第44話「対」
回答期限の前日だった。
都内の防衛省関連施設。地下の会議室。窓がない部屋。長いテーブルの片側に椎名と高梨と俺。反対側に椅子が三つ。まだ空いている。
制服を着ていた。三等陸尉の制服。三週間前に届いたときは体に馴染まなかったが、今は違った。毎朝走って、毎日撃って、毎晩結んで、体が変わった。制服が体に合うようになったのではなく、体が制服に追いついた。
高梨が杖なしで立っていた。肋骨はもう完治している。
「佐倉さん。今日は私と椎名さんが交渉の主軸です。あなたは聞かれたことに答えてください。——ただし」
高梨が俺を見た。
「あなたが嫌だと思ったことには、はっきりNoと言ってください。私たちが止められなくても、あなたが止められることがある」
椎名が隣で頷いた。いつものスーツ。いつもの顔。前回の疲れた顔はもうなかった。この人は回復が速い。
「佐倉さん。今日来るのはアメリカ太平洋軍の特別プロジェクト責任者です。名前はリチャード・コール大佐。国防総省のAI分析チームを率いている人間です。——頭が切れます。油断しないでください」
ドアが開いた。
三人入ってきた。先頭の男が、コールだとわかった。
銀髪の痩せた男だった。軍人の体ではなかった。頭を使いすぎて痩せた人間の体。目だけが鋭くて、部屋に入った瞬間にテーブルの上の資料の位置、椎名のスーツの皺、高梨の杖がないこと、俺の階級章を全部見た。二秒で。
後ろの二人は補佐官だろう。タブレットを持っている。記録係。
コールが椅子に座った。座り方が速かった。無駄がない。
「Thank you for arranging this meeting.」
椎名が日本語で返した。「通訳は不要ですか」
「不要です。私は日本語を話します」
コールが日本語に切り替えた。流暢だった。アクセントはあるが、意味が完全に通る日本語。
「では始めましょう。——佐倉三等陸尉」
俺の名前と階級を、正確に言った。
「お会いできて光栄です。あなたのことは多くの報告で読みました」
「読んだ」。俺のデータを。AIに食わせたデータを。
「はじめまして」
俺の日本語。向こうの日本語。同じ言語なのに、全く違うものを話している気がした。
コールが資料を開かなかった。補佐官のタブレットも見なかった。全部頭に入っている。
「単刀直入に申し上げます。アメリカは日本と共同であちら側の探索を行いたい。物資、人員、技術を提供します。見返りとして、情報の共有と、佐倉三等陸尉へのアクセスを求めます」
「アクセスとは」と椎名が言った。
「佐倉三等陸尉の転移に同行する権利。転移時のバイタルデータの共有。あなたの感覚に関する詳細なヒアリング。——そして可能であれば、佐倉三等陸尉の身体データの継続的なモニタリング」
モニタリング。俺の体をずっと見ていたい。データを取り続けたい。AIに食わせたい。
「また、佐倉三等陸尉をワシントンD.C.に招き、我々の研究チームと直接——」
「No」
俺の声だった。
コールが止まった。目が俺に来た。
「失礼、何と」
「No。ワシントンには行きません」
部屋が静かになった。椎名が微かに口の端を上げたのが見えた。
コールの目が変わった。最初の「報告で読んだasset」を見る目から、別の目に。目の前にいる人間を見る目に。
「理由をお聞きしてもよろしいですか」
「俺の体はあの世界と繋がっています。ここにいるから繋がっていられる。ワシントンに行ったら、あの世界から離れる。転移が来たとき、すぐに行けなくなる。——それに」
コールを見た。目を逸らさなかった。
「俺をワシントンに連れて行って、研究室に入れて、データを取りたいんだと思います。でも俺は実験動物じゃない」
実験動物。町田が使った言葉。真鍋が使った言葉。「実験動物の死に方やね」。あのとき真鍋が言ったことを、俺は忘れていなかった。
コールが三秒黙った。それから、少し姿勢を変えた。背もたれに体を預けた。品定めの姿勢から、対話の姿勢に変わった。
「佐倉三等陸尉。ワシントンの件は撤回します。では、何なら受け入れていただけますか」
交渉が始まった。
「共同作戦は受け入れます。物資と人員が必要です。今の日本の戦力では、あの世界に人を長期間滞在させることができない。それは認めます」
高梨が隣で微かに頷いた。
「ただし条件があります」
コールが顎を引いた。聞いている。
「あちら側での判断権は俺が持ちます。転移先での行動は、俺の指示に従ってください。あの世界で何が起きているかを感じ取れるのは俺だけです。俺が危険だと言ったら撤退。俺が安全だと言ったら前進。これは譲れません」
「それは——現場指揮権ということですか」
「そうです」
コールの目が細くなった。アメリカの大佐が、二十三歳の日本の三等陸尉に現場指揮権を渡す。ありえない。階級でも経験でも、話にならない差がある。
「失礼ですが、佐倉三等陸尉。あなたの軍歴は三週間です。現場指揮の経験は」
「ありません」
「では——」
「でも、あの世界で人が死ぬのを見てきました。目の前で。兄が死にました。教授が死にました。自衛官が死にました。民間の軍事コンサルタントが死にました。全員が俺の手を握っていた人間です。全員が、俺が連れて行った人間です」
コールが黙った。
「あの世界に行ったことがあるのは俺だけです。あの世界の地面を感じられるのも、魔族と接触したのも、俺だけです。あなたのAIがどれだけ優秀でも、あの世界にいるときに俺が感じるものは解析できない。匂いも、振動も、あの空気の中で体が訴えてくるものも、データにはならない」
コールの後ろの補佐官がタブレットの手を止めていた。記録を忘れている。
「俺は実験動物ではないし、門でもない。あの世界を知っている人間です。あの世界で人を死なせないために何をすべきか、一番わかっている人間です。——だから俺が判断します」
部屋が静かだった。
コールが俺を見ていた。長い間。さっきまでとは違う目だった。assetを見る目ではなかった。報告書の数字を見る目ではなかった。
コールが口を開いた。
「佐倉三等陸尉。あなたの兄は——どのような状況で亡くなりましたか」
予想しなかった質問だった。
「……初めてあの世界に人を連れて行ったときです。兄が自分から手を離して、俺を守ろうとして。地面に飲まれました」
「手を離した」
「はい。俺の手を握っていれば帰れたのに、俺を守るために離した」
コールが頷いた。ゆっくり。
「自衛官の方は」
「楠木三曹。蟲の魔物に刺されて。楠木さんも自分から手を離しました。俺を守るために」
「コンサルタントの方は」
「真鍋涼介。ベースキャンプ作戦であちら側に残りました。俺の代わりに。発煙筒が尽きるまで戦って、群れの魔物に——」
声が詰まった。止まった。
コールが待った。急かさなかった。
「……真鍋さんは、俺を自衛隊に入れろと言い残しました。俺自身を強くしろと。人を送り込んで死なせるんじゃなくて。——だから俺はここにいます。この制服を着ています」
コールの目が変わっていた。最初に部屋に入ったときの、全てを二秒でスキャンする鋭い目ではなかった。もっと静かな目になっていた。
「佐倉三等陸尉。一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「あなたは怖いですか。あの世界が」
楠木の声が聞こえた。怖がれる人間は生きて帰れる。
「怖いです。毎回怖い。でも行きます」
コールが五秒黙った。長い五秒だった。
それから、テーブルの上に両手を置いた。指を組んだ。
「現場指揮権は佐倉三等陸尉に帰属する。あちら側での最終判断はあなたが行う。我々は物資、人員、技術を提供し、あなたの判断に従う」
椎名が動かなかった。高梨が動かなかった。俺も動かなかった。
「ただし、一つだけ条件があります」
「何ですか」
「あなたが得た情報は、全てアメリカと共有してください。魔族との接触の内容、あなたの感覚の変化、あの世界で見たもの聞いたもの感じたもの。全てです。——あなたを管理するためではなく、我々があの世界を理解するために」
理解するために。管理するためではなく。
コールの目を見た。嘘を言っている目ではなかった。少なくとも今この瞬間は。
「わかりました。情報は共有します」
コールが立ち上がった。テーブル越しに手を差し出した。
握手。アメリカの大佐の手。大きくて、乾いていて、硬かった。
真鍋の手を思い出した。同じ種類の手だった。軍人の手。何かを握り続けてきた手。
「佐倉三等陸尉。私はあなたに敬意を表します」
コールの日本語は正確だった。「敬意」という単語を、正しい重さで使っていた。
「これから大変なことになります。覚悟してください」
「覚悟はできてます」
コールが微かに笑った。笑い方が少しだけ、真鍋に似ていた。怖さを知っている人間の笑い方。
「では、共同作戦の詳細を詰めましょう」
会議室を出たとき、椎名が俺の横に並んだ。
「佐倉さん」
「はい」
「“No”、ちゃんと言えましたね」
椎名の顔が、ほんの少しだけ緩んでいた。この人の顔が緩むのを見たのは初めてだった。
「椎名さんが教えてくれたんです。“No”は必須だって」
「教えたのはメモの一行です。言ったのはあなた自身です」
高梨が後ろから来た。杖なしで歩いている。
「佐倉さん。コール大佐はああ見えて、部下を何人も失っている人間です。アフガニスタンで。イラクで。——あの人があなたに兄の話を聞いたのは、assetの調査ではありません」
「じゃあ何ですか」
「同類かどうかを確かめたんです。人を失った人間同士かどうかを」
廊下を歩いた。三人で。蛍光灯がちかちかしていた。あの廊下とは違う廊下だったが、光り方は同じだった。
施設の外に出た。夜だった。東京の空に星は見えなかった。
あの世界の空は灰色で、紫の筋が脈打っている。あの世界の地面は温かくて、無数の振動が走っている。あの世界の森の奥に、皮膚の色が変わる異形の存在が立っている。
そこに、これからアメリカの軍人が入ってくる。
俺が連れて行く。俺の手で。
テーブルの上の遺品が増えないように。今度こそ。
足裏がじんじんしていた。あの世界が待っている。




