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魔界世界  作者: 彗
作戦

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45/62

第45話「牙」


 交渉成立の翌朝だった。


 施設の食堂で岸本と朝食を食べていた。岸本はいつもの通り、音を立てずにパンを千切って食べていた。俺は味噌汁を飲んでいた。普通の朝だった。


 高梨が食堂に入ってきた。杖なし。足取りが速かった。顔が違っていた。


 「佐倉さん。部屋に来てください。今すぐ」


 味噌汁を置いた。岸本が立ち上がった。高梨が岸本を見た。


 「岸本も」


 岸本「も」。全員呼ばれている。


 高梨の部屋に入ると、赤城が既にいた。壁に寄りかかっていた。いつもの姿勢だが、目が違った。戦闘前の目をしていた。


 テーブルの上のスピーカーから、椎名の声が流れていた。


 「——全員揃いましたか」


 「揃いました」と高梨が言った。


 「では状況を伝えます。今朝六時十二分、横田基地からUH-60ヘリコプターが一機離陸しました。飛行計画は未提出。行き先は——この施設の最寄りのヘリポートです」


 部屋が静かになった。


 「到着予想時刻は七時三十分。あと四十分です」


 四十分。


 「椎名さん。それはコール大佐の指示ですか」


 椎名が一拍置いた。


 「コール大佐ではありません。コール大佐は現在、東京都内のホテルにいます。私の監視下に。ヘリの発進を知らなかった可能性が高い」


 コールじゃない。コールの上。


 「誰が」


 「国防総省のインテリジェンス部門です。コール大佐の特別プロジェクトとは別系統の、情報収集を専門とする部門。——昨日の交渉の結果が本国に報告された時点で動いたと推定します」


 昨日の交渉。俺が現場指揮権を主張して、コールがそれを受け入れた。その報告がワシントンに届いた。そしてワシントンの誰かが「それは受け入れられない」と判断した。


 「目的は」


 「佐倉さんの身柄の確保。もしくは、佐倉さんとの直接面談の強行。いずれにしても、昨日の合意を覆す意図です」


 高梨の顔が軍人の顔に変わっていた。


 「椎名さん。法的根拠は」


 「ありません。在日米軍の施設外活動には日本政府の許可が必要です。飛行計画も未提出。——完全な越権行為です。ただし」


 椎名の声が低くなった。


 「越権行為であっても、ヘリが着陸して人が降りてきたら、その場で外交問題になります。物理的に排除すれば日米関係が壊れる。受け入れれば昨日の合意が無意味になる。——どちらに転んでも、向こうの得です」


 「つまり」


 「来させないか、来ても佐倉さんに会わせないか、どちらかしかない」


 赤城が壁から背中を離した。


 「施設の警備を強化します。正門を閉鎖。ヘリポートへのアクセスを遮断。——ただし相手がアメリカ軍であることを考えると、物理的な対立は避けるべきです」


 高梨が頷いた。


 「佐倉さん」


 「はい」


 「あなたをこの施設から移動させます。ヘリが着いたとき、あなたがここにいなければ、目的を果たせない」


 「移動するんですか」


 「所在を変えるだけです。あなたは日本の自衛官であり、日本の指揮系統の下にいる。アメリカの一部門が勝手に接触する権利はない」


 真鍋の言葉が頭をよぎった。「肩書きをつけろ。自衛官なら簡単には手出しできんくなる」。今、その言葉が試されている。


 「どこに行くんですか」


 椎名が答えた。


 「私のところに。都内に安全な場所があります。コール大佐も合流させます。コール大佐にとっても、自分の部下でない人間が勝手に動いているのは問題のはずです」


 コールを味方につける。コールの上にいる人間と、コール自身を切り離す。椎名はもう手を打っていた。


 「準備してください。五分で出ます」


 岸本が動いた。俺のリュックを取りに走った。聞かれなくても動く。この人はそういう人間だった。


 俺はテーブルの前に立った。四つの遺品。


 持っていくか迷った。拓海の財布。森塚の手袋の切れ端。日下部の手袋。真鍋の靴。


 全部持っていくわけにはいかない。五分しかない。


 拓海の財布だけ、ポケットに入れた。最初の遺品。一番古いもの。一番軽いもの。色褪せた革の感触が、ポケットの中で太ももに触れた。


 「行きましょう」


 高梨と赤城と岸本と俺。四人で施設の裏口を出た。赤城が車を回してきた。黒いバン。窓にスモーク。


 乗り込む前に、空を見上げた。曇っていた。遠くから低い音が聞こえた。ヘリのローター音かもしれないし、ただの飛行機かもしれなかった。


 「佐倉さん。急いでください」


 赤城の声。乗り込んだ。ドアが閉まった。車が動いた。


 施設が後ろに遠ざかっていく。あの施設に日下部と町田がいる。二人を置いていく。


 「日下部さんと町田さんは」


 「園田さんが残ります。医療班も。——彼女たちに危害は加えません。アメリカの目的は佐倉さんだけです」


 俺だけ。俺の体。俺の能力。俺のデータ。


 車が高速に乗った。東京に向かっている。


 携帯が鳴った。椎名からだった。声が少しだけ荒かった。さっきのスピーカー越しの平坦な声とは違う。この人も走り回っている。


 「佐倉さん。コール大佐と話しました」


 「何と」


 「コール大佐は激怒していました。自分の交渉結果をワシントンが一夜で覆したことに。『これは私のプロジェクトだ。勝手に動く権限は彼らにない』と」


 コールが怒っている。味方とまでは言えないが、少なくとも敵の敵。


 「コール大佐は自分のラインでヘリの引き返しを要請しています。ただし、通るかどうかはわかりません。インテリジェンス部門はコール大佐の指揮系統の外にある」


 コールの上にいる別の人間が動いた。コールですら止められない。


 「椎名さん。俺がコール大佐と直接話せますか」


 「何を話すんですか」


 「昨日の約束を守ってくれと。俺はあなたの交渉相手であって、あなたの部下の情報収集対象じゃないと」


 椎名が三秒黙った。


 「……いいでしょう。合流後に。ただし、私が同席します」


 「お願いします」


 電話を切った。


 車が首都高を走っていた。東京の朝のビル群が窓の外を流れていく。


 岸本が隣に座っていた。冷たい手がリュックの紐を握っていた。


 「岸本さん」


 「はい」


 「怖いですか」


 岸本が少し考えた。いつもの間。


 「あの世界の魔物の方が怖いです」


 笑った。声に出して笑った。いつぶりか思い出せなかった。


 「俺もです」


 ポケットの中の拓海の財布に手を触れた。薄くて、軽くて、色褪せた革。拓海がこの財布を持っていたとき、こんなことになるとは思っていなかっただろう。俺も思っていなかった。


 あの世界の魔族が待っている。アメリカが追いかけてきている。アメリカの中で権力が割れている。日本の秘匿は完全に崩壊した。


 半年前、俺はエクセルを叩いていた。


 今、俺は逃げている。日本の自衛官として、アメリカの情報部門から。ポケットに兄の財布を入れて。隣に山岳レンジャーの青年を乗せて。あの世界の魔族と通信できる足を持って。


 足裏がじんじんしていた。


 あの世界が呼んでいる。魔族が待っている。アメリカの向こう側で、コールが怒鳴っている。ワシントンのAIが俺のデータを求めている。


 全部が同時に動いている。もう止められない。


 でも、怖がれる人間は生きて帰れる。


 俺は怖がっている。だから大丈夫だ。


 車は東京に向かって走っていた。

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