第45話「牙」
交渉成立の翌朝だった。
施設の食堂で岸本と朝食を食べていた。岸本はいつもの通り、音を立てずにパンを千切って食べていた。俺は味噌汁を飲んでいた。普通の朝だった。
高梨が食堂に入ってきた。杖なし。足取りが速かった。顔が違っていた。
「佐倉さん。部屋に来てください。今すぐ」
味噌汁を置いた。岸本が立ち上がった。高梨が岸本を見た。
「岸本も」
岸本「も」。全員呼ばれている。
高梨の部屋に入ると、赤城が既にいた。壁に寄りかかっていた。いつもの姿勢だが、目が違った。戦闘前の目をしていた。
テーブルの上のスピーカーから、椎名の声が流れていた。
「——全員揃いましたか」
「揃いました」と高梨が言った。
「では状況を伝えます。今朝六時十二分、横田基地からUH-60ヘリコプターが一機離陸しました。飛行計画は未提出。行き先は——この施設の最寄りのヘリポートです」
部屋が静かになった。
「到着予想時刻は七時三十分。あと四十分です」
四十分。
「椎名さん。それはコール大佐の指示ですか」
椎名が一拍置いた。
「コール大佐ではありません。コール大佐は現在、東京都内のホテルにいます。私の監視下に。ヘリの発進を知らなかった可能性が高い」
コールじゃない。コールの上。
「誰が」
「国防総省のインテリジェンス部門です。コール大佐の特別プロジェクトとは別系統の、情報収集を専門とする部門。——昨日の交渉の結果が本国に報告された時点で動いたと推定します」
昨日の交渉。俺が現場指揮権を主張して、コールがそれを受け入れた。その報告がワシントンに届いた。そしてワシントンの誰かが「それは受け入れられない」と判断した。
「目的は」
「佐倉さんの身柄の確保。もしくは、佐倉さんとの直接面談の強行。いずれにしても、昨日の合意を覆す意図です」
高梨の顔が軍人の顔に変わっていた。
「椎名さん。法的根拠は」
「ありません。在日米軍の施設外活動には日本政府の許可が必要です。飛行計画も未提出。——完全な越権行為です。ただし」
椎名の声が低くなった。
「越権行為であっても、ヘリが着陸して人が降りてきたら、その場で外交問題になります。物理的に排除すれば日米関係が壊れる。受け入れれば昨日の合意が無意味になる。——どちらに転んでも、向こうの得です」
「つまり」
「来させないか、来ても佐倉さんに会わせないか、どちらかしかない」
赤城が壁から背中を離した。
「施設の警備を強化します。正門を閉鎖。ヘリポートへのアクセスを遮断。——ただし相手がアメリカ軍であることを考えると、物理的な対立は避けるべきです」
高梨が頷いた。
「佐倉さん」
「はい」
「あなたをこの施設から移動させます。ヘリが着いたとき、あなたがここにいなければ、目的を果たせない」
「移動するんですか」
「所在を変えるだけです。あなたは日本の自衛官であり、日本の指揮系統の下にいる。アメリカの一部門が勝手に接触する権利はない」
真鍋の言葉が頭をよぎった。「肩書きをつけろ。自衛官なら簡単には手出しできんくなる」。今、その言葉が試されている。
「どこに行くんですか」
椎名が答えた。
「私のところに。都内に安全な場所があります。コール大佐も合流させます。コール大佐にとっても、自分の部下でない人間が勝手に動いているのは問題のはずです」
コールを味方につける。コールの上にいる人間と、コール自身を切り離す。椎名はもう手を打っていた。
「準備してください。五分で出ます」
岸本が動いた。俺のリュックを取りに走った。聞かれなくても動く。この人はそういう人間だった。
俺はテーブルの前に立った。四つの遺品。
持っていくか迷った。拓海の財布。森塚の手袋の切れ端。日下部の手袋。真鍋の靴。
全部持っていくわけにはいかない。五分しかない。
拓海の財布だけ、ポケットに入れた。最初の遺品。一番古いもの。一番軽いもの。色褪せた革の感触が、ポケットの中で太ももに触れた。
「行きましょう」
高梨と赤城と岸本と俺。四人で施設の裏口を出た。赤城が車を回してきた。黒いバン。窓にスモーク。
乗り込む前に、空を見上げた。曇っていた。遠くから低い音が聞こえた。ヘリのローター音かもしれないし、ただの飛行機かもしれなかった。
「佐倉さん。急いでください」
赤城の声。乗り込んだ。ドアが閉まった。車が動いた。
施設が後ろに遠ざかっていく。あの施設に日下部と町田がいる。二人を置いていく。
「日下部さんと町田さんは」
「園田さんが残ります。医療班も。——彼女たちに危害は加えません。アメリカの目的は佐倉さんだけです」
俺だけ。俺の体。俺の能力。俺のデータ。
車が高速に乗った。東京に向かっている。
携帯が鳴った。椎名からだった。声が少しだけ荒かった。さっきのスピーカー越しの平坦な声とは違う。この人も走り回っている。
「佐倉さん。コール大佐と話しました」
「何と」
「コール大佐は激怒していました。自分の交渉結果をワシントンが一夜で覆したことに。『これは私のプロジェクトだ。勝手に動く権限は彼らにない』と」
コールが怒っている。味方とまでは言えないが、少なくとも敵の敵。
「コール大佐は自分のラインでヘリの引き返しを要請しています。ただし、通るかどうかはわかりません。インテリジェンス部門はコール大佐の指揮系統の外にある」
コールの上にいる別の人間が動いた。コールですら止められない。
「椎名さん。俺がコール大佐と直接話せますか」
「何を話すんですか」
「昨日の約束を守ってくれと。俺はあなたの交渉相手であって、あなたの部下の情報収集対象じゃないと」
椎名が三秒黙った。
「……いいでしょう。合流後に。ただし、私が同席します」
「お願いします」
電話を切った。
車が首都高を走っていた。東京の朝のビル群が窓の外を流れていく。
岸本が隣に座っていた。冷たい手がリュックの紐を握っていた。
「岸本さん」
「はい」
「怖いですか」
岸本が少し考えた。いつもの間。
「あの世界の魔物の方が怖いです」
笑った。声に出して笑った。いつぶりか思い出せなかった。
「俺もです」
ポケットの中の拓海の財布に手を触れた。薄くて、軽くて、色褪せた革。拓海がこの財布を持っていたとき、こんなことになるとは思っていなかっただろう。俺も思っていなかった。
あの世界の魔族が待っている。アメリカが追いかけてきている。アメリカの中で権力が割れている。日本の秘匿は完全に崩壊した。
半年前、俺はエクセルを叩いていた。
今、俺は逃げている。日本の自衛官として、アメリカの情報部門から。ポケットに兄の財布を入れて。隣に山岳レンジャーの青年を乗せて。あの世界の魔族と通信できる足を持って。
足裏がじんじんしていた。
あの世界が呼んでいる。魔族が待っている。アメリカの向こう側で、コールが怒鳴っている。ワシントンのAIが俺のデータを求めている。
全部が同時に動いている。もう止められない。
でも、怖がれる人間は生きて帰れる。
俺は怖がっている。だから大丈夫だ。
車は東京に向かって走っていた。




