第48話「送」
初日。
深夜二時。足裏が脈打った。
ミラーの右手を握った。もう一人の兵士——ハリスの左手を握った。ミラーの手は硬くて乾いていた。ハリスの手は大きくて温かかった。
「行きます」
足元がぶよぶよした。
森だった。密度の低い木の群れ。赤黒い地面。灰色の空。紫の筋が前より濃い。
裸足になった。地面に足裏をつけた。方向を確認。管理区域の方角に引力がある。近くはない。数キロ先。脅威は——遠くに大きなものが一つ。動いていない。眠っているか。蟲は少ない。群れの魔物の気配はない。
「安全です。ここに降ろします」
ミラーが周囲を見回した。鼻が動いた。瘴気の匂いを、防護マスク越しに感じたのだろう。
「甘いな」
「瘴気です。マスクを外さないでください」
ミラーが頷いた。ハリスはもう動いていた。コンテナを地面に降ろし、バリケード資材を取り出し始めている。訓練された動きだった。
手を離した。
三度目の「手を離す」だった。真鍋のとき。町田のとき。そして今。
でも今回は違った。俺の手が震えなかった。指を開いた。ミラーの手が離れた。ハリスの手が離れた。二人があの世界の赤黒い地面に立っている。
「ミラーさん。次の転移は四時間後の予定です。別の二名を送りますが、同じ場所に出る保証はない。無線を試してください」
「了解した。——佐倉」
ミラーが俺の名前を呼んだ。階級なしで。
「帰ってこい」
足裏がずきんと痛んだ。帰還の兆候。早い。滞在時間が短くなっている。転移の回数が増えると、向こうにいられる時間が減るのか。
足元がぶよぶよした。
部屋の床。一人。
鼻血が右から出ていた。ティッシュで押さえた。園田が計測した。血圧、脈拍、脳波。
「予想通りの負荷です。四時間後にもう一回。今日はそこまで」
四時間後。足裏が脈打つかどうかはわからない。転移のタイミングは俺の意志では制御できない。四時間後に来るかもしれないし、来ないかもしれない。
来た。四時間二十分後。
次の二名。ダンとペレス。ダンの手が汗ばんでいて、ペレスの手が震えていた。実戦経験者でも、未知の世界に行くのは怖い。
足元がぶよぶよした。
森だった。前回と違う場所。木の密度が高い。地面が泥。
ミラーたちとは違う場所に出た。やはり同じ場所には出ない。
裸足になった。脅威を確認した。近くにいない。ただし——泥の下に何かいた。小さい。蟲だろう。近づかなければ問題ない。
「ここに降ろします。ミラーさんたちとは別の場所です。合流は徒歩で」
ダンとペレスを降ろした。手を離した。四度目。
ダンが無線機を取り出した。周波数を合わせる。ノイズ。ザザザザ、という断続的な音。あの世界の電磁環境が通常と異なる。通信が安定しない。
ノイズの中に、声が混じった。
「——ition secured. Repeat, pos——secured.」
ミラーの声だった。断片的だが聞こえた。Position secured。陣地を確保した。生きている。
ダンが無線に向かって叫んだ。「Miller, this is Dan. We’re at a different location. Moving to rendezvous.」
ノイズ。返事は聞こえなかった。でも電波は届いている。完全には途切れていない。
足裏がずきんと痛んだ。早い。さっきより早い。
「急いでください。合流地点はミラーさんの無線信号の方向です。俺には方角がわかります」
足裏で感じたミラーたちの位置を、ダンに伝えた。南東——あの世界に方角はないが、ダンのコンパスが指す方向で言えば南東。三キロ。
「帰ります。次は明日です」
足元がぶよぶよした。
部屋の床。一人。
鼻血が両方から出ていた。園田が駆けつけた。
「予想より早い。二回目の滞在時間が短すぎる。体が転移を拒否し始めている」
「拒否」
「あなたの体があちら側に行くことを、負荷として認識し始めている。免疫反応に近い。回数を重ねるごとに反応が強くなる可能性がある」
「明日、あと二回行けますか」
園田が三秒黙った。
「行けます。ただし、三日目の最後の二回は——正直に言えば、わかりません」
「行きます」
園田は何も言わなかった。ティッシュをもう一枚渡してくれた。
二日目。
三人目と四人目。ウィルソンとカーター。今度は開けた場所に出た。赤黒い大地。遠くに木の群れ。降ろした。手を離した。五度目、六度目。
五人目と六人目。リーとオブライエン。森の中。泥。降ろした。手を離した。七度目、八度目。
鼻血が止まらなくなった。園田がガーゼを詰めた。脳波に異常が出始めていた。岸本が水を持ってきてくれた。黙って、俺の隣に置いた。
「佐倉さん。明日の二回で最後です。六回目の転移のとき、あなたの脳がどうなるかは予測できません」
「持たせます」
園田がメガネを拭いた。拭き終わるのに時間がかかった。
三日目。
九人目と十人目。トーマスとナカムラ。ナカムラは日系三世だった。悠の手を握ったとき、日本語で「よろしくお願いします」と言った。発音は完璧だった。
降ろした。手を離した。九度目、十度目。
鼻血。頭痛。視界の端が暗くなった。園田が計測した。何も言わなかった。何も言わないのが、一番怖かった。
最後の転移。十一人目と十二人目。ジョンソンとパク。
足裏が脈打った。六回目。
二人の手を握った。
足元がぶよぶよした。
開けた場所だった。
赤黒い大地の上に、バリケードが立っていた。
鉄杭とワイヤーが組まれている。ネットが張られている。監視ポストが二つ。射界が確保されている。テントが三つ。コンテナが整列している。
十名の兵士が、陣地の中にいた。
ミラーが入口に立っていた。自動小銃を肩にかけて。防護マスクの下から、目だけが見えた。
「全員集結。——お前が最後だ」
十二名全員。三日間かけて散り散りに着地した十二名が、無線と徒歩で合流し、この場所に陣地を構築していた。三日間で。あの世界で。瘴気を吸いながら。魔物を警戒しながら。
要塞だった。
ジョンソンとパクを降ろした。手を離した。十一度目、十二度目。
足裏が脈打った。帰還の兆候。すぐ来た。滞在時間がほとんどない。
「ミラーさん。陣地の維持をお願いします。俺が——撃つなと言う間は、撃たないでください」
ミラーが頷いた。
「言われなくても。お前のブリーフィング、全員覚えてる」
足元がぶよぶよした。
部屋の床。一人。
鼻血が顎まで伝っていた。視界が狭い。頭の奥で何かが脈打っている。
園田が来た。走ってきた。白衣の裾を握りながら。
「佐倉さん。横になってください」
「十二名全員、送り込みました」
「わかりました。横になってください。今すぐ」
横になった。天井の蛍光灯が二重に見えた。
「園田さん」
「はい」
「六回、持ちました」
園田が何か言おうとして、止めた。ティッシュで俺の鼻血を拭いた。丁寧に。岸本みたいに丁寧だった。
「持ちましたね。——今日は寝てください。明日から向こうの状況を確認します」
目を閉じた。足裏がじんじんしていた。あの世界に十二名の人間がいる。俺の手で送り込んだ十二名。
真鍋のときは二人だった。今度は十二人。
全員帰す。一人も死なせない。
そう思いながら、眠りに落ちた。




