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魔界世界  作者: 彗
作戦

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42/60

第42話「界」


 アメリカへの回答期限まで残り十日。あの会議から五日が経っていた。


 転移が来た。深夜。足裏が脈打った。岸本の手を握った。


 「今回は歩きます。魔族が呼んでいる方向に」


 「了解です」


 岸本がリュックを背負った。中には水、発煙筒四本、ロープ、拳銃。訓練で詰め方を覚えたリュック。三週間前にはリュックの背負い方すら知らなかった。


 足元がぶよぶよした。


 森だった。


 密度はそこまで高くない。柱みたいな木が間隔を空けて立っていて、木と木の間を歩ける。地面は赤黒い土。粘液の匂い。瘴気が甘い。


 靴を脱いだ。裸足を地面につけた。


 方向を探した。あの引力。前回の転移で感じた「来い」の信号。


 あった。前回と同じ方向。引力が弱い。距離がある。前の転移先よりこの場所の方が遠いのかもしれない。


 「あっちです」


 木の群れの奥を指さした。靴を履き直した。


 歩き始めた。岸本が横を歩いた。手は繋がない。離れすぎない距離。岸本が右を見て、俺が左を見る。訓練で身についた隊形だった。


 足裏に意識を置きながら歩いた。脅威を感じたらすぐに止まれるように。


 森の中に魔物がいた。遠く。大きなものが一つ、動いている。こちらには来ない。通り過ぎていく。木の上には小さなものがいくつか。動かない。眠っているのか。


 三百メートルほど歩いたとき、岸本が止まった。


 「佐倉さん。木」


 岸本が指さした。俺も見た。


 最初は気づかなかった。でも岸本の目が捉えたものを、改めて見ると——


 木の間隔が変わっていた。


 ここまでの森は、木が不規則に生えていた。太いのと細いのが混在して、間隔もばらばらだった。ここから先は違う。木が等間隔で並んでいた。太さもほぼ揃っている。まるで植林したみたいだった。


 「不自然ですね」と岸本が言った。


 不自然だった。自然の森はこうならない。


 さらに歩いた。五十メートル。百メートル。


 地面の色が変わった。


 赤黒い土が、ある線を境にして暗い茶色に変わった。はっきりした境界線ではなかった。二メートルくらいの幅のグラデーションで、赤黒から茶色に移行している。でも目で見てわかるほどの違いだった。


 足裏の感覚が変わった。


 土の下の地脈の筋が、ここから先は密度が違う。さっきまでの森では筋がまばらに走っていた。ここから先は密集している。筋の太さも均一で、流れの方向が揃っている。自然の地脈ではなかった。整えられている。


 「地面が変わりました。ここから先は——管理されてる」


 「管理?」


 「地脈の筋が整列してます。自然にこうはならない。誰かがこの地面を整えている」


 蟲がいなかった。


 さっきまでの森には、地面を這う小さな蟲がいた。木の幹にもへばりついていた。ここから先はいなかった。一匹も。


 あの群れの魔物もいなかった。どこにも。足裏で広い範囲を探ったが、管理区域の中には蟲も群れの魔物も一匹もいなかった。全てが排除されている。


 「岸本さん。ここから先、蟲も魔物もいません」


 「いない?」


 「何かがここから追い出してるんだと思います。管理区域の中には入れないようにしている」


 岸本が周囲を見回した。等間隔の木。色の変わった地面。蟲のいない静寂。


 「静かですね」


 静かだった。今までこの世界で「静か」だったことは一度もなかった。いつも何かの鳴き声がして、地面で何かが動いて、木の上で何かが擦れていた。ここは違った。風の音だけ。木の葉が揺れる音だけ。それ以外何もない。管理された静寂。


 もっと奥に進んだ。足裏の引力に従って。地脈の整列がさらに密になっていく。


 足裏が何かを感じた。


 境界の向こうに、何かがいた。


 大きくない。巨大な魔物の重みではない。でも人間より重い。二本足。足を交互に動かしている。歩いている。一歩が重い。人間よりずっと大きな体が、二本の足で地面を踏んでいる。


 百メートルくらい先。木の群れの奥。こちらに向かってはいなかった。横切るように移動している。


 もう一つ。もう一つ。三つ。三体の同じくらいの重みが、それぞれ別の方向に動いている。


 そして、三体の足裏から、振動が出ていた。あの信号。あの会話。足踏みのリズム。三体が互いに通信しながら移動している。


 俺の足裏がそのリズムを拾っていた。会話の中身はわからない。でも三体がいて、歩いていて、話していることはわかった。


 一体が止まった。


 百メートル先で、一つの足のリズムが止まった。


 こちらを向いた気がした。足裏の感覚で。振動のパターンが変わった。さっきまで横に移動していたのが、止まって、こちらの方角に意識を向けている。


 俺を感じている。


 俺が向こうを感じているのと同じように、向こうも俺を感じている。地面を通じて。


 残りの二体も止まった。三体とも動かなくなった。


 沈黙。


 森が完全に静かだった。風も止まった気がした。


 俺は動かなかった。岸本も動かなかった。岸本は足裏の感覚を持っていないが、俺の表情で何かを読み取ったのだろう。息を殺していた。


 三体が、同時に振動を発した。短いパターン。同じパターンを三体同時に。


 前に聞いた信号とは違った。会話ではなかった。三体が同じことを同時に発している。一つの意味を、三つの体で。


 足裏がその振動を受け取った。意味はわからない。でも感覚として——拒絶ではなかった。攻撃でもなかった。


 確認、だと思った。


 お前は何だ、と聞かれている気がした。


 俺は何も送らなかった。「ここにいる」も「行く」も送らなかった。ただ立っていた。裸足で、管理区域の境界の近くで、百メートル先にいる三体の存在を感じながら。


 答えられなかった。「ここにいる」も「行く」も、あの問いに対しては何の意味もなかった。


 十秒。二十秒。


 三体が動き始めた。元の方向に。横切るように。立ち去るのではなく、自分たちの仕事に戻るように。


 会話が再開された。三つのリズムが交互に鳴り始めた。俺のことは——保留にされた、と感じた。今は相手にしない。でも拒絶もしない。保留。


 足裏がずきんと痛んだ。帰還の兆候。


 鼻血は出ていなかった。今回は集中しすぎなかった。向こうを感じるだけで、こちらからは送らなかった。受信だけなら負荷が小さい。


 岸本の手を握った。


 「何があったんですか」と岸本が聞いた。


 「百メートル先に三体いました。人間より大きい二本足。歩いていて、互いに会話していた。途中で俺に気づいて止まった。何かを聞かれた気がした。俺は答えられなかった。向こうは保留にして立ち去った」


 岸本が俺の顔を見ていた。


 「見えなかったです。何も」


 「見えないと思います。足裏でしか感じられない」


 「佐倉さんだけが感じられる」


 「はい」


 岸本が小さく頷いた。


 足元がぶよぶよした。


 園田に報告した。管理区域の発見。等間隔の木。地面の色の変化。地脈の整列。蟲と魔物の不在。そして三体の存在。


 園田が地図に新しい情報を書き込んでいった。管理区域の境界線。三体がいた位置。移動の方向。


 「佐倉さん。あなたは今、あの世界の魔族の領域の入口に立ったんです」


 「入口」


 「管理区域とは、彼らの生活圏です。蟲も魔物も入れない。木が整列している。地脈が整えられている。——これが彼らの世界です。人間で言えば、都市の境界に立ったようなものです」


 都市。あの森が都市。目には見えないが、足裏では感じられる。整えられた地面、管理された生態系、排除された脅威。見えない都市。


 「次に行ったとき、境界を越えますか」


 園田が考えた。長い間。


 「越えるべきだと思います。ただし——」


 園田がメガネを外して、テーブルに置いた。


 「越えたら、戻れないかもしれません。向こうが保留にしたということは、まだ判断していないということです。境界を越えることは、こちらから判断を求めることになる。その判断が敵対的だった場合——」


 「覚悟はあります」


 園田が俺を見た。メガネをかけていない園田の目は、いつもより小さくて、いつもより真っ直ぐだった。


 「佐倉さん。あなたが越えるとき、私は——」


 園田が言葉を止めた。何かを飲み込んだ。


 「データを取ってください。足裏で感じたことを全部。帰ってきたら、全部教えてください」


 帰ってきたら。園田はそう言った。帰ってくることを前提にしている。帰ってこない可能性を知っていて、それでも「帰ってきたら」と言った。


 「帰ってきます」


 テーブルの上の四つの遺品が、暗い部屋の中にあった。


 五つ目は増やさない。俺は帰ってくる。

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