赤城の体温のことを考えていた。三十六度。人間の温度。あいつらの温度とは違う。俺はどっちに近づいているんだ。
考えるのをやめた。廊下の先に、遺品テーブルの部屋がある。ドアは開いている。
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入った。テーブルの上に四つ。拓海の財布。森塚さんの手袋の切れ端。真鍋さんの靴。日下部さんのメモ帳。
靴を手に取った。真鍋さんの登山靴。何度も触った革の表面。
繊維が指先に伝わってきた。
革の繊維の一本一本の方向。縫い目の糸のねじれ。指の腹に浮き彫りのように感じられる。こんな解像度で触ったことはなかった。いつからこうなっていたんだ。シャワーのときからか。もっと前からか。あちら側であいつに足を触られたときからか。
靴を戻して、メモ帳を開いた。日下部さんの字。最後のページ。ひらがなの五文字。
まかいせかい
指先でなぞった。鉛筆の筆圧が紙に残した窪みが、指の腹に伝わってくる。日下部さんがこの字を書いたときの力が分かる。弱い。最後の一画だけ、少し深い。最後の力を振り絞った一画。
共生と侵食の境界線はどこにあるんだ。日下部さんも最初は、ただ聞こえるようになっただけだったはずだ。あちら側の信号が脳に入ってきて、最初は断片で、それがだんだん量が増えて、壊れた。
園田さんは方向が違うと言った。日下部さんは外から内。俺は内側が適応している。でもその「適応」が、いつ俺を俺じゃなくするのか。園田さんにも分からない。
メモ帳を閉じた。テーブルに戻した。
四つの遺品。拓海。森塚さん。真鍋さん。日下部さん。楠木さんと町田さんの遺品はない。アメリカ兵九人の遺品もない。死んだ人間の数は数えている。全員の名前を覚えている。
俺がこの先も行くのは、この人たちが死んだからだ。
足裏が熱い。あの世界が呼んでいる。呼んでいるのか。俺の体の中にいる何かが、帰りたがっているのか。
岸本が廊下ですれ違った。手に白い小さな花を持っていた。花瓶に活けるのだろう。
「足、大丈夫ですか」
いつもの問い。
「大丈夫」
また嘘をついた。岸本が去った後、花の匂いが廊下に残っていた。花の匂いの中に、岸本の手の温度が混じっている。茎を握っていた指の跡が、匂いの層に残っている。
やめろ。全部を分解するな。花は花だ。きれいだ。それ以上の情報を拾うな。
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夜。自室のベッドに横になった。目を閉じた。
暗闇の中で、足裏だけが世界と繋がっていた。マットレスの繊維が足裏に触れている。その繊維の一本一本が識別できる。マットレスの下のベッドフレーム。フレームを支える床。床の下のコンクリート。コンクリートを通じて伝わってくる、建物全体の微かな振動。
空調。配管。誰かの足音。三階の端。足音の重さからして高梨さんだ。
分かってしまう。
あの世界では、こういう感覚が当たり前だった。足裏で地面に触れると、地面の下の構造が伝わってきた。どこに水があって、どこに根が走っていて、どこに何かがいるのか。あの感覚が、こちら側に漏れてきている。
三本指のことを考えていた。
あいつらの足は三本指だった。日下部さんの首に残った痕も三本の筋だった。俺の足裏に最初にできた痣も、三本の線から始まった。繋がっているのか。全部が。あいつらが俺の足に触れたとき、俺の中に何を感じ取ったのか。
答えは出ない。出ないまま、足裏の熱だけが確かだった。ベッドのシーツの繊維を通して、マットレスの下の床の振動が伝わってくる。意味のない振動。脳が構造を読もうとする。
明日の転移のことを考えた。コールさんのチームが外縁に展開する。俺は中に入る。あいつらの縄張りに。二度目だ。一度目は、あいつらが俺を調べた。二度目は何が起きるのか。
目を閉じたまま、瞼の裏にあの濁った目が浮かんだ。吊るされた学ぶやつらの肉の、死んだ目。見ていなかった。死んでいたのだから。なのに俺は見られていると感じた。
あの匂い。鋭くて甘い。あいつらの体から出ていた匂い。シャワーを浴びたのに、まだ鼻の奥に残っている。
残っている。
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ジョナサン・コールは画面を閉じなかった。
佐倉のレポートは二ページだった。翻訳された英語で、簡潔に書かれている。接触の経緯。管理区域への侵入。吊るされた肉。三本指の足が佐倉の足に触れたこと。佐倉はそれを一文で書いていた。
*It touched my foot. The classification changed.*
コールはその一文を三度読んだ。
半年前、厚木の格納庫で初めて会ったとき、佐倉は「I’m the commander」と言った。下手な発音だった。声が震えていた。二十三歳の日本人の民間人が、アメリカの特殊作戦チームの前で、俺が指揮官だと言った。
あの佐倉が「The classification changed」と書いている。英語力の問題ではない。人間ではないものの思考体系の中に自分を位置づけられるようになっている。分類という概念を、あちら側の論理として使えるようになっている。
コールは画面を最小化して、別のウィンドウを開いた。新ドクトリン。殲滅戦の後、三ヶ月かけて作った作戦計画。十二人の死で思い知らされた後に作った計画。
小規模。低振動。四十八時間以内。
チームは四名以下。サプレッサー付きの武装。ソフトソール。通信は最小限。重火器なし。バリケードなし。テントなし。人間の痕跡を最小にする。あの世界に入って、見て、記録して、出る。四十八時間で。それ以上留まれば、地面が覚える。地面が覚えれば、来る。
コールはミラーのファイルを開いた。
エリン・ミラー。一等軍曹。殲滅戦の唯一の生存者。佐倉が連れて帰った。バリケードの残骸の下に潜り、防護服の呼吸器だけで十四時間を生き延びた。周りで仲間が死んでいく音を聞きながら。
ミラーが佐倉に「Yes, sir」と言った日を、コールは覚えている。殲滅戦の後、初めて佐倉と顔を合わせたとき。ミラーは佐倉を見て、何も言わずに敬礼した。コールには絶対にしない種類の敬礼だった。あの世界を生き延びた人間だけが通じ合うものがある。コールはそれを理解した。理解したが、羨ましくはなかった。あの種類の絆は、死の近くでしか生まれない。
新ドクトリンの第一次作戦。ミラーがチームリーダー。編成は三名。ミラーと、新たに選抜した二名。全員にあの世界のブリーフィングを済ませてある。殲滅戦の記録映像も見せた。あの映像を見た後で志願した人間だけを選んだ。
目的は偵察。管理区域の外縁の地図を作る。佐倉が接触を深めている間に、あの世界の地理を把握する。佐倉が入れない場所のデータを取る。
佐倉を通さなければ、誰もあの世界に入れない。
コールの軍事的合理性も、ペンタゴンの戦略も、CIAの分析も、すべてが一人の日本人の体を通過しなければ意味を持たない。佐倉が行くと言えば行ける。佐倉が止めると言えば止まる。地球上で最も重要な軍事資産が、一人の人間の判断に依存している。
コールはそれを受け入れていた。十二人が死んだ日に受け入れた。
レポートの画面に戻った。もう一つ、引っかかる箇所があった。佐倉のレポートの最後の段落。接触後の自覚症状の報告。
*Heightened sensory input since return. Temperature differential perception through feet. Olfactory acuity increase. Requested Dr. Sonoda’s assessment.*
佐倉は自分の体の異変を、自発的にレポートに書いている。隠していない。隠せることを、隠さなかった。
コールはミラーのチーム編成表を開いた。ミラーの名前の横に、自分が書いた注記がある。
*Contingent on Sakura’s physical clearance.*
佐倉の体調次第で中止。コールが最初に書いた条件だった。ミラーにもそう伝えてある。殲滅戦の教訓は戦術だけではない。あの世界では、すべてが一人の人間の体に依存している。その体が壊れたら、すべてが終わる。
コールは画面を閉じた。
佐倉は変わっていく。レポートの文体が変わった。概念の精度が上がった。同時に体も変わっている。医療チームのレポートを読んでいる。人間の基準値から外れ始めている数値がある。
確保派がこのデータを見れば、また動く。佐倉を確保して研究対象にしろと言い出す。コールはそれを抑えなければならない。
佐倉を止めたら、全てが止まる。
やれることをやる。考えても答えの出ないことは考えない。軍人はそうするものだ。
コールは椅子から立ち上がり、明日のブリーフィング資料を印刷した。




