第46話「盟」
都内のホテル。椎名が用意した部屋。窓のない会議室ではなく、スイートルームだった。ソファとテーブルとコーヒー。普通の部屋。普通じゃないのは、ここにいる人間たちだった。
コールが先にいた。
昨日の交渉のときとは違う服だった。軍服ではなくポロシャツにチノパン。でも座り方は同じだった。背筋がまっすぐで、目が鋭い。
コールの隣に、知らない男がいた。三十代。体格がいい。短髪。腕が太い。軍人の体。頭を使いすぎた痩せ方のコールとは正反対の、体を使い続けてきた人間の体だった。
「佐倉三等陸尉。まず謝罪します」
コールが日本語で言った。立ち上がって、頭を下げた。アメリカの大佐が、日本式に頭を下げた。
「今朝のヘリは私の指示ではありません。私の指揮系統の外にある部門が、独断で動きました。昨日の合意を無視して。——これは私にとっても受け入れがたいことです」
「ヘリは」
「引き返させました。私のラインで。三十分前に横田に戻っています」
引き返した。間に合った。
椎名が俺の横に座った。高梨と赤城は施設に戻っている。岸本は廊下で待機。この部屋にいるのは、俺と椎名とコールと、あの知らない男。
「コール大佐。確認させてください」と椎名が言った。「ヘリを出したのはどの部門ですか」
「国防総省の情報収集部門です。通称DCS。私の特別プロジェクトとは別系統で、直接の指揮権がない。——率直に言えば、私の頭越しに動かれました」
コールの声に怒りが残っていた。昨日の交渉であれだけ丁寧に合意を作ったのに、一夜で自分の組織に裏切られた。その怒りだった。
「DCSの目的は」
「佐倉三等陸尉の身体データの直接取得。面談ではなく、取得です。血液サンプル、皮膚サンプル、脳波データ。——AIの学習データとして」
血液。皮膚。脳波。俺の体の一部をもぎ取って、機械に食わせる。
「それは昨日の合意に反しています」
「反しています。だから私が止めました」
コールが俺を見た。
「佐倉三等陸尉。私はあなたとの合意を守ります。DCSの行動は私の責任ではないが、私の組織の一部であることは事実です。これ以上のことが起きないよう、私が管理します」
「管理できるんですか」
コールが一瞬だけ目を伏せた。
「正直に言えば、完全には管理できません。DCSはワシントンに直結していて、私のラインでは止められない場面が出てくる可能性がある。——だから、あなたの協力が必要です」
「俺の協力」
「あなたが得た情報を、約束通り共有してください。DCSが独自に動くのは、情報が足りないからです。情報があれば、AIが分析する。AIが分析すれば、DCSは満足する。あなたの体に直接触る理由がなくなる」
情報を渡せば、体を渡さなくて済む。そういう取引だった。
椎名が口を開いた。
「コール大佐。情報共有の範囲と方法について、書面で合意したい。口約束では今朝の二の舞になります」
「同意します。今日中に起草しましょう」
椎名とコールが書面の話を始めた。法的拘束力。情報の分類。共有のタイミング。悠のバイタルデータの扱い。一つずつ詰めていく。
俺は聞いていた。政治の言葉。法律の言葉。半年前の俺には一つも理解できなかったはずの言葉が、今は意味がわかった。
書面の話が一段落したとき、コールが隣の男を紹介した。
「彼を紹介します。ジェームズ・ミラー一等軍曹。私の直属の部下で、今回の共同作戦の現場責任者です」
ミラーが立ち上がった。大きかった。百九十センチはある。手を差し出した。
握った。硬い手。真鍋の手に似ていた。乾いていて、分厚くて、握力が強い。
ミラーが英語で言った。
「You’re the gate?」
門。また、その言葉。
英語が出た。訓練で覚えた英語。発音は悪い。でも意味は通じる。
「I’m not a gate. I’m the commander.」
門じゃない。指揮官だ。
ミラーの目が変わった。冷たかった目に、何か別のものが混じった。驚きではなかった。値踏みだった。この二十三歳の日本人が、何者なのかを測っている。
コールが英語で言った。ミラーに向かって。
「He is. And you will follow his orders on the other side.」
あちら側では、こいつの命令に従え。
ミラーがコールを見た。コールを見てから、俺を見た。二秒。
「Yes, sir.」
コールに対する「sir」だった。俺に対するものではなかった。コールの命令だから従う。俺を認めたわけではない。まだ。
それでよかった。認められるかどうかは、あちら側で決まる。会議室では決まらない。あの世界で、あの赤黒い地面の上で、魔物が来たときに、俺がどう判断するかで決まる。
「コール大佐。一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「今朝のヘリを止めたとき、あなたの立場は悪くなりましたか」
コールが三秒黙った。
「悪くなりました」
「なぜ止めたんですか」
「昨日の合意を守るためです。——それと」
コールが窓の方を見た。窓のない部屋だった。何かを探すように視線が動いて、戻ってきた。
「あなたの兄の話を聞いたからです」
拓海。手を離した兄。
「あなたは昨日、兄が自分を守るために手を離したと言った。仲間を守るために手を離した人が他にもいたと。——私にもそういう部下がいました。カブールで。私を庇って死んだ軍曹がいた」
コールの声が変わっていた。大佐の声ではなかった。部下を失った人間の声だった。
「あなたの話を聞いたとき、私は思いました。この人間は信用できる、と。人を失った人間は嘘をつかない。——だから、合意を守りました。私の立場が悪くなっても」
部屋が静かだった。
「ありがとうございます」
コールが微かに笑った。あの笑い方。真鍋に似た笑い方。怖さを知っている人間の笑い方。
「礼はいりません。これから大変になります。——準備を始めましょう。あちら側にベースキャンプを再建します。今度は私の精鋭を送ります。一個小隊十二名」
十二名。一個小隊。アメリカの特殊作戦群。
「一つだけ」
「何ですか」
「撃つなと俺が言ったら、撃たないでください。あの世界では銃の音が何を呼ぶかわからない」
コールが頷いた。
「ミラー。聞いたな」
ミラーが俺を見た。さっきとは少し違う目だった。まだ認めてはいない。でも値踏みの質が変わっていた。
「Yes, sir.」
今度の「sir」が、誰に向けられたものなのか、俺にはわからなかった。コールに対するものか。それとも——。
ポケットの中の拓海の財布に手が触れた。薄い革。色褪せた革。
拓海。始まるよ。今度はアメリカ人と一緒に、あの世界に行く。
俺が指揮官だ。俺が判断する。俺が守る。
テーブルの上のコーヒーが冷めていた。誰も飲んでいなかった。




