第50話「殲」
——悠が消えた後の、ベースキャンプ。
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四日目の夜。午後九時。
ミラーは眠れなかった。佐倉の顔が頭に残っていた。あの目。鼻血を垂らしながら、撃つなと言った目。四人失った人間の目。嘘をつかない目。
空が黒くなった。地面の筋が脈打つように光り始めた。六日目の夜。この光にも慣れた。慣れたくはなかった。
監視ポストのリーが無線を入れた。
「動きあり。南西。百五十。複数」
ミラーがバリケードに走った。M4カービンの安全装置を外した。暗視装置を構えた。
緑色の映像の中に、動くものがあった。低い姿勢。二本足。地面すれすれを滑るように移動している。体の色が地面と同じで、止まったら見えなくなる。
数えた。六。七。八。九。十。十一。十二。
人間と同じ数だった。
「全員配置。射撃許可は俺が出す」
群れが扇状に広がった。左翼と右翼に分かれて、退路を断つように回り込んでくる。
「発煙筒」
ダンが三方向に投げた。赤い煙が立ち上がった。
群れが止まらなかった。先頭の一匹が煙の中を突っ切った。迷いがなかった。煙はもう効かない。
「射撃開始」
十二丁のM4が同時に火を噴いた。5.56ミリNATO弾が秒速九百四十メートルで闇を裂いた。マズルフラッシュが連続して、暗視装置が白く飛んだ。
先頭の一匹に弾が集中した。胴体の左側面に六発。うち二発が脚の関節部を砕いた。関節の軟骨が弾けて、脚が不自然な角度に折れた。一匹が前のめりに倒れ、地面を滑って止まった。体液が泥に広がった。赤ではなかった。暗い紫色だった。
二匹目。三匹目。弾は当たっていた。着弾のたびに体表が弾け、暗い紫の飛沫が散った。だが倒れない。被弾しながら速度を上げた。弾が貫通しているのに走っている。人間なら即死する場所を撃ち抜かれているのに、動きが止まらなかった。臓器の位置が違う。急所が人間と同じ場所にない。
「グレネード!」
ウィルソンがM203を撃った。40ミリ榴弾が群れの中央で炸裂した。爆風で二匹が吹き飛んだ。一匹の腹が裂けて、中から灰色の臓器の塊がこぼれ出た。管状の器官が地面に広がって、まだ脈打っていた。もう一匹は下半身がなくなっていた。上半身だけで三メートル這ってから止まった。
残りが回り込んでいた。バリケードの死角。南東側。暗視装置の視界の外から三匹が同時に侵入した。
ナカムラが叫んだ。日本語だった。「後ろ!」
振り向くより先に、湾曲した刃がナカムラの左肩に入った。防護服の繊維が裂ける音がした。刃は肩甲骨の上を滑って、脇腹まで切り下げた。三十センチの切創。肋骨が三本見えた。白い骨の断面に血が溢れた。ナカムラが膝をついた。左腕が動かなくなっていた。
ハリスが至近距離でフルオート射撃した。魔物の頭部に八発。頭蓋が割れて、中から泡立った液体が噴き出した。倒れた。だが後ろからもう一匹。ハリスの右大腿部に刃が深く食い込んだ。大腿動脈を切っていた。血が噴射した。ハリスが倒れた。ダンがハリスの脚にターニケットを巻こうとしたが、魔物がダンの右前腕を刃で薙いだ。前腕の筋肉が骨まで裂けた。ダンの手からM4が落ちた。
白兵戦になった。バリケードの内側で、人間と魔物が混ざり合った。距離がゼロだった。銃が使えない。ナイフと拳と、魔物の刃。ペレスが魔物の喉にKA-BARナイフを突き立てた。暗い紫の液が顔にかかった。目に入った。ペレスが叫んだ。灼けるように熱かった。体液が酸性なのか、皮膚が赤く腫れ上がった。
三分で終わった。群れが退いた。
ナカムラが横たわっていた。肋骨が見えている傷口に、ガーゼを押し当てている。出血が止まらない。ハリスの脚は止血帯で止めたが、顔が白い。ダンの右腕が垂れ下がっている。ペレスの顔が水膨れだらけだった。
死者はまだいなかった。まだ。
静寂が来た。
群れは退いていた。暗闇に溶けて消えた。ミラーが弾倉を交換した。残弾を確認した。M4の弾倉が一人あたり七本。うち三本を消費。グレネードは残り四発。
「リー。周囲を確認」
リーが暗視装置を振った。
「群れは退却。——ただし」
リーの声が変わった。
「地面が揺れています」
足の裏で感じた。佐倉のような感覚ではない。ただの振動。だが大きかった。遠くから来ている。重い。地面を通じて伝わる、巨大な質量の足音。
暗視装置の映像の中で、木の群れが揺れた。木が揺れたのではなかった。木と木の間を、木と同じ高さのものが通過した。
四本足だった。頭が巨大だった。体のほとんどが頭だった。顎が左右に張り出して、体の幅いっぱいに口が広がっていた。分厚い革のような皮膚の下に、骨の層が透けていた。目がどこにあるのかわからなかった。
体長二十メートルを超えていた。
「グレネード!」
撃った。頭部の正面に着弾した。爆発。煙。
煙が晴れた。頭がゆっくり向き直った。爆発の跡は皮膚の表面に黒い焦げ跡を残しただけだった。骨の層が衝撃を吸収していた。四十ミリ榴弾が効かない。
口が開いた。顎の内側に歯はなかった。代わりに、顎の縁が刃のように鋭く研がれていた。噛むのではなく切断する構造。一噛みでバリケードの鉄杭が三本まとめて切れた。ワイヤーが弾けた。バリケードの一角が崩れた。
次の静寂は三秒だった。
北側の森で木の間が暗くなった。
暗くなったのではなかった。何かが森を塞いだ。
巨大な黒いマントが広がっていた。翼のような前肢が両側に伸びて、木の間を完全に塞いでいた。全身を覆う長い羽毛が闇と同化していて、輪郭しか見えなかった。顔がなかった。頭部が扁平で、正面から見ると平たい板のような形だった。
マントを広げた幅が十メートルを超えていた。北側が消えた。
トーマスがマントに向けてM4を撃った。フルオート。三十発。弾が羽毛の層に突き刺さって止まった。貫通しなかった。羽毛が三十センチ以上の厚みで何層にも重なっていて、弾丸の運動エネルギーを吸収していた。防弾ベストの原理と同じだった。
マントが動いた。前肢の先端がバリケードのネットを掴んで引き剥がした。ネットごと鉄杭が抜けた。
南は口。北はマント。東と西はまだ空いている。
東が埋まるのに十秒かからなかった。
空から来た。
最初に来たのは音ではなかった。体だった。内臓が震えた。横隔膜が痙攣した。ミラーは一瞬息ができなくなった。カーターが嘔吐した。リーが膝をついた。ウィルソンが耳を押さえて蹲った。
超低周波。聞こえない音が、内臓を直接揺さぶっていた。
見上げた。
空に赤い光があった。灰色と黒の空を、赤い光が弧を描いて横切っていた。巨大な頭部の冠が赤黒く発光していた。翼があった。両側に広がった翼が、ベースキャンプの全幅を覆った。十五メートル以上。
竜だった。どのブリーフィングにもなかった。佐倉が「空にも何かがいる」と言った。これだ。
竜が降下した。口が開いた。
ガスが噴き出した。無色。霧のようにベースキャンプの上に降り注いだ。腐卵臭。目が刺した。鼻の粘膜が焼けた。
ガスが引火した。
何が着火したのか——マズルフラッシュの残り火か、照明器具か。わからなかった。酸素が濃いこの空気が、火を食って膨らんだ。
爆発的に燃え広がった。テントが一瞬で炎に包まれた。コンテナの表面が溶け始めた。バリケードのネットが縮れて消えた。ジョンソンの防護服の背面に火が移った。ジョンソンが転がった。転がりながら叫んだ。防護服が溶けて、その下の皮膚が剥がれていた。背中の皮膚が炎で膨れ上がって、破裂して、赤い肉がむき出しになった。
オブライエンがジョンソンの上に覆いかぶさって火を消そうとした。オブライエンの手袋が溶けた。手の甲の皮膚がめくれた。
「退避! 全員外に出ろ!」
バリケードの外に出た瞬間。
地面が揺れた。さっきの四本足とは違う揺れだった。もっと大きい。もっと多い。地面全体が太鼓の皮のように振動していた。
低い唸りが聞こえた。人間の耳でもわかる低音。大気が震えていた。
地平線が動いた。暗視装置の中に、巨大な影の壁が映った。一つではなかった。数十。数百。頭部に巨大な突起を持つ影が、群れになって走っていた。足が地面を叩くたびに衝撃波が広がった。
進路上にベースキャンプの残骸があった。
逃げ場がなかった。
南は口。北はマント。東は影の壁。上は竜。西は群れの魔物が戻ってきていた。闇の中で湾曲した刃が光っていた。
「全員伏せろ! 頭を守れ!」
影の壁が来た。
最初の衝撃で、ミラーの体が浮いた。地面に叩きつけられた。頭を両腕で覆った。巨大な足が一メートル横を通過した。楕円形の足裏が地面を打った。土が顔に叩きつけられた。
叫び声が聞こえた。パクの声だった。何を叫んでいるかわからなかった。
別の声。ウィルソンか。途中で途切れた。途切れた後に、骨が折れる湿った音がした。踏まれた。
カーターの体が視界の端を転がった。影の足に蹴り飛ばされていた。五メートル先に落ちた。落ちた姿勢のまま動かなかった。首の角度が生きている人間のものではなかった。
足音が続いた。地面が揺れ続けた。土と血と煙と、甘い腐臭が全部混ざった空気の中で、ミラーは頭を抱えて地面に伏せていた。
揺れが遠ざかった。
顔を上げた。
何もなかった。
バリケードがなかった。テントがなかった。コンテナが三十メートル先に転がっていた。地面に巨大な足跡が無数に重なっていた。焦げた地面。踏み荒らされた地面。血。紫色の体液。人間の血。全部が混ざって、赤黒い泥になっていた。
「報告。生存者は報告しろ」
声がかすれていた。
「リー。生存。右脚が折れてる」
「パク。生存」
二つだった。
十二名中、三名。
ミラーが立ち上がった。膝が震えた。周囲を見た。
ナカムラがいた。仰向けに横たわっていた。左肩の傷口が開いたままだった。もう出血していなかった。血が止まったのではなく、出し切ったのだ。目が開いていた。空を見ていた。
ハリスは半分しかなかった。腰から下が巨大な足跡の中に埋まっていた。上半身だけが地面に転がっていた。まだターニケットが左脚に巻かれていた。
ジョンソンの背中が黒く炭化していた。うつ伏せのまま動いていなかった。
ダン、ウィルソン、カーター、オブライエン、トーマス、ペレス。散らばっていた。一人は首がなかった。一人は胸郭が潰れていた。
暗闇の中で、群れの魔物が戻ってきた。倒れた兵士の体に刃を引っ掛けて、引きずり始めた。ナカムラの体を。ハリスの上半身を。運んでいく。
ミラーは撃たなかった。弾がなかった。弾があっても撃たなかったかもしれない。
リーとパクを両脇に抱えて、歩いた。ベースキャンプの跡地から離れた。足の下に薬莢を踏む感触があった。何百発分の薬莢が泥に沈んでいた。全弾撃ち尽くした。全力で戦った。それでも九人死んだ。
佐倉が正しかった。撃つなと言った。従わなかった。
東の空が明るくなり始めていた。この世界にも朝は来る。
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*——十二時間後。こちら側。*
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転移が来た。一人で行った。
開けた場所。ベースキャンプの近く。
走った。裸足で。
要塞は消えていた。
鉄杭が曲がっていた。ネットが溶けていた。地面に巨大な足跡が無数にあった。焼け焦げた円形の跡。血痕があちこちに。薬莢が何百と散らばっていた。
遺体はなかった。群れの魔物が全て運び去っていた。
足裏が何かを拾った。遠くに生きている人間がいた。三人。弱い足音。
走った。五百メートル先。森の際。
ミラーが歩いていた。両脇にリーとパクを抱えて。三人とも血と泥にまみれていた。
ミラーの顔を見た。別人だった。人を失った人間の顔。俺が知っている顔。
「手を握ってください。帰れます」
四人が繋がった。
「九人死にました」
ミラーの声がかすれていた。
「お前の言う通りだった。撃った。呼んだ。地を走る口と、マントと、空から火を吐くやつと、地面を踏み潰す影の壁。全部来た。同時に。——ナカムラも死んだ。あいつは日本語で『後ろ』と叫んで、それが最後だった」
足元がぶよぶよした。
部屋の床。四人。
リーとパクが運ばれた。ミラーが残った。
コールに電話した。十二名中、九名死亡。生存三名。
ミラーが電話を取った。
「佐倉の警告を無視して射撃を継続しました。四種類が同時に来ました。対処不能でした。佐倉は撃つなと言いました。俺はそれを伝えました。部下は従いませんでした。俺も止められなかった。それが九人を殺しました」
コールが長い間黙った。
「……ミラー。お前は生きている。それだけで十分だ」
「十分じゃありません」
電話が切れた。
ミラーが俺を見た。
「佐倉。お前は正しかった」
「正しくても九人死にました」
「ああ。——だから次からは従う。死んでも撃たない」
「俺は撃つなと言いました。従ってもらえなかった。——次からは従ってもらいます」
ミラーが頷いた。
「Yes, sir.」
今度の「sir」は、コールに向けたものではなかった。




