第43話「影」
回答期限まで残り五日。
足裏が脈打った。深夜。岸本の手を握った。
足元がぶよぶよした。
森だった。
靴を脱ぐ前にわかった。足裏が覚えている地面だった。前回と同じ場所ではないが、近い。管理区域の方角に、あの整列した振動がある。前回より近い。
二回続けて、管理区域の近くに出た。
偶然か。偶然にしてはできすぎている。
「岸本さん。また近くに出ました。管理区域が近い」
岸本が頷いた。リュックの紐を締め直した。
靴を脱いだ。裸足を地面につけた。方向を確認した。あの引力がある。前回より強い。近いからだ。
歩き始めた。引力の方向に。
三百メートルほどで、木の間隔が変わり始めた。前回と同じだった。不規則な森から、等間隔の森に。地面の色が赤黒から茶色に変わっていく。蟲がいなくなる。魔物の気配が消える。静寂が来る。
管理区域の境界を越えた。
前回はここで止まった。今回は越える。
岸本に手を握った。
「ここから先は、前回の境界の向こうです。何が起きるかわかりません。俺が『戻る』と言ったら、すぐに走ってください」
「了解です」
岸本の手が冷たかった。でも握り返す力は強かった。
境界を越えて歩いた。五十メートル。百メートル。
森がさらに変わっていった。
木の間隔が広くなった。一本一本が太く、枝が高い位置で水平に伸びている。天蓋のように枝が重なっていて、空が見えない。暗かった。でも完全な暗闇ではなかった。木の幹の表面に、かすかな光があった。粘液の光ではない。もっと均一で、もっと静かな光。幹自体が微かに発光しているように見えた。
足裏の地脈がさらに密になっていた。筋が網目のように張り巡らされている。靴を履いていても感じるほど強い。裸足ならもっと鮮明に見えるだろうが、ここから先は裸足では歩けなかった。地面が変わっていた。土ではなく、硬い何か。岩のようだが、岩ではない。表面が滑らかで、微かに温かい。
「佐倉さん。地面が」
「はい。わかってます」
岸本も感じている。靴越しでも、この地面が異質なことは足でわかる。
足裏に意識を集中した。
いた。
前方。八十メートル。三体。いや、五体。もっといる。七体。八体。管理区域の境界の内側よりさらに密に、複数の存在が動いている。
それだけではなかった。足裏に入ってくる振動の密度が桁違いだった。遠くからの信号が何層にも重なっている。何十、何百という足踏みのリズムが、地面を通じて同時に流れている。一つの会話ではなく、無数の会話が同時進行している。
この森全体が、通信で満たされている。
「すごい数です。何十、何百……。この森全体に魔族がいる」
岸本の手を握る力が強くなった。
さらに歩いた。三十メートル。
見えた。
木の間に、何かが立っていた。
暗かった。幹の微かな発光が、その輪郭だけを浮かび上がらせていた。
俺より大きかった。頭一つ分ではなく、もっと大きい。俺が見上げる高さ。二本足で立っている。体が太い。肩のあたりが人間より幅がある。腕のようなものが二本、体の横にある。
頭が違った。
人間の頭の形ではなかった。横に張り出す何かがあった。頭の両側から、扁平な器官が突き出ている。耳ではない。もっと大きくて、もっと平たい。きのこの傘のような形。
顔が見えなかった。目がなかった。人間の目があるべき場所に、凹みが並んでいた。三つか四つ。顔の前面に、浅い穴が等間隔で開いている。
皮膚の色が変わった。
俺が見ている間に、体の表面の色がゆっくりと移り変わっていた。暗い灰色から、少し赤みを帯びた色に。それからまた灰色に。脈打つように。色が呼吸している。
異形だった。人間に似ていたのは、二本足で立っていることだけだった。
不気味だった。恐ろしかった。吐きそうだった。不気味の谷を超えていた。人間に似ているからこそ、違いが際立って、脳が拒絶する。
でも立っていた。逃げなかった。
向こうも立っていた。
あの凹みが、俺の方を向いていた。目ではない何かで、俺を見ていた。
五秒。十秒。
向こうが振動を送ってきた。
足裏に直接。近い。明瞭だった。遠距離の信号とは全く違う。一対一で、至近距離で、俺に向けて送られた振動。
複雑だった。リズムの中に強弱があり、間があり、繰り返しがあり、変化があった。長かった。十秒以上続いた。
意味はわからなかった。
でも一つだけわかったことがあった。敵意がなかった。怒りがなかった。攻撃の気配がなかった。
何かを伝えようとしていた。ゆっくりと、丁寧に。こちらがわかるかどうか確かめるように。
俺は何も返せなかった。「ここにいる」も「行く」も、この信号に対しては赤ん坊のうめき声みたいなものだった。
ただ立っていた。向こうの信号を受け取りながら。
もう一体が来た。最初の一体の横に、同じくらいの大きさの影が現れた。二体が並んで立っていた。二体目の皮膚の色が、最初の一体とは違うリズムで変わっていた。
二体の間で、振動のやりとりが始まった。俺に向けた信号ではなく、二体同士の会話。短い。速い。俺のことを話している——そんな気がした。
足裏がずきんと痛んだ。
帰還の兆候。
まだ早い。もっと見たい。もっと感じたい。でも体が決める。足裏が脈打っている。帰還が来る。
「岸本さん。帰ります」
岸本の手を握り直した。冷たい手が、俺の手を握り返した。
最後に見えたのは、暗い森の中で並んで立つ二つの影だった。皮膚の色がゆっくり変わっている。凹みがこちらを向いている。
二体は動かなかった。俺が消えるのを見ていた。
足元がぶよぶよした。
部屋の床。二人。
岸本が俺を見ていた。
「佐倉さん。泣いてます」
頬に手を当てた。濡れていた。泣いていた。いつから泣いていたのかわからなかった。あの影を見たときか。向こうの信号を受け取ったときか。帰還の瞬間か。
「……見ました」
「見えたんですか」
「はい。初めて。目で見ました」
「どんな——」
「人間じゃなかった。人間に似てるけど、全然違った。頭の横から何かが出ていて、目がなくて、皮膚の色が変わっていた。大きかった。俺より全然大きかった」
岸本が黙って聞いていた。
「でも——敵じゃなかった。攻撃されなかった。何かを伝えようとしていた。丁寧に。こっちがわかるかどうか確かめるみたいに」
園田に電話した。朝の四時。出た。
見たことを全部話した。管理区域の奥の森。発光する木。温かい地面。無数の振動。二体の影。横に張り出す器官。凹み。色が変わる皮膚。至近距離の信号。敵意がなかったこと。
園田は黙って聞いていた。長い沈黙の後、園田が言った。
「佐倉さん。あなたは今、人類で初めてあの世界の魔族を目撃した人間です」
目撃。見た。足裏ではなく、目で。
「次はもっと近づけますか」
「わかりません。でも——向こうが丁寧だったんです。こっちがわかるかどうか確かめるように信号を送ってきた。急がないでいてくれた。待ってくれた」
園田が息を吸った。電話の向こうの小さな息。
「佐倉さん。もう一つ聞いていいですか」
「何ですか」
「なぜ泣いたんですか」
考えた。なぜ泣いたのか。怖かった。気持ち悪かった。逃げたかった。でもそれだけじゃなかった。
「……わかりません。でも、あいつらがそこにいたんです。俺たちが知らないだけで、ずっとそこにいた。俺たちとは全然違う形で、全然違う方法で、生きていた。それを見たとき——」
言葉が出なかった。
「——すごかったんです。ただ、すごかった」
園田が電話の向こうで、小さく笑った気がした。
「それが科学の始まりです。佐倉さん」
電話を切った。
窓の外が白み始めていた。
テーブルの上の四つの遺品。真鍋の靴。
真鍋。あんたが見たかったのは、こういうものだったんじゃないか。
おもしろかね、この世界。
「おもしろかったよ」
靴は何も答えなかった。でも今日だけは、答えが返ってきた気がした。




